出光美術館  明・清 陶磁の名品

出光美術館  明・清 陶磁の名品 官窯の洗練、民窯の創造

 ネット上で展覧会案内を見ていたら急に行きたくなった。東京丸の内、ビルの立ち並ぶ一角にある出光美術館の 明・清 陶磁の名品 の展覧会である。ある夏の日、朝から晴れ上がってうだるように暑い昼下がり、天気予報では南の湿った空気が日本列島に流れ込んでいて大気の状態が不安定になり、午後からは局地的に雷雨のおそれがあるとのことだった。炎天下の焼けたコンクリートの上を、汗をふきふき歩いてようやく美術館のあるビルに着くと、案内のおじさんがにこやかに専用エレベーターに誘導してくれる。美術館はその建物の9階にあって、さながら空中に浮かぶ美術館といったところか。我ながら私も相当の物好きだ、見慣れない陶磁器など見にいっていったい何が面白いというのだろう。焼き物の世界はいわば通の人達の閉じられた世界であって、これが素晴らしい、あれはみごとだ、わび・さびの味わい云々、などと言われても私などにはさっぱりで、その値段を聞いて初めて、おお、すごいと感嘆したりしている。たぶん器などという生活上の道具は、手にとって使ってみなければわからないもので、美術館で陳列ケースに入れた途端に死んでしまうのだ、などと聞いたようなことを考えてみたり、道具も九十九年経つと独自の魂を持つようになるという古い言い伝えがあったから、もっと古い道具である今回の展示品はさぞかし妖力にみちているにちがいない、などとありえないことを無理やり思ってみたりした。館内は鑑賞にきた人もまばらで閑散としていて、ゆっくりと陶磁の名品とやらを楽しむことができた。
 
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       白磁暗花蓮唐草文僧帽形水注 明「永楽年製」銘 景徳鎮官窯
 白い水差しである。底面から天に向かって開くハスの花のようで、濁りのない白色にたとえようもない気品を感じる。このような容器にコーラ、野菜ジュース、コーヒー、麦茶など入れてはそぐわないし、たぶん日本酒、葡萄酒にも違和感をおぼえるだろう。一番ふさわしいのはあくまでも無色透明の水であって、たとえ生ぬるい水を注がれてもおいしく飲める。夜、この水差しをコップとともに盆に入れ枕元に置いておくと、ふと目がさめた時、暗い中に白い水差しが美しく浮かび上がって、トイレに通う方の水分補給にちょうどよいだろう。水を飲み過ぎてトイレ通いが頻繁になり、睡眠不足になることがないように注意したい。

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青花花卉双鳥文輪花皿 明・永楽時代 景徳鎮官窯
 青が美しい。径56cmほどもある大皿であるので大人数の宴会向けである。一口大の食材を対角線方向に幾列もカラフルにならべてみると楽しい。和食、洋食何れにも合い、パーティーの多い家では重宝がられるに違いない。大きすぎて家庭用の自動食器洗い機に入りきらないのが難点で、洗う場合は柔らかいスポンジに中性洗剤をつけ、愛護的に洗うことが推奨される。重いので滑って取り落とさない慎重さも必要で、握力の弱い人、度胸のない人には不向きかも知れない。

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青花アラベスク文扁壺 明・永楽時代 景徳鎮官窯
 不思議な形にまず驚いた。これはどうやって作ったのだろう。ろくろで回してできた鉢を向かい合わせにしてつなげ、それに注ぎ口をつけて取手をつける。同じような形、同じような文様の容器があることから、流れ作業の多人数で製作したに違いない。土を掘る人、練る人、ろくろを回す人、組み立ての人、絵を描く人、窯で火を扱う人、などの完全分業制。それにしてもどうやったらこんなに形が崩れることなくきれいにできあがるのか想像がつかない。酒類を入れる用途であろうか。宴会で、酔っ払って手元が狂ってこの壺を倒したりすると、たいへん高価なこの壺を失うことになるので、いざ使うときは慎重にした方がよろしい。中を洗うのが困難なので、使用後はすぐに水洗いし、さかさまに立ててよく乾燥させておくことが肝要である。

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黄釉鉢 明「大明正徳年製」銘 景徳鎮官窯
 完璧な形、完璧な陶肌、完璧な色合いに度肝を抜かれた。私はこんなに美しい器を見たことがない。この器に温かいご飯を入れて○○園のお茶漬けをかけ、お湯を注ぐ。立ち上る湯気と香り、お茶づけと器の色の調和、しっとりと手におさまる大きさ、ふくよかな重量感、恍惚とする肌触り、口をつけたときのその胸の奥までもしみいる唇の感触。なんという美味さ、震えるまでの感動。人生においてもそう何度もめぐり合うことのできない至福のひと時を、この器とともに過ごすことができる。鼻水が垂れないようにティシュを用意しておけば万全である。意外と、ほうれん草の胡麻和えをちょこんといれて夕食の1品で出してみても十分楽しめるかもしれない。

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青花龍文壺 明「宣徳年製」銘 景徳鎮官窯
 堂々たる壺で、その存在感は圧倒的である。雲間を躍動する龍はその激しい動きを模しながらも装飾的であり、白地に映えるその青が美しい。龍の種族は三指族と五指族に大きく分類されるのだそうである。三指族は外国の風土でも耐えられる種族で世界各地に生息するのに対し、五指族は中国皇帝の居城にのみ住む龍とのことだ。後年の日本の江戸時代などに現れる日本の龍は表情が暗くて目つき鋭く人相(龍相?)が悪いのに対して、本場中国の龍の御顔はどこかあっけらかんとして余裕すら感じる。龍が描かれたこのような立派な壺は、自宅玄関の飾り棚に置いておくと見栄えがするだろう。明の時代の景徳鎮官窯の壺ともなれば、訪問者を驚かすには十分である。購入希望の方は出光美術館と直接交渉してもらいたい。

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青花龍濤文鉢 明「大明正徳年製」銘 景徳鎮官窯
 ずばり、ラーメン鉢である。明の皇帝様も麺類を食されたのであろうか。私ならばインスタントラーメンを食べる時に使う。ラーメンにはやはりねぎやもやしなどの野菜を入れるのがおいしい。にんじん、キャベツなどでもすばらしく、さいごにハムを入れると完璧である。ハムは煮てしまうと味が抜けるので注意をしたい。昨日の野菜料理の残りを冷蔵庫から出し、そのままラーメンに入れても私などはOKである。
しかしこのような平凡な使い方をしていたのでは実につまらない。使い方は各々が考えたらよかろう。じっと鉢を眺めていれば、良いアイデアも浮かんでくるだろう。それにしても鉢の底に龍の組み合わせをとは考えたものである。水が少し入れば龍のうろこは濡れてきらめき、揺れているように見える。さらに想像をたくましくすれば、龍は呼吸を始めて指を開閉するように見えるかもしれない。さらには頭をもたげ尾をゆっくり振り、水面には波が立つ。鉢の中の水が次第に増えて、ついには鉢から水があふれ出すのだが、私はじっと見たままの姿勢で動くことができない。水は床に流れ落ちて広がり、次第に深くなって靴の中からズボンまで濡れ、さらに水面は上がって腹から胸へとせまってくる。私は半狂乱になり、助けをよぼうにも声は出ず、手や足はははりついたように動かない。声にならないかすれ声で叫んでいるうちに顔面を水が覆い、とうとう水は頭をこえて上方へと昇っていった。すべての光は消えて暗くなり、見渡す限りの闇の大気、床は足元のはるかかなた下方へ落ちてゆき、その下に暗い山や谷がようやく見える。千切れそうな強い風、よこなぐりの雨、灰色のちぎれ雲がいくつも流されている。その雲の間を、蛇のように青黒く光るうろこでおおわれた胴の一部がちらりと見える。そしてまた雲、大雷鳴がひびきわたり稲妻の光で映し出された一瞬の影絵は蛇ではない。鋭いつの、長いひげ、闇が落ちまた稲妻、鉤爪の手足、長い体をしならせ、うろこを濡らして、ついに目の前に現れた。龍だ、青い龍だ。毛を逆立て、ひげをのたうちまわらせ、鉤爪でつかみかからんばかり、口から泡を吹く龍が宙に浮かんで、じっと私をにらみつけた。黄色みがかった眼球、怒脹した毛細血管、中央の漆黒の瞳、そのはてしない闇にじっと私は見入られた。・・・


 清朝年間の禁紫城中、多数のきらびやかな陶磁器で飾られている部屋に、龍の描かれた器をささげ持つ一人の少年がいた。名前は文超、字を千仁といい、江西の人である。白磁の器には精緻に青い龍が動き出さんばかりに描かれ、そのまわりには雲や雨の文様が規則正しく配されていた。部屋には彼と同じように壺や皿を持つ少年たちがいたが、それらの陶磁器には鳥や花、樹木、食べ物などの図柄がそれぞれ見事に描きこまれていた。これらは新作の陶磁器で、皇帝へのお披露目がされていたのである。少年達をはじめ身分の低い臣下は皇帝の顔を仰ぎ見ることは決して許されなかったので、少年たちはじっと足元だけを見ていた。彼らの前には壮年に達した師匠の陳承雲が立っていた。陶器をささげ持つ少年たちが一人一人前へ出てうやうやしく陶器を検見台におき、承雲はその新作の陶器の説明を皇帝に行なっていたのである。少し離れた数段高いところには、皇帝が大きな椅子に身を乗り出すように座り、その周りを数多くの臣下が控えていた。

 少年は誰かに見られているのを感じた。いぶかって目を上げるといきなり皇帝と目が合った。あまりの驚きに少年は震えだし、ささげ持っていた器を思わず取り落としてしまった。石畳に陶磁器が落ち、たけたたましい音がして破片が四方八方に飛び散った。室内にはざわめきが走ったが、皇帝が不愉快そうに軽く手を上げるとすぐに静まった。そして少年の首を指さし、はねる動作をした。これら承雲の銘が入った陶磁器は、子ども一人の命では購い得ないほど高価であったからである。二人の衛兵が超の脇に駆け寄り両側から挟みこんで引き上げ、部屋の外に連れだそうとした。師匠の承雲はあわてて数歩下がって床に平伏し、三度額を床につけながら超の命乞いをした。皇帝はしばらくの後、今度は何かを飲む仕草をした。衛兵たちは一礼し、超を連れ去った。
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青花紅彩龍文皿 清「大清乾隆年製」銘 景徳鎮官窯

 超は煮え湯を飲まされたのである。床に転がって苦しがる超を承雲は自分の宿につれて帰り、一月の間手厚く看護した。水が、ついで粥が喉を通るようになり、どうにか命を取り留めたとき、超の顔はやけどの跡で醜くひきつれ、声を失っていた。
 承雲は景徳鎮に帰った。超は承雲の後を身をかがめながらついて回り、承雲の言葉を何ひとつ聞き逃すまいといつも耳をそばだてていた。承雲は、まずは何事も眼でよく見て覚えることを超に話し、指でさした。超は遠い空、流れる雲、通り過ぎる風をじっと見ることを覚えた。
 ついで土を知れ、と言って採土場に行かせた。超は土を見て、土を掘り、土を触り、土のにおいをかぎ、土を味わった。行ける限りの採土場をみてまわったが、その間にも、さざなみのきらめきや、身をくねらす魚の輝きを見ることを忘れなかった。
 ついで土を練るようにと承雲は超に言った。超はひたすら土を踏んだ。超は足の下で粗い土が滑らかになりしっとりと足に吸い付くようになり、ヒスイのように輝きだすのを知った。その間にも、木や草の緑のうつろい、蝶や鳥の羽ばたきを見つづけ、心に描いた。
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五彩仙姑文皿 清・康熙時代 景徳鎮官窯

 5年がたち、ろくろをひけ、と承雲はいった。超はくる日もくる日も手が腫れて動かなくなるまでろくろを回した。手の中で器の形が次々と現れた。あらゆる形を習得し、あらゆる技法を身につけた。その間にも、超は行き交う人々の笑顔、怒り、悲しみ、満ち足りた顔を、ひたすら見て記憶にとどめた。
 10年がたち 承雲は超に火を扱え、と言った。陶器制作の工程や、土、釉薬の加減で火の入れ方は無限ともいえるほどの方法があった。火は橙から赤、紫、黄、緑へと七色に変化し、炎の中で器に命を吹き込まれていく様を、超は見た。美しい陶磁器の数々ばかりではなく、出来損ないで砕かれ捨てられた陶片や煙のたなびくかなたまでをも、超はじっと見続けた。
 窯に器を並べ火を入れると数日間は不眠不休となる。火入れしていない間のわずかの間、捨てられた陶片に超は絵を描くようになっていた。草、木、花、魚、動物など手当たり次第に夢中になって描いていて、承雲が来たのに気づかなかった。師に絵を描く許可を得ていなかったので超は恥じたが、超の絵が描かれた陶片を拾って見て、承雲は時が満ちたのを知った。承雲は自分の工房に超をつれて行き、多くの絵師たちに混じって絵を描くように命じた。超は、冬の氷が溶け出すように、殻を破った雛が鳴き出すように、堅いつぼみが花開くように、次々と描いた。
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粉彩花卉文椀 清「大清乾隆年製」銘 景徳鎮官窯

 たちまち超の絵は群を抜いてうまくなり、承雲は超を自分の隣に座らせて絵を描かせるようになった。超は承雲の視線が何を意味しているのかをすぐに理解し、承雲が指で示すだけで師の意図を汲むことができた。超の名は次第に知れ渡るようになり、彼の作画の陶器によい値段をつけるものが現れた。超の元に何がしかの金が入るようになったにもかかわらず、相変わらず身なりは薄汚れてみすぼらしく、体もろくに洗わず、ひどく醜くかった。承雲は超のために嫁を探したが、薄汚い超の元に嫁ぐものはいなかった。ただ一人、おとなしくて目立たない、生まれてこのかた笑うことのなかった女だけが承知した。名前を媛といい、かいがいしく超の世話をしたが、超は媛のことを気にかけることはなかった。
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紅地金彩唐子文鉢 清「大清乾隆年製」銘 景徳鎮官窯

 ある夏の日、朝から晴れ上がってうだるように暑い昼下がり、風が吹き、超は強い眠気に襲われた。作業机のわきで横になり、青い龍の夢を見た。目が覚めてからすぐに、超は白地の器に龍の絵を書いた。しだいに職人達が超の周りに集まり、最後に龍の目が入った時には小さなどよめきが起きた。超はみずから窯に器をもっていった。窯の職人たちは超の器を見ると黙って窯を一つ開けた。超は器一つだけを窯に入れ、みずから火を入れて誰にも手を出させなかった。出来上がりの時は窯の周りは黒山の人だかりとなり、超が器を持って歩き出すと人々は左右に引き下がって通路をあけた。超はまっすぐに承雲の元に器を持っていった。承雲は年老いて死の床についていた。承雲は眼を開き器を見て、震える手でその表面をなでた。そしてにっこりとほほ笑み満足そうにうなずいた。それが承雲の最期となった。
超は描き続けた。この世で最も醜いものが、この世で最も美しいものを作ると評判は評判を呼んだ。庭の花を描けばこの世の花よりもさらに華麗で、陶磁器にかぐわしい香りが漂うと言う者がいた。鳥を描けばまさに飛びたたんばかりで、にぎやかなさえずりやはばたきを空に感じる者がいた。しかし、その絵を描く前に超が見ていた花の木が、いつのまにか枯れているのをいぶかるものはなかった。鳥を描いた皿が窯から出された時、庭の鳥が枝から地面に落ちたのだが、それに気づくものはいなかった。
 あるとき超が家に帰ってくると、青い龍を描いた器の前で媛が立ち尽くしていた。媛はふり返りにっこりと笑った。初めて見た媛の笑顔は驚くほど美しかった。超は媛をじっと見つめ、媛を愛するようになった。花々の刺繍をあしらった光り輝く純白の絹の服を着せ、花々の咲き乱れる庭園の一角に媛を座らせた。超はほほ笑んでいる媛の姿をじっとみつめ、白亜の磁器の壺に、木々の花々と媛の姿を描き込んだ。そして壺が最後の焼成を終えて、この世のものとは思われないほどの、まさに息づいているかのような美しい姿を現した時、媛は急な病に伏してまもなく死んだ。
超の名声はますます上がりその磁器は万金をもって支払われたが、いつしか超に描かれた者は死ぬという不吉なうわさがささやかれるようになった。町のあちこちの木々が次々に枯れた。鳥が落ち魚が浮いている。描かれた子供たちは次々に死んだ。媛の葬儀で超に優しい言葉をかけていた者すら超を避けるようになった。言葉使いが他人行儀で丁寧になり、皆目を伏せるようになった。超が工房に来ると他の職人たちは手が震えて線が乱れ、仕事にならなくなった。
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青花松竹梅文瓶 清時代初期 景徳鎮民窯

 超は媛を描いた壺と道具のいくつかを持って山の中に入っていった。超は一人土を掘り、 土を練り、ろくろを回し、絵を描き、焼いた。数は少なかったものの出来上がった陶磁器は人間が作ったものとは思えないほどの美しさであった。新緑の輝き、草木の花々、舞い遊ぶ蝶、夕暮れの鳥、吹きおこる風、はるかに広がる山容。しかし、超の描いたすべての命は彼の陶磁器に吸い込まれてしまい、窯から見渡す限りの風景が、山の頂までもすべてが枯れはてていた。超の窯に通じる山道は登るにつれて枯れ木や動物の死骸が横たわり、時に人間の死骸も見たと言う者もいて、小川の水や吹く風でさえも死を思わせる冷たさに満ちていた。もはや神の技を思うがままに操る者と言われ、邪心を持って超に近づく者はもちろん、屈強の盗賊達でさえ超の前で命を落とした。身の回りのこと、作業の手伝いは素朴な村民たちがかなりの代価で雇われたが、村民らも超を恐れていた。布で顔を隠し、まともに超の顔を見ようとする者はなく、彼がやってくると地面に額をこすりつけて拝した。代価以上の金を請求したり盗む者はいなかった。超の作り上げた陶磁器は商人がやってきてかなりの高額な金と交換していったが、商人は望むだけの値で売りさばくことができた。
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粉彩百鹿文牛頭尊 清「大清乾隆年製」銘 景徳鎮官窯

 ある時、皇帝からの使者が超の元に現れた。甲胄を身にまとい肩をそびやかし傲慢な赤ら顔で見下しながら皇帝からの招聘の手紙を読んだ。読み終わってじっと超を見据えた。超も静かに使者の顔を見かえした。急に使者の眼に不安の色があらわれ、おびえたように手紙を置き、できるだけ威厳を持って歩こうとしていたが、足が小刻みに震えているのが見てとれた。
 超は支度を始めた。数多くの壺や皿を包み川岸まで手分けして持って降りた。荷物を積み込み、船は川を下り始めた。おりしも黒雲がわきおこり空を覆い、雨が降り出した。猛烈な風が吹きはじめ、はげ山に降る土砂降りの雨はとどまることなく川に流れ込み、川は濁流と化した。船は木の葉のように揺れ、荷綱がゆるみ、器が1つ転がるのを超は見た。青い龍の器であった。龍の器は船から落ちて濁流の中に没した。周囲は闇に包まれた。雷鳴が響き否妻が光り、巨大な龍が川の中に現れ、しぶきを上げながら空へと飛び上がった。濡れたうろこが光り、雄たけびが天地を揺るがした。しばらく空を舞った後、超の船の真上に降りて来た。超の船は揺れに揺れ、積み荷がほどけて次々に川に没していく。超は媛を描いた壺を抱きかかえて龍を見た。龍は毛を逆立て、ひげをのたうちまわらせ、鉤爪を開き、口から泡を吹き、怒脹した毛細血管の黄色みがかった眼球で超を見た。そしてゆっくりと尾をふりあげ、超の船めがけて振り落とした。大音響とともに陶器の破片が飛び散り、船は砕けて川に没した。壺を抱きかかえたまま超も濁流に沈んだ。

 嵐が去り濁流が収まって元の川の流れになると、人々は競って超の陶磁器を川底から引き上げようとした。しかし川底から引き上げられたのは真っ白な陶器の破片ばかりで、絵の描かれたものは一つとてなかった。ある人達は、嵐の中を龍が船を沈めたのを見たと言った。またある者は、超の船が沈む時、水面から花や蝶や鳥が空に向かって舞いあがっていくのを見たと言った。さらに、龍の背中に男と女の人影が乗って彼方へ飛んで行ったのを確かに見たと、断言する者さえあらわれた。人々はそれらのうわさを語り合って倦むことを知らなかった。
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粉彩桃花文瓶 清「大清乾隆年製」銘 景徳鎮官窯

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