ルドンとその周辺  夢見る世紀末 三菱一号館美術館

三菱一号館美術館
岐阜県美術館蔵 ルドンとその周辺  夢見る世紀末
                    展覧会:http://mimt.jp/redon2012/

          深淵の上にあるあの国籍のない場所こそ私にふさわしい
                    芸術家のうちあけ話    ルドン 私自身に みすず書房  

 ある時代のある地方の乾燥し荒れはてた大地のはずれに、黒い沼があった。幾重にも連なる丘陵の狭間で土地は深く沈み、地の底は粘土質にぬめり、その上を黒い泥水が覆っていた。沼は静まりかえっているように見えたが、時がたつとゆっくり水際が動き、変化して元の形をとどめなかった。時折風が吹いた。海岸からほど遠くない土地であったので、風にはかすかに潮のにおいがした。沼の水面にさざ波が立ち、それが先へと広がっていき、そしてまた静かになった。空は曇っていた。灰色のしみのような太陽が丘陵のふちから昇り、天空を回って反対側の丘陵へと落ちた。夜になると空は晴れ、地平のかなたから無数の星が現われた。沼の水面にも満天の星が映り、光跡を円弧に描きながら次々と地平に消えた。明け方には、はるか彼方の海から、霧が丘陵にまで押し寄せて音もなく斜面をすべり降り、沼を白く覆いつくした。

 時折沼には奇妙な植物が生えた。ゆっくりと天に向かってくねるように伸び、細長い葉をさし上げるようにひろげた。茎からは小さな丸い実が次々に生え、次第に大きくなり、風が吹くと鈴の音が鳴るように揺れた。日が落ちてあたりが暗くなると葉はたれて、十分に大きくなった丸い実に隙間が開いた。その中から光が漏れて、そこからおずおずと白い顔があらわれた。あたりを見回している事もあったが、たいていはちらりと見ただけですぐに隙間を閉じ、実のなかに閉じこもった。いくつかの夜が過ぎると、実の表面はは固く閉ざされたままひからびて、そのうちぴしゃりと沼の水面に落ちた。しばらくは水面に漂っていたが、黒く細長い虫、たくさんの足がある虫、大きな顎の目のない虫達が集まってきて実にとりつき、その重みで実は沈み、沼の底へと沈んでいった。
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 あるときのこと、そのように生えてきた植物の実の隙間に、しきりに外の様子をうかがう一つの眼があった。眼は右に左に、上下に動いて外の世界を探るように見ていた。夜のみならず、まぶしい昼にもごく薄く隙間を開けて見ているようだった。実はこれまでのものより大きく重くなった。あまりにもあちこちをよく見ようとしていたので、隙間は大きく開き、そこから手が伸びて沼の水に触れようとした。実は左右に大きく揺れ、中から黒い生き物が沼の水面にぼたりと落ちた。黒い毛で覆われ、額に大きな目が一つある怪物だった。怪物はあわてて元の実に戻ろうとしたが、重みから開放された植物の茎は跳ね上がり、実の殻は手の届かない高いところでゆれていた。怪物は植物によじ登ろうとしたが、手足はすべり、泥の中の虫の噛み付いてくる痛みで顔をしかめた。ついにあきらめて植物から離れ、沼岸に向かった。岸に着くと、足に噛み付いている虫を一匹一匹はずして沼に投げた。再び足を沼につけてはみたが、虫が寄ってきて噛むのでどうしようもなかった。沼の岸を左右に歩きながら、うらめしげにじっと植物を眺めた。植物は残りの実を沼に落とし、しだいに枯れて、音もなく沼の中に沈んだ。その最後のつるが見えなくなっていくのを、怪物は大きな一つ目をしばたいて見ているしかなかった。
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 日がたつにつれ、怪物の体の毛は次第に太く硬く針金のようになって、全身を覆った。沼に足を踏み入れても、虫は硬い毛に阻まれて噛むことができなくなった。腹が減ると沼に入って虫を捕らえ,足をむしり皮をむいて食べた。黒い植物が生えれば、その実をもいで食べた。怪物は沼の周りを歩き回った。沼は絶えず形を変えていたので、沼の周りを一周して戻ってきても、元の場所に戻ることはなかった。怪物はよく沼の中に入った。沼の中心に進むにつれて体は沈んでいったが、そのうち浮力がついて、胸から上は沈む事がなかった。沼の中に横たわり、全身を沼の泥に沈めながら、灰色の空を見上げた。泥は暖かく心地よかった。そのまま怪物が眠っている間、沼は時々触手を伸ばして怪物に触れてきたが、怪物には夢の中での優しい愛撫のようであった。空には時折羽を持った頭が飛んでいた。たいてい怪物に気づく事はなかったが、時折哀れみの眼をなげかけていくのもあった。
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 ある日いつものように怪物が沼の水に横たわっていた時、地平かなたの空に黒い点が現れたのに気がついた。怪物は頭をあげた。黒い点は次第に近づき、気球の形になった。ゴンドラには怪物が初めて見る人間が乗っていた。その顔は沼をじっと見おろしていた。気球は怪物の方向にまっすぐ向いながら高度を下げ、しだいに大きくなる影が彼の真上を通り、沼の岸に下りたった。気球は風に流されてひき倒され、静かになった。怪物は気球に近づいていった。
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 鞄を持った人が降り立った。画家であった。あたりを見回し、怪物をちらりと見た後、鞄の中から一本のペンを取り出した。ペンを持つ手を胸に当てて深呼吸の後、画家はその手を宙に高く掲げた。そしてまるで空中に画布があるかのように、ペンを一気に下ろした。するとそこに線が現われた。垂直の、黒く太いしっかりとした線が、宙に浮かんでいた。次にペンを持つ手を左から右へ引いた。水平の線が浮かび上がった。画家は休むことなく手を動かし、そのたびに空中に線があらわれ、次第に形というものができていった。描きだされた形は立体的に組み合わさり、ついには小屋へと変貌していった。怪物は画家のそばにまで近寄り、驚きのあまり口を開けたまま、画家の仕事をじっと見ていた。小屋には出入り口の扉が描かれ、画家はその中に入って扉を閉じた。

 怪物は小屋のそばに座って扉を見つめたまま、じっと待った。夜の闇が来て満天の星々が巡った。夜明けの霧が辺りを包み、そして晴れた。それでも怪物は同じ姿勢で画家を待っていた。灰色の鈍い太陽が上がると、扉が開き、画家は出てきた。怪物に一瞥をくれた後、手始めに小屋の周りで、細い線描を使っての小さな灌木のデッサンからはじめた。何本かの木を描いた後、太いペンに持ち替えて大きな木を描きだした。木は沼の傍から立ち上がり空に向かって伸びた。さらにその先を画家は木に登って描いた。枝は大きく広がり、葉は豊かに茂った。画家は描き続け、立派な一本の黒い木が出来上がった。そして次の一本に取り掛かった。一日が過ぎ、次の一日が来てもまだ画家は描き続けていた。しだいに沼の一角には不思議な森が出来上がっていった。画家はそこに見たこともない不思議な動物や昆虫を描き加えていった。
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                        ロドルフ・ブレスダン 善きサマリア人
 一心不乱に描いていた画家は、ある時、怪物がそばで彼が描く様子をじっと見ているのにようやく気がついた。画家は1本のペンを鞄から取り出し、怪物に与えた。そして身振りで、線を描くようにと伝えた。怪物は画家をまねて手を伸ばし、おずおずと空中に1本の縦線を引いた。しかしそれは薄くかすかなもので、眼の前でみるみる消えていった。もう1本、今度は力を込めて描いた。今度は先ほどよりも濃い線ではあったが、それでも線はしだいに揺らいで空気の中に溶けてしまった。怪物は首をかしげた。画家は笑って、自分の方を見るように促した。画家はペンを持つ手を胸にあてた。にわかに眼が異様な光を帯びて大きく見開かれ、全身の毛が逆立つかと思われた。ペンを頭上に掲げ、それを一気に下へと引き下ろした。そこに1本の線が現れた。怪物は飛び上がって驚いて歩み寄り、触ってみた。それはあいまいさの微塵もないしっかりした線であった。押しても引いてもびくともしない、太くてどっしりとした黒い線であった。怪物は画家のまねをして線を描いた。幾筋もの線を描いた。濃淡織り交ぜた線はしばらく空中に漂った後やはり次々と消えていった。怪物は消えゆく線を見送った後画家を見て、ついでペンを握る自分の手をじっとながめた。そして意を決したようにまた線を描き始めた。来る日も来る日もひたすら描き続けた。夜眠っている間ですら、夢の中で描き続けた。

 ある雨の降る日であった。描き疲れてうとうとしていた怪物の心の中に、1本の線が現れた。見たことのない美しい黒の線であった。怪物は目を覚ました。沼に雨が落ち、水面は無数の波紋で沸き立ち、彼の体からも水滴がしたたり落ちていた。怪物は大地を踏みしめて立ちあがり、ペンを持つ手を胸に当て、眼をつぶった。その線を思い浮かべ、念じ、思いを込め、手を高く掲げた。ペン先にすべての意識を集中させ、体のもてる力をすべてこめて、手をゆっくり下ろしながら、心の中の線を描いていった。眼を開くと怪物の前に黒い線があった。しばらく待ってみたがそれは消えなかった 。激しい雨が当たっていてもそれは消えなかった。怪物は触ってみた。それは黒く、しっかりとして揺るぎがなかった。そしていくらか暖かかった。怪物は大喜びだった。歓声を上げ、沼の中で小躍りして激しく水しぶきをあげた。そして画家のもとへと急いだ。
 雨はさらに激しくなった。沼はあわ立ち水かさを増して、その触手を伸ばし岸を這いずりまわっていた。怪物はそれを蹴散らしながら踊るように走った。画家の小屋についた。扉は開いて沼が中に侵入していた。画家の姿はなかった。怪物はあたりを探した。土砂降りの中、画家は地面に仰向けに倒れていた。黒い泥水に浸った体を虫が這いまわり、雨は容赦なく降り注ぎ、眼窩と開いた口には雨水がたまっていた。怪物は画家の体を抱き上げ、うごめいている虫を振り払った。その体をいくらゆすっても、動くことはなかった。いくら暖めようとして抱いても、冷たいままだった。怪物は大きな口を開けて何かを叫んだが、激しい雨の音で何を言っているのか分からなかった。涙を流したのかどうかも、たぎり落ちる雨のために分からなかった。

 怪物は画家を肩の上にかつぎあげた。画家の体は痩せて軽く、かつて絵筆を持っていた手は力なく垂れ下がった。怪物は沼に入り、沼の中ほどで画家の体を仰向けに横たえた。雨は激しいしぶきをあげ、水面は白く煙って見えた。怪物はじっと画家を見下ろした。画家の体に沼の中から多数のの虫が再び這いあがってきた。画家の体はゆっくりと足から沼の中へ沈み始め、ついで体が没し、最後に顔がゆっくりと黒い沼の中へと消えていった。怪物はいつまでもそれを見送っていた。
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 怪物は描き続けた。画家の鞄を探し出し、その中のペンを使い、描きかけだった画家の森を、ひたすら描きたしていった。大きな木のむろを描き、そこをねぐらにした。そして森は次第に大きくなり、沼の周りを囲むようになった。さびしくなると、怪物は奇妙な生き物を描いた。生き物はたいてい森の中に逃げてしまったが、蜘蛛はなぜか怪物のあとをついてまわり、そのうち怪物の肩の上にのり、怪物の硬い毛の間で眠るようになった。
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 ある時、沼のはたに白いテントが建っているのに怪物は気づいた。そのそばに机を出して、何かを熱心に調べている人間がいた。机の上にのっていたのは捕獲した森の生き物であった。その脇にはすでに多くの標本箱が積まれていた。彼は生物学者であった。怪物に気がつくと、手招きをしてそばに呼び寄せた。しげしげと怪物を観察し、肩の上にのった蜘蛛にも興味を持ったようであった。しかし蜘蛛は怪物の体毛の中に隠れ、怪物も触らせようとはしなかった。生物学者はしきりに怪物に語りかけた。怪物はそれが何であるかわからなかった。
 それは言葉であった。
 生物学者は怪物に言葉を教えた。これは私。そしてあなた。地、水、空、雲、風。もっと多くの言葉。言葉の裏側にある言葉。人々、都市、文明、歴史、世界。生き物たちで満ち溢れる世界について、世界の始まりについて、つかみ得た英知について。なぜ生きなければならないのかについて。
 怪物は言葉を覚えた。生物学者の持ち物には四角い紙束があって、中に言葉がしるされていた。それは書物であった。怪物はそれを読んだ。そして沼の外に、自分の知らない世界が果てしなく広がっている事を、知った。

 生物学者は沼に興味を持ち、その水を丹念に調べていた。泥を濾過して、顕微鏡でのぞいた。そして新しい小さな生き物が見つかるたびに感嘆の声をあげた。あるとき生物学者は新たな生き物を怪物に見せた。怪物は顕微鏡をのぞいた。それははじめ黒い点々の並びにしか見えなかったが、倍率をあげるとそれは言葉になった。

    湖の毒ある波の中には死がただよい
    その深い底には墓があった--------
    ここに自らの淋しい思念への慰めを汲み
    この暗い湖を楽園と思う孤独の人に
    あまりにも似つかわしい一つの墓が     * 

 言葉がみつかるのは泥の中だけではなかった。地面や空気、森にも、そして自分を含めた生き物の体にも。心の中までありとあらゆる場所に言葉は刻まれていた。

 いつの間にか怪物は言葉を知る事の喜びに浸って、一人書物を読んでいることが多くなった。蜘蛛も肩の上から一緒に覗き込んでいた。逆に生物学者は、沼から立ち上る毒気を長く吸いすぎたためか、疲れた顔をして何もしないでいることが多くなった。髪は乱れ、服装のことを気にしなくなり、じっと沼を見ていた。

ある風の強い日であった。空の雲は次々と形を変えながら激しく流れ、森の木々の枝はしなり、小枝や葉はひきちぎられ飛んだ。沼は波立ち、怒っているかのように絶えず形を変えてうねっていた。怪物が心配してたずねていくと、生物学者のテントはすでに跡形もなく、そのあたりを沼の黒い触手が這いずり回っていた。怪物は沼の中央に見慣れないものがゆれているのに気がついた。怪物は沼に入り、近づいていった。それは沼から生えた黒い植物であった。黒い葉、鈴なりの実、しかしその実の一つに縄をかけて、何かがぶら下がっていた。首をつった生物学者だった。死体の首は伸び、風にあおられて手足はばらばらに左右にゆれた。
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 怪物は生物学者の体を支え、縄をほどいて沼の黒い水の上に、あたかも毎夜の臥所に寝かしつけるように、横たえた。黒い波が彼の体をひたうち、においをかぎつけた虫が沼の底から湧きあがってきた。生物学者の体は虫に黒く覆われ、ゆっくりと沼の黒い水の中に没していった。いつしか風はやみ、夜になって満天の星が広がり、朝の白い霧が押し寄せ、それが晴れて視界が開けてきても、そのままの姿勢で怪物はじっと波を見ていた。ふと怪物の体を這い上がってくる虫がいた。その虫をひょいとつまみあげ、とげとげしい足をつるりともいで怪物は口の中に放り込んだ。目をつぶってゆっくりとその虫を味わった。

 目を開けると怪物の目は光を帯びていた。怪物は岸に戻り、ひたすら描き続けた。草を、葉脈の1本1本 薄いうぶ毛の細かなきらめき、新芽の柔らかさ、虫に食われ枯れ落ちる葉。描かれた後も植物は成長し、伸びゆく枝に葉が茂り、森は深くなった。怪物は森の中に、廃墟の神殿、倒れた門柱、崩れた壁の装飾、はるかな記憶、かすかな後悔、喜び、悲しみ、そして希望をも書き加えていった。
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 時折沼の森には他の世界の人間が現れるようになった。驚異の森を探検し、異形の動植物に目を見張った。そういう人間と怪物が出会うことがあった。人間達は怪物に恐れおののき、威嚇し、逃げ出した。怪物は沼の水におのれの姿を映し出してみた。いつも見慣れているはずの自分の顔が、おそろしく醜いことに気がいた。自分の体が、異形の姿をしていることにはじめて気がついた。怪物は木のむろの中にこもって幾日も泣いた。蜘蛛はよりそって、しきりに怪物をなぐさめようとした。

 あるとき黒衣の女性が沼の端に現れた。女性はじっと沼を見ていた。怪物は物陰から女性を見た。沼を見るその目を以前見たことがあった。遠くに行ってしまう人の目であった。怪物は不安になった。おずおずと女性に近づき、そっと声をかけた。女性は怪物を見た。その目は驚き、おびえ、震えだした。怪物はあわてて座り込んで頭を抱えた。そして、どうか怖がらないでほしい、と言った。そっと顔をあげ、何もしないから、逃げ出したりしないでほしい、と言った。この沼をそんなふうに見ていてはいけない、僕は以前、そういう目をした人がここに来て、どうなったのかを知っている、と言った。

どうか瞳を閉じて、と怪物は頼んだ。醜い姿があなたに見えないように。

女性は夜のとばりが下りるように、瞳を閉じた。
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瞳を閉じたまま女性は歩こうとした。怪物はその手をとった。女性ははっとしたが、そのままにしておいた。怪物は女性の手を引いて一歩一歩進んだ。沼の水際、森の手前の小さな小道。そして広場の中央の倒れた木の幹に、女性を座らせた。

 ひたすら怪物は描いた。木の幹は椅子となり、日よけの植物棚を描いた。つづいて白亜の壁の、小さな三角屋根に煙突がある家を描いた。大きな戸口が開いた部屋には暖炉、食器や本の棚に、居心地のよさそうな安楽椅子があった。怪物は森から木の実を取ってきて、女性のために食事を作った。細い細い繊維を描き、それを寄り合わせて糸にして布を織り上げ、女性のための服を作った。怪物はただひたすら女性のために描き続けた。穏やかな時が流れだしていた。

 長い時間がすぎた。いつのまにか森の草や木の枝にいくつもの小さなつぼみができていた。ある日怪物はその中のひとつが開きかかって、花がほころんでいるのに気がついた。近寄って毛むくじゃらの指を伸ばし、つぼみを取り、中を覗き込んだ。赤であった。初めて見る鮮やかな赤であった。怪物は花弁に指を触れてみた。指は赤い色素に染まった。また違う場所には、黄色い花がほころんでいるのにも気がついた。その花弁に指が触れると、今度は黄色に染まった。怪物が見回せば、そこかしこに花がほころびだし、数え切れないほどの色が生まれだしていた。

 怪物は指に色をつけ、それを高く掲げ、心の色を描き出した。

  喜びには恋する人の頬紅色を
  悲しみにはオフィーリアの歌のすみれ色を
  あこがれにはペガサスの翼の茜色を
  思い出には埋もれた遺跡のたんぽぽ色を 
  嘆きには手からこぼれる朽葉色を
  慰めには瞳の奥の深緑を  
  眠りには川底の竪琴の琥珀色を
  夢には耳にあてた貝殻の珊瑚色を        
  絶望には音なく降る雪の群青を
  孤独にはさまよう小船の赤錆色を
  祈りには窓の外に輝く若葉色を 
  
 そのように彼は色を置いていった。
 彼は女性の耳元でささやいた。

 さあ、瞳をあけて。なにもかもが見えるように。

 女性は瞳をあけた。目の前には一面の花畑がひろがっていた。名も知らぬ色とりどりの花々が大地をおおい、色彩の模様が水の際まで続いていた。女性は立ち上がって二、三歩前へ踏み出した。風を頬に感じると、まるで誰かがそっと息を吹きかけたように、足元の花々が揺れだし、その先の色彩がふるえ、それが水の際まで伝わっていった。対岸の丘陵には、オリーブグリーンの森の中に点々とライムイエローやマンダリンオレンジなどの岩が見え、沼の水は鏡のように対岸の丘陵を映していた。風がちいさなさざ波を立てるとその姿は乱れ、そこに空の色がまじりあった。振り仰げば、いつしか厚い灰色の雲はコバルトグリーンに染まり、それが切れてマリンブルーの空が現れだした。雲の隙間をぬって金の粉をまとった太陽の光が降りてきた。光は遠くの丘陵を照らし、森を豊富な緑へと彩をつけ、そして沼の水面に次々に落ちて広がっていった。。黒は深く底へと沈み、水は透明に澄み渡った。あたりはあふれんばかりの光に満ちて、湖面のさざ波にルビーレッドや、エメラルドグリーンや、サファイヤブルーの輝きが戯れた。
 女性は静かにこの光景を見ていた。太陽の光がお花畑を照らし、女性の純白の衣が金を帯びて風にそよいでいた。女性は彼のほうに振り返った。ついに太陽の光が彼の体にとどき、金色の粉が彼の体を包んだ。白い鳥が彼の肩から飛びたち、空を舞った。女性はほほえんだ。彼が生まれてはじめて見る彼のためだけのほほえみであった。そして彼の方へ手を伸ばした。
 彼はその時はじめて、もはや自分の姿が怪物ではなくなっていたことに、気がついた。
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* E.A.ポオ   湖 -----によせて(抜粋) 入沢康夫訳  ポオ 詩と詩論 創元推理文庫1979

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