フランシスコ・ゴヤ   カルロス4世の家族

 昔、スペインにフランシスコ・ゴヤという画家がいた。アラゴン地方の片田舎に生まれ、決して豊かとはいえない家庭に育ち、絵筆1本に己のすべてを賭けた。挑みかかるような目、がっしりとした体格、並外れた精力、みなぎる野心が彼の持つすべてだった。誰よりもよく見て、誰よりも学び、誰よりも努力し、誰よりも深く考えることによって、眼の前に現れる課題を乗り越えていった。彼には絵の依頼者の願望や弱点がよく見えた。そしてほかの画家には考えも及びつかない方法で独創的な絵画を描き、依頼者の心をしっかりとつかんだ。いつしか同業者たちは圧倒され、ついに画家の最高の身分たる宮廷画家まで上り詰めた。彼はあらゆるものを手に入れた。金、地位、名誉、女、そして当然死んでしかるべき大病の際ですら生命を失うことはなかった。聴力、それが彼が唯一失ったものだった。世の人々はこぞってこの男の絵画を賞賛し、同業者のやっかみも、この男にてとってはそよ風程度のものでしかなかった。
 しかし、彼には秘密があった。絵画の修行を続ける彼の眼に、いつのことからか、普通では見えないはずのものが見えてしまうようになった。はじめはぼんやりしたものでしかなかったが、時がたつにつれてその姿ははっきりと見えた。昼の時間、人々の間で公式の絵を描いている間は、そいつは控えめに見え隠れしていたが、夜になると、遠慮なく姿を現して彼の周りに集まり、夜な夜な彼を苦しめた。飛び交うこうもり、羽を広げたふくろう、獲物を伺う化け猫、猿や騾馬の顔の人間、うすら笑う妖術師、吊り下げられた死体。魔女たちは、アラゴンの北のはてから南のアンダルシアの平原まで、赤い光に照らされた夜の空を飛び回った。縛った赤ん坊が箒にぶらさがり、けたたましい笑い声が地平のかなたへと消えた。
 見えないものが見えてしまうゴヤの眼には、スペイン宮廷の人々のとりすました顔にも、異形のしるしが見えた。女たちの美しく装ったその白い皮膚の下に、人間とは違う生き物がうごめいている。異形の者が人間の皮をかぶって貴族になりすまし、権力者になっていた。立身出世を夢見る彼はそのことを決して他人に言わなかったが、宮廷画家となり得意の絶頂にいた彼の絵の中にまでも、異形の者達が忍びこむのを押しとどめることができなかった。
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 ここに示したのは、ゴヤが描いたある家族の肖像画である。1800年、スペインの栄光の時代が終わり、苦難の道に差し掛かったちょうどその頃の時の最高権力者、カルロス4世の家族である。この絵を見ている者は、次第に何かしらの違和感を覚えてくるだろう。きらびやかな衣装を身にまとった王家の人々が、一見何の工夫もなくずらりと並んだ集団肖像画。しかしここに集まっているのはうわべを取り繕って家族のふりをしている人々である。それぞれが微妙に視線をずらしてばらばらの方向を向き、家族が互いに会話の糸口を見いだすことができないようにしている。聞く耳を失った者達の、沈黙の世界。家族として当然あるべき会話、思いやり、愛情といったものがない。これはもはや家族ではない。フランス革命がおきてすでに10年余り、むごたらしく殺されたフランス・ブルボン家の記憶が生々しく残っている時代、このスペイン・ブルボン家の人々は、それぞれの孤独の中で、滅亡の予感になすすべなくおびえていた。ただ一人、暗闇の背後からこの絵の製作者たる聾者ゴヤその人が、冷めた目でこちらをうかがっている。
 この、宮廷画家としての最高の仕事を遂行しながらも、ゴヤには宮殿に巣食う異形の者の姿が見えていた。この集合肖像画にも悪魔が忍び込んでいるのがおわかりだろうか。この家族の人数は12人であった。その中に、13番目の、いるはずのない者がいる。画家を含めて左から5人目、豪華な宝石の髪飾り、透き通るような白い肌、きらびやかなドレス、唯一後ろを向いた若い女性姿の、家族の一員のふりをした悪魔である。悪魔は醜いことはない。奴らは美しい姿で人々を魅惑する。抵抗を奪い、呪いをかけ、そして破滅させる。どこの国の、どの時代でも同じだ。すきま風の吹いている家族には、やすやすと悪魔が入り込む。うわべだけを取り繕っていても、心に隙のある人間には、悪魔が呪いをかける。簡単なことだ。

 カルロス4世、右側前列に立つでっぷり太った白髪のこの男は、幼いころより愚か者とよばれて育った。ことあるごとに父カルロス3世に馬鹿よばわりされて、それでも父を頼っていた。彼の結婚が決まった時、花嫁を迎えるその夜をどうしてよいかがわからず、それを父に尋ねてあきれ返られたほどだ。父が死んだ後は、ゴドイという青い若者を父親代わりに信奉し、国政を預け、挙句の果てに妻を寝取られた。その子供をわが子として認知して、家族肖像画に一緒に収まっている。胸につけられるだけつけた勲章は、まるで愚かさの烙印のようで、王の愚鈍さを引き立てる役目しかない。パン屋のせがれに生まれたほうが、この男にとってどんなに幸せだったことか。ゴヤの手によるこの絵によって、恥辱にまみれた顔を、この男は未来永劫さらし続けることになった。
 ナポレオン軍がスペイン国内に侵攻し民衆の蜂起で王位から退いた後、彼は言葉巧みなナポレオンの招きに応じて王妃やゴドイとともにフランスに渡り、まんまと捕らえられる。この奇妙な三位一体はナポレオンに犬のように飼われていたが、最期は生まれ故郷のイタリアに一人戻り、そこで死んだ。妻の数十年にわたる裏切りを知ったのはいつのことであったろうか。その時、背後で悪魔がけたたましい笑い声をたてたのを、彼は呆然と聞いたに違いない。

 王妃マリア・ルイサ、絵の中央に堂々と立つこの家族の実質的な支配者。当時50歳ほどだったにもかかわらず、つやのないくしゃくしゃの髪、皺でたるんだ顔、きらびやかな衣服の下の惨めに太ったその体で、はるかに年をとって見える。ゴヤはよほどこの女を嫌っていたのであろう。ご自慢の腕はゴヤがわざとデッサンを狂わせてこれ見よがしに太く描いている。残酷なまでに醜く描かれたのに、王妃にはそれがわからなかったようだ。
 嫁いできた若き日の落胆は、いかほどのものであったろうか。愚鈍な夫、彼女を満足させられない夫、軽蔑せざるを得ない夫、失望の日々。心の中に悪魔が住み着くのにそう時間はかからなかった。この隙だらけの不幸な女は、若くて自信に満ち、押しの強い野心家ゴドイの誘惑にあえなく落ちた。初めて女の喜びを教えてもらった男の、偽りの愛の言葉、単に利用されているだけの言葉。この女に見抜けるはずもない。王妃は平気で嘘をつくことを覚え、ゴドイと2人で国王カルロス4世を好きなように操っていた。後の時代の人々は彼女のことをスペイン史上最悪の王妃と呼んだ。
 王妃が両脇にご自慢の腕を伸ばした先に、彼女の子供たちがいる。無邪気な子供に対するゴヤの眼は優しく、愛情をこめて描かれてはいるが、宰相ゴドイの子供であるとのもっともらしい噂が当時からささやかれていた。真偽のほどは当事者達にしかわからない。

 実は、ゴヤはこの絵を描くにあたり、まずは各人のスケッチを別々に行い、それをひとつの絵の中に配置した。だからこのように家族が一堂に会してポーズをとったことなどはなく、これはいわば架空の家族団欒なのである。この家族画の、左右は重なり合うように人が密集して置かれているのに対し、中央の王妃の周りはがらんとしている。これは嘘をつき続ける王妃が、右に立つ夫カルロス4世とも、左の息子フェルナンド7世とも、越えがたい溝を作っていることを暗示している。さらに言えば、カルロス4世とフェルナンド7世の親子は、完全に互いを無視していて、後に憎しみ合うことになる親子の運命を、この時すでにゴヤはあたかも知っていたかのようだ。

 左前列に立っている緑の服の若者は皇太子、後のフェルナンド7世である。悪魔の住む家に育ち、両親に無視され、愛されることがなかった若者を、ゴヤは気品のある姿で描いている。不幸な彼に同情を寄せたのか、はたまた後の国王ににらまれたら大変であるという計算が働いたのか。ゴヤは皇太子を家族に背を向けて立たせることで、家族の中で浮いた存在であることを表した。国王になった彼を再びゴヤが描くとき、その絵筆は容赦がない。粗野で、ごろつきのような、とても国王とは思えないその風貌 良心のかけらもない浅ましい餓鬼がそのまま国王の服を着てしまったような、信じられない描き方をする。
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 子供の頃大切にされなかった者は、人を大切にすることができない。信じてもらえなかった者は、人を信じることができない。感情を押しつぶされた者には、他人に感情があることがわからない。
この男は人を信じることがなく簡単に裏切り、おのれの虚栄のためには人の命などなんとも思わなかった。うぬぼれが強くて自分のことしか興味がなく、自分こそが絶対的な王であると時代を逆行し、意に反する人々を弾圧した。両親を憎み、国外追放して二度とスペインの土を踏ませなかった。これらのことは、彼が本当は自己評価の低い弱虫であることの証である。晩年は享楽に身を沈め、無残なまでに太って48歳で死んだ。狂人を国王に持ったスペインの暗澹たる時代であった。

 しかしこの集合肖像画のなかの人物で、悪魔が最も呪いをかけたのは、この絵を描いたゴヤその人だった。絵の依頼主をここまで愚弄して、どうせこいつらにはわからないだろうと見越した上で、無礼を働いたのである。この男こそ悪魔に呪われるに一番ふさわしい。悪魔は、この男に最もつらい呪いをかけた。その眼が醜いものしか見えなくなる呪い、あたりは汚いもの恐ろしいもので埋め尽くされ、明るいもの美しいものといった光を見ることがなくなる呪い、人間の暗黒の世界を命の続く限り描き続けなければならないという呪いだった。彼は虚栄、傲慢、悲惨、破壊、憎悪、この世にあるすべての悪を、強迫観念のように描き続けた。その醜悪な絵は、スケッチ帳や絵のキャンバスには収まりきれず、ついには彼の生活空間すべてを覆い尽くすに至った。それでも彼は描くことをやめることはできなかった。ゴヤは、この カルロス4世の家族 という絵を描くことで、死が絵筆を止めるまで人間の悪を描き続けなければならないという呪いを、受けたのだった。
 フランシスコ・ゴヤはフランスのボルドーで82歳で死んだ。当時としては異例の長寿であったのだが、死の間際までその呪われた手指で絵を描くことをやめなかった。


 あなたはこの絵をじっくりと見ていてはいけない。これからしばらくの時間が過ぎ、この文章を読んだという記憶もなくなる頃、ある寝苦しい夜に、あなたはこの絵の夢を見るかもしれない。がらんどうの大きな部屋にこの絵が1枚あり、あなたはこの絵の前に立って一心にこの絵を見ている。そのうちに気がつくはずだ。左から数えて5人目、豪華な宝石の髪飾り、透き通るような白い肌、きらびやかなドレス、唯一後ろを向いた若い女性姿をした者が、ゆっくりと、ごくゆっくりとその頭をこちらに廻らしてくる。次第に本当の顔が見えてきて、ついにそいつはあなたを見つける。そこにあなたは何を見るだろうか。そいつはにんまりと笑うだろう、またここに新しい獲物を見つけた、と。

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