牧谿 遠浦帰帆図  その2

     (牧谿 遠浦帰帆図  (もっけい えんほきはんず) その1からの続き)

 風は順風で、波を切りながら面白いほど速く船は進んだ。これは幸先がよいと商人は言った。湖の小島の脇をすべるように通り過ぎ、その日の夕刻には湖が長江に流れ込むほとりの町についた。舟を乗り換えるために二人は降り立ち、次の船を待つ間その町に逗留することになった。
 
  昔聞く 洞庭の水 
  今上る 岳陽楼
  呉楚 東南にさけ
  乾坤 日夜浮かぶ 
  親朋 一字無く 
  老病 孤舟有り 
  戎馬 關山の北 
  軒に憑って 涕泗流る
               (注4)

 有名な建物を見物などして時間をつぶしているうちに、長江へ乗り出す船が港に入ってきた。それは牧生が生まれて初めて見る大きな船であった。大量の荷物の積み下ろしがあり、多くの人たちとともにあわただしく乗り込んだ。

 二人は荷物の積みあがった狭い船倉に、たくさんの人々と一緒に押し込まれた。いやな臭いがこもる船倉が嫌で、昼間はできるだけ新鮮な空気を吸いに上に出ていた。大きな川であることを人の話で聞いてはいたが、実際に見る長江は圧倒的であった。まるで故郷の湖ごと川になって流れているようなもので、川の対岸が遠すぎて霞んで見えない事もしばしばであった。陽に輝く波しぶき、雨にけぶる河岸、見たことのないきれいな鳥、跳ね上がる巨大魚。船のそばを一緒に泳ぐ白い魚は川イルカだと教えられた。珍しいのは自然ばかりではなかった。漁の網を投げる小さな舟からこの船の倍以上はあろうかという荷物満載の巨大船まで、川には多数の船が行き交っていた。きれいな朱に塗られ装飾が施された美しい船や、張った帆が皆破れているオンボロ船まで。すべてが牧生には興味深く、いくら見ていても見飽きることがなかった。途中でよった港町の大きさに驚いていると、都ははるかに大きいぞ、と同行の商人が教えてくれる。

 いよいよ長江から都へ向かう運河の入口にたどりついた。舟の数は格段に増え、運河の手前でしばらく順番待ちをしなければならなかった。運河は船同士がようやくすれ違えるほどの幅である。岸の向こうには田畑が広がり、所々アーチ状の橋が架かる。前の船との間隔が狭くなり身動きが取れなくなる時もある。そんな時は近所の小舟が渋滞する船のそばに寄ってきて、食べ物などを売りにくるのだった。

 運河の両岸の家の数が増え、町中を運河が通っているほどになると、運河の行く手に巨大な城壁が見えてきた。壁は高く、どこまで続いているのか見当もつかない。都だ都だと、同乗の人たちが口々に言いだした。牧生はもちろん、のんびりとくつろいでいた人たちはにわかに下船の準備で動きまわった。それが一通り済むと、皆船の甲板から都の城壁を見上げている。その壁の手前の、都の玄関口である港に船は入っていった。運河はその先も続いていて、城壁の水門から都の中に船のままで入ることもできるのだが、荷物の検査に時間がかかるので、牧生たちはそこで下船して歩いて都に入ることにした。

 港の河岸や広場には柳の老木が何本も茂り、その根元に飲食店があるところもある。荷物があちこちに積み上げられ、たくさんの人や車が集まっていた。荷物を担ぐ人夫、馬で車を引く人達、どなりあいの喧嘩、まわりに集まる人、食べる人、しゃがむ人、寝転がる人。まるで蟻の巣を掘り返したみたいだと牧生は思った。船との懸け橋を渡って上陸した後、同行の商人は慣れたもので、そんな人ごみをすいすいすり抜けながら歩いて行く。なれない牧生は突き飛ばされそうになりながら、商人を見失うまいとついていくのがやっとだった。

 都の城壁には上部がやぐらになっている巨大な門がある。北の夷敵に備えるため門は幾重にもなっていて、たくさんの兵士が警護している。そこを通って都に入ろうとする大きな人の列に二人は並んだ。こわおもての兵士たちが目を光らせ、都に出入りする人や荷物の点検に当たっている。中にはわきに引っ張られて尋問をうけ、数人がかりで荷物をあらためられている輩もいる。順番が来た。たいした荷物を持たない二人は、いかめしく武装した兵士にじろりと顔を見られ、一言二言話しただけで城門を通り過ぎる許可が出た。

 高い壁の中は都である。まっすぐ伸びる広い通りが、碁盤の目のように交差しているのに気付くのに時間はかからなかった。道路際には大小の建物が隙間なく並び、その屋根瓦の波のむこうに、幾重もの屋根が重なる仏塔が、いくつも抜きんでて見えた。城外にもまして通りは人であふれている。その大変な活気が牧生を驚かせた。大皿に食べ物を盛った店がいくつも並んでいる。それを売り買いする人の掛け声が重なり合い、そのわきでは食べ物を頬張りながら大声でしゃべる人たちがいる。やっとそこを抜けたかと思うと今度は魚や干物ばかりを売っている店が集まっていて生臭い。次の界隈では動物の肉と一緒に生きている動物が売られている。人の喧騒に鳥や獣の鳴き声がまじりあって、互いに怒鳴らないと何を言っているのか聞こえないほどだ。その先もその先も、いつまでたっても店屋が途切れることがない。通路は人の波でごったがえしているので、あきらめて流れに乗って歩くしかない。そこに牛やロバの引く車が強引にわってはいる。物売りが食べ物の盆を抱えて大声で売りつけにくる。荷物満載の車が人の波に倒れかかって悲鳴が上がる。通りの店から誰でもかまわず声をかけられ、商品の効用をまくしたてられる。みんな大きな身振りで大声を出し、かしましくてたくましいこと限りない。

 目的の李積成の屋敷は気が遠くなるほど遠かった。同行の商人は遠回りになるにもかかわらず親切にも牧生につきあってくれた。にぎやかな大通りや運河にかかる橋をいくつもこえて、ようやく目的地にまでたどりついた時には、日は暮れて、牧生はもはや歩けないほどに疲れ切っていた。

 屋敷の門は見たこともないほど大きくて、牧生は驚いていた。開かれた扉の間を多くの若者達が忙しそうに出入りしている。極彩色の龍や虎などが彫刻されている贅沢な作りの門だった。呆然と見上げていた牧生は、では達者でな、俺はこれから回るところがあるから、と言う声を背後で聞いた。牧生が振り向いた時には、商人の後姿が街の人ごみの中に消えていくところだった。長い間親切にしてくれた礼を言う暇もなかった。
 一人残され心細くなった牧生がこわごわと門を通ろうとすると、太い声で呼び止める者がいる。誰だおまえは。許可もなく勝手に入ってはいかん。
 門柱のわきに体の大きな髭面の門番が立っていた。びっくりした牧生はあわてて自分の名を名乗り、王老人の手紙を背嚢からとり出した。門番は李積成のあて名のある封印された手紙の表裏を確かめ、牧生の顔をじろじろ見た。しばらくすると門番は手紙を牧生に返し、通れ、とだけ言った。

 広い玄関に立つと廊下がまっすぐ伸び、建物にどれほどの奥行きがあるのか見当もつかない。たくさんの人が忙しそうに行き来しているばかりで、案内を頼んでみても、こちらが子供のためか相手にしてくれない。さんざん声をあげて誰彼かまわず頼んでいると、客の応対係とおぼしき人が面倒臭そうに出てきた。顔や頭髪が脂ぎっててかてか光っている。王老人の手紙を渡し、屋敷の主、李積成に面会したいと伝えた。そのものは黙って手紙を確かめ、ふんと鼻を鳴らし、手招きで廊下の先の部屋に案内した。それからまたさんざん待たされた。ようやくバタバタと音がしたかと思うと乱暴に扉があき、絹の光沢の立派な服をきた人が、眉間にしわを寄せて立っていた。手紙を片手で握りつぶしている。後ろには数名のものが辞を低くしてつき従っていた。
「おまえが牧生か。」
「はい、牧生と言います。」
「・・・あいさつはそれだけか」
「これからごやっかいになります。よろしくお願いします」
牧生は深々と頭を下げた。主は埃にまみれた牧生の体を上から下までじろじろと見た。そして付きのものに、「おい、こいつの世話をしてやれ。またごくつぶしの居候だ。」と言って、足早にその場を去った。
対応係の男は横柄な態度で言った。「ではついてこい、ぐずぐずするな」

 連れて行かれたのはそこから延々と歩き奥から外に出た、古い小さな建物の一室だった。そこがお前の場所だ。そしてその男は手のひらを出して見せた。牧生が何のことだかわからないでいると、気が利かねえ田舎者だな、と捨て台詞を言ってその男は行ってしまった。何か荷物が積まれてある部屋の一角に横になれるだけの空間があった。カビ臭くて布団はなく、おまけに隙間風があって糞尿のにおいがした。それでも疲れ切っていた牧生は倒れるようにしてそこで眠ってしまったが、夜中にさんざん虫に刺されて悩まされることになった。朝が来て目が覚めてみると、そこは古いがらくたやぼろ布のようなものが積みあがった倉庫であるらしかった。

 当時牧生はなぜ自分がぞんざいに扱われるのかがわからなかった。だがあとになってみればよく理解できる。必要だったのは金だったのだ。李積成は王老人に一時師事したこともある知識人で、都の官吏にも親しい友人がたくさんいる人物であったのだが、もとはと言えば商人である。たくさんの船や車馬を所有して都の流通を握り、宮廷にも大量の物資を収めていた。
 財力に物を言わせ、広大な屋敷の中に、裕福な地主や商家の子弟たちを預かり、科挙の準備をさせる学問所を設けていた。商人らしくこの屋敷の中ではすべてが商売の原理で動いていた。寝る場所も、食事も、寝具も、講義も、すべてに金を支払うことが原則だった。まともに扱ってほしければ、最初からそれ相応の金を包まなければならなかったのだ。

 次の朝からあらゆる事柄にお金を要求され、牧生は面食らった。部屋代食事代はもちろん 布団料、食器や箸の使用料、トイレ料、講義に出ればその受講料、机の前に座ればその座席料、紙から墨、筆に至るまですべてに使用料がついていた。田舎で育った牧生にはそのような習慣がなかったので、すべてに対価が必要であることを理解するまで時間がかかった。
 はじめての受講の時は持参した青い礼服を着て出席した。授業内容はたいしたことはなかったのだが、牧生の礼服が時代遅れだと物笑いになった。食べ物でわざと服を汚され、拭き取ろうとしても染みはとれず、それをそのまま着て次の講義に出た。他に着る物はない。持参したお金はどんどん減っていく。何も知らない牧生に向かっていいかげんな理由をつけてはお金を巻き上げる性悪者までいて、牧生はまたたくまに文無しになった。それからは稼がなければ、生きていくことさえままならない。

 牧生は金になることなら何でもやった。家の中の掃除はもちろんトイレの掃除や庭の掃除、よごれものの洗濯、荷物運び、食器洗い 届け物の使い走り。要領が悪くて怒鳴られ、掃除するわきで金持ちの学生がわざとごみを散らかすのも黙々と片付けた。仕事を選ぶことはできなかった。なれない仕事でくたくたになり金を握って講義に出る。疲れと講義内容の低さからついうとうとしてしまうのだが、上級の講義に出るには金が足りない。稼いだ金のほとんどを勉学にかけ、食事さえも節約していたので、牧生はやせていき身なりはみすぼらしくなった。

 金持ちの白某というバカ息子と子分連中には特に目をつけられ、いじめられるようになった。乞食、乞食、あっちへ行け、おまえは臭い。毎日のようにののしられ、こづかれたり突き飛ばされたりした。牧生は抗議することもなく歯を食いしばってそれに耐えた。誰も味方にはなってくれなかった。牧生の顔から喜怒哀楽が消え、一日中凍ったような暗い表情をしていた。夜、自分の部屋に戻り冷たいせんべい布団にもぐりこんでから、ようやく気持ちが緩んで涙が流れた。牧生は故郷を思い、王老人からもらった詩選集を袋から取り出してゆっくりと撫でた。暗くて字が見えなくても、そこに載っている詩歌が次々と頭の中に蘇り、牧生はそれを小声でずっと口ずさんでいた。

 ある日、疲れ切った牧生が自分の寝床に帰ってくると、朝にはあったはずのその詩選集が無くなっていた。牧生は大声を上げ、狂ったように騒ぎ立てた。泣きべそをかきながら王老人の詩選集を知らないか、と聞いてまわった。居合わせた者はびっくりして、首を振るばかりだった。詩選集は見つからない。牧生は一晩中眠れなかった。

 次の日講義に出てみると、あの白某が見せびらかすように牧生の詩選集を手にし、ページをめくって音読している。その周りにいた子分連中が牧生に気づき、にやにやしながら肘でつつき合った。牧生の顔はみるみる真っ赤になった。両手をぐっと握りしめながら白某のそばに行き、努めて冷静に言った。
「それは私の本だ、返してくれ。」
「何を言う、これは私の本だ。いいがかりはやめてくれ。こんな高価な本をどうして貧乏人のお前が持っている」
「それは国を出る時に王老人が餞別に私に下さった本だ。とても大切なものだ、返してくれ。」
「どうしてお前のものだと証明できるのだ?名前でも書いてあるのか?」
「書いていない」
「そらみろ、ここに私の名前が書いてある。これは私の本だ。」
そうして本の裏表紙を見せた。そこには白某の名前が大きく書いてあった。
「大切な本になんてことをするんだ。」
そう怒鳴ると牧生は息子に掴みかかった。奇襲を食らって初めはひるんだ白某も、体の大きさに物を言わせて牧生の腕をつかんでねじりあげた。痛みに悲鳴をあげながらも牧生は相手を蹴り上げようとする。見物人が集まってきてやんやの喝采をはじめた。

 騒ぎを聞きつけた屋敷の主李積成が、とりまきを引き連れてそこへ現れた。
「やめんか、何の騒ぎだ、神聖な学問所を冒涜するのは誰だ。」
一瞬で静まり返り、掴み合いをしていた二人は離れた。
牧生は落ちていた詩選集を拾った。表紙が破れて離れそうになっている。牧生の顔色はまっさおで固くこわばり、その目ばかりが異様に光っていた。服は破れ、そでが肘からぶら下がるようにしてかろうじて牧生の体に付いている。
「わけを言ってみろ」
白某が本を指さしながらこたえた
「私がその本をよんでいたら、こいつがやってきて、自分のものと言い張ったのです。私のものなのに。名前が書いてあるのが証拠です。」
ついで李積成は牧生の顔を見た。牧生は挑みかかるようにして言った。
「これは私が国を出る時、王老人に頂いた大切な本です。そばに置いて毎日読んでいました。それをこいつが盗んだのです。」
李積成は言った。
「見せてみろ。」
李は詩選集を受け取り、ページをぱらぱらとめくっていた。しばらくのち李は言った。
「ならばこれがどちらの所有になるのか、調べてみよう。白、この本の巻頭にある詩は何だ。答えて見ろ。」
「えー、天地はとこしえに没せず
  山川は・・・時無し       
  草木は常露を得て
  これを・・・いきいき・・・せしむ」
「白、いまひとつだな。」
「自分の本であっても、ぜんぶ暗記できているわけではありません。」
「わかった。それでは、ええと、おまえの名前は。」
「牧生です。」
「では牧生、答えて見よ」
「 天地はとこしえに没せず
  山川(さんせん)は改まる時無し       
  草木は常理を得て
  霜露(そうろ) これを栄悴(えいすい)せしむ 
  ・・・・・・・・・・・」  
                       (注1)

 牧生はかつて故郷の湖に向かって詠唱したその陶淵明の詩を、完璧にそらんじて見せた。
「よろしい。では白、次の詩は何か」
「・・・・」
「牧生は答えられるか」
「 わかくして俗にかなう韻無く
  性 もとより丘山を愛す
  誤りて塵網の中に落ち
  一たび去りて三十年
  ・・・・・・」
                       (注5)

次の詩も完璧だった。
李積成はにやりとし、ぱらぱらとページをめくった。
「風は急に天高くして・・・。さて、その次は。」
次いで牧生がこたえる。
「 風は急に天高くして 猿嘯哀し
  渚は清く沙は白くして 鳥飛(ちょうひ)廻る
  無辺の落木は蕭蕭として下ち
  不尽の長江は滾滾として来る
  万里 悲秋 常に客となり 
  百年 多病 独り台に登る
  艱難 はなはだ恨む 繁霜の鬢
  潦倒 あらたにとどむ 濁酒の杯」
                       (注6)

 李積成はうなづき、本を閉じた。興味深げに牧生の顔を見ながら言った。
「では、これはわかるかな。
  世におるは大夢のごとし」
牧生はつづけた。
「 なんすれぞ其の生を労する   
  ゆえに終日酔い
  頽然として前えいに臥す
  覚め来って庭前をみれば
  一鳥 花間に鳴く
  借問す 此れ何の時ぞ
  春風 流鶯語る
  これに感じて嘆息せんと欲す
  酒に対してまた自ら傾く
  浩歌して明月を待ち
  曲尽きてすでに情を忘る」
                      (注7) 

 牧生の答にはよどみがなかった。李積成はうなずいた。 
 周りで見ていた者たちから笑いやあざけりの表情が消えた。李はとりまきに向かって、四書五経や歴史書を、何でもいいから持ってこいと言った。そして届けられた幾冊かの本を机に広げ、それを見ながら牧生に質問を始めた。はじめ簡単なものであった問いはすぐに高度に、困難な問題へとなった。牧生は迷うことなく答え続ける。ついで紙と筆が用意され、解答を書くことになった。乞食の様な格好の子供の薄汚れてあかぎれた手元を、皆がかたずをのんで見つめている。そして牧生が書きだした堂々たる楷書の迫力に、周りからため息が漏れた。気がつけば白某はいつの間にか姿を消していた。

 そんなやりとりがどれくらい続いたことだろう。しばらくの沈黙の後、李積成はいった。
「今やこの詩選集の持ち主が誰であるのかは明らかだ。白はどこへ行った。いないのか。仕方のないやつだ。
牧生、お前はよく勉強をしている。本日よりお前を初等の教師に任じる。」
周りにいた者たちはざわついた。とりまきたちは不満げに文句を言った。
「しかし李師よ、今までこのような形で、試験もなく下働き書生がいきなり教師になった例はありません。ましてこのように薄汚い子供が教師などとは。」
「試験は今おこなった。年齢は関係ない。牧生は教師であるにふさわしい。そうは思わなかったか。」
言葉を返す者はいなかった。
李積成は微笑んで詩選集を牧生に手渡した。
「これからも精進せよ。」
「ありがとうございます。」
牧生は深々と頭を下げた。体がふらついてよろけた。
「おい、まずはこいつに腹いっぱい飯を食べさせてやれ。倒れそうだぞ。」

 牧生は教師となった。しかしそれは屋敷の中で講義ができる権利を手に入れただけで、すぐに生徒がつくわけではない。はじめは小さな部屋の片隅で、ごく初歩的な内容を一、二名の幼児に教えた。それでも牧生は決して手を抜くことなく、細かいところまで気を配って懇切丁寧に教えた。しかしお金の方には容赦がなかった。教えた分はきっちり金を要求し、払えない者は相手にしなかった。初めの収入は微々たるものであった。しかし牧生の講義はわかりやすく丁寧だとの評判を得るにつれ、収入はふえていった。相変わらず質素な身なりではあったが、牧生は勉学に関しては金を惜しまず、学問所の他の連中が都の歓楽街に出かけた時も、惜しむように書を読んでいた。

 数年のうちに牧生は李積成の屋敷の中でも知識が深く、生徒の数が多い人気の教師になった。そのうえ李積成の機嫌を損ねないように慎重にふるまったので、李積成のお気に入りのとりまきとなった。科挙試験に志願する推薦状も、李積成からうけることがでた。
 科挙は国家の官吏採用のための試験で、3年ごとに開催されていた。牧生は自信満々で試験に臨んだのだが、合格はしなかった。その次も、その次の科挙の時も結果は同じであった。どうやら問題は金であった。そのころの都では、優秀な頭脳だけでは科挙に合格することはなかなかおぼつかなかった。試験で有利に扱ってもらうためには、試験官への莫大な心付けが必要であった。教師の給金程度では何ともならない。そんなことで3年ごとの科挙試験をいくら受けても、合格はできなかった。

 牧生は一計を案じた。李積成に年をとってから生まれた娘がいる。醜く肥満しているうえに我儘でひねくれていていたので、数ある縁談もことごとくうまくいっていない。李積成は都の実力者、金はうなるほどある。李師の婿になれば、科挙試験にかかる費用を何とかしてくれるに違いない。

 牧生は早速実行に移した。娘はいままで愛を語られたことがない。いくら経験の乏しい牧生であっても、恋に飢えた女を誘惑することなど、造作もないことだった。初めは目の動きだけで気を引き、ついで結婚をほのめかせながら娘に近づいた。娘はたちまちのぼせあがり、呆れたことにすすんで体を許してきた。その口がつんとにおうのが耐え難かったのだが、牧生は気づかれないようにふるまった。やがて妊娠が明らかとなり、娘は牧生を引っ張って父李積成のもとに行った。初め李積成は怒ってはみせたものの、娘の強引な懇願にあきれて結局は二人の結婚を許した。優秀な牧生ならば将来出世するかもしれないし、持て余し気味の末娘が片付くのなら願ってもないことだった。

 余りにもうまくいきすぎて牧生は拍子抜けした。大切なことが抜け落ちているのはわかっていた。しかしそれが何だというのだろう。どんな苦労も厭わないと誓ったではないか。科挙に合格して天下国家に有用な人物になる。それが自分の本当の願いなのだ。そう自分に言い聞かせていた。

 牧生は故郷の両親に手紙を書いた。だがいつまで待っても返事はない。娘のつわりはひどくなり、いつまでも結婚を延期するわけにはいかなかった。結婚式は華々しかった。都中から多くの者が祝いにやって来た。しかし牧生の縁者は一人もいない。ごぼうのように細い新郎と、かぼちゃが着飾ったような新婦のとりあわせは異様で、うわさ好きの都人のかっこうの話題になった。多くの者は牧生の金目当ての結婚だと陰口をたたいた。しかし少なくとも李師夫妻だけは心から祝福してくれたように見えた。式の後早速李積成は科挙試験の担当官吏達への贈り物を準備し、牧生を連れてあいさつ回りをした。牧生は試験担当の官吏達と昵懇になり、それぞれに弟子入りする格好になった。それで牧生の科挙試験合格には何の障害もなくなった。

 科挙の初段階の試験に合格し、いよいよ大詰めの郷試へと望むことになった。合格すれば中央官吏への採用が約束されることになる。明日は試験のため宮城に出立すると言う前の晩のこと、李積成は牧生のために屋敷の客間での壮行会を開いてくれた。内輪の親しい人たちがつぎつぎ祝いや励ましにやってくる。食卓には山海の珍味が、豪華な磁器に盛られ、最高の酒がふるまわれた。李積成は上機嫌で、来る人来る人に対してつまらない冗談や好き勝手な御託を並べている。客はいかにもへつらった態度でいちいちうなずいて見せていた。牧生もまた李積成のお説教を神妙に聞いた。誰のおかげでここまで来ることが出来たのか、忘れるな。それにしてもあの乞食坊主がうまいことやったものだ。なかなかの策士だな、おまえは。そういって皮肉っぽく笑う李積成に、腰を曲げ、頭を下げて同意しているしかなかった。
 一方では牧生に早くもおべっかをつかう者があいさつしに来た。なかには白髪の年長者すらお愛想笑いを浮かべてごまをすってくる。将来牧生が出世した暁には、そのおこぼれを預かろうという魂胆が見え透いていて、うんざりだった。身重の妻は大儀なお腹を抱え、満面の笑みで客に皮肉を連発し、給仕の娘たちを叱り飛ばしている。牧生はそんな妻の顔が不愉快で、できるだけ目をそらしていた。料理をいくつかつまんでは見たものの、少しもおいしいと感じない。これほど見た目が奇麗で不味い料理もないな、と思った。

 客人が帰り舅の前を退出して妻と二人きりとなると、牧生は途端に不機嫌な顔になった。妻はいつものように文句ばかり言っている。足がだるくて仕方がない、給仕していた使用人は気が利かない、客もお父様も私の体を気遣ってくれない。愚痴はいつまでも止まらなかった。牧生はいらいらし、かっとして怒鳴った。
「黙れ。おまえの口は臭いんだよ。俺に近寄るな。」
 そして自分の書斎に入り扉を閉め、錠をかけた。はじめあっけにとられていた妻は、ものすごい剣幕で怒鳴りだし、扉をたたき、何かを投げつけて割れる音がした。ひとしきり騒いだ後、ふと静かになった。どこかへ行ったのか、奥の自室で眠ったのか。そんなことはどうでもよかった。

 牧生はうつうつとして、とても眠れそうにない。振り払うように部屋の窓を開け放った。すっかり春めいて暖かくなった夜の空気が流れ込んできた。時刻は遅く、中庭に面した李家の窓の明かりはすべて消えている。建物の屋根や中庭の石畳に、白々と月の光が落ちていた。牧生は深呼吸をして机の所へ戻り、燈火をつけた。そして書物を開いてみた。文字を追っていこうとしても集中できない。トントントンと机を指でたたいた後、牧生は落ち着きなく立ち上がった。書斎の壁にしつらえた本棚の所へ行き、最近は手にすることのなかった本を探した。王老人から餞別としてもらい、故郷から携えてきたあの詩選集である。他の書物の奥の方にそれはしまわれてあった。表紙は擦り切れ、ページには染みがつき、綴り糸がほつれて本はバラバラになりかけていた。埃を丁寧に払い、牧生は慎重に詩選集を開いた。わずかな光りをたよりにページをめくり、なじみの詩を改めて読んでみた。

 牧生は思い出していた。故郷の美しい湖、生まれ育った家、やさしい両親や村の人達、それに丘の上に住む王老人のことを。牧生の顔にようやく笑みが広がってきた。ああ、王老人との約束が果たされるのも、もうすぐなのだ。明日の科挙に合格すれば、故郷の人々の恩にようやく報いることが出来る。故郷での最後の晩の会食から、長い時間がかかったものだ。あの王老人の館は、田舎には珍しい瀟洒な建物だった。都ではざらに見かけるような建物だが、子供の頃はあまりの立派さに驚いたものだ。庭からは湖を遠くまで見渡すことができた。すばらしい眺望だった。春になると塀沿いの茉莉花がいっせいに花を開き、あたりはかぐわしい香りでいっぱいになる。はじめて館に行った時も、あの花が咲いていた。牧生は、その香りを思い出していた。胸の中にあたたかな幸福感が湧き、ようやく気持ちが少しずつほぐれていくようであった。・・・

 

 牧生ははっと顔をあげた。花の香りだ。花の香りがしている。これは思い出などではない。かすかだが、たしかに匂っている。これは茉莉花だ。故郷の王老人の館で咲いていた茉莉花の香りにそっくりだ。いったいどこからやってくるのだ。近くで咲いているのだろうか。このあたりで見かけたことはなかったのだが。

 月の光に照らされて、窓から霧のようにかすかな銀色の粒子が流れ込んでいるのが見えた。牧生は立ち上がり、窓辺へ近寄ってみた。銀の霧はふわりとたなびき、茉莉花の香りが匂い立った。覗き込んだ中庭に、銀の霧がゆっくりと波打ちながら流れている。月の光が行く筋もの光束となって、高い空から霧の中へと落ちていた。その中にひとりの人影があった。揺らめく銀の霧のなかでぼんやりとはしていたが、それはすらりとした娘のようだった。このへんでは見かけない姿だったが、それでいてよく知っている人のように思えた。

 牧生は書斎を出て、中庭に通じる扉を開けた。細かな銀の粒子でできた霧の波が一斉に流れ込み、彼に絡み付いた。茉莉花の香りが高くなった。満月は南天に高く上がり、月光を背後から浴びた娘の影姿が牧生の正面に見えた。銀の霧は生き物のようにうねり、渦巻いて牧生を中庭の中へと誘い出した。次第に彼は足早になり、波をかき分けるようにして影へ近づいた。闇に隠れていた顔がはっきりと見えてくる。私はこの人のことをよく知っている。大人になっても昔の面影が残っている。莉麗だ。あの小さかった莉麗が、美しく成長して、今ここにいる。

 「莉麗」 牧生はささやくようにたずねた。「莉麗だね。どうしてここにいるの。」
「牧生様、お久しぶりでございます。」莉麗はゆっくりと会釈し、牧生を見つめた。「いつまでもお帰りになりませんので、莉麗はこうしてお迎えに参りました。」
 莉麗は牧生を見つめて優しく微笑んでいた。霧に濡れたように輝く黒髪、ほんのり染まる玉のような肌、かわいらしい赤い唇、そして瞳は深く澄んだ泉の水を思わせた。月の光の繊維で織られたような衣を着て、両手には満開の茉莉花の花束を抱えていた。花々には月の光が降りそそぎ、花弁から細かな銀の霧があふれるようにこぼれ落ちていた。信じられないほど美しかった。それでいて懐かしかった。

 「お会いしとうございました。とてもお会いしとうございました。」
莉麗は牧生に近づき、その頭を牧生の胸にゆっくり預けてきた。二人の周りで霧が渦巻きだし、幾重にもつつまれていく。牧生は手でしっとりとした莉麗の両腕に触れ、ついで背中にまわした。指先に髪の毛がさわる。うなじの髪の毛が流れ、耳もとに小さなほくろが現れるのを見た途端、牧生の心をおおっていた固い殻にひびが入り、はがれ落ちていく。牧生は思わず莉麗の首筋の髪の中に顔をうずめた。茉莉花が香り、故郷の記憶が次々によみがえってくる。王老人の瀟洒な館、館の塀で満開の茉莉花、館から見る湖の広大な眺め。まるで殻の中に隠れていたやわらかくて大切な部分が、ゆっくりと現れてきたようであった。

 莉麗がかすかに吐息を漏らし、牧生は顔を離した。莉麗は月の光の中で眼をつむり、震えるほど美しかった。牧生はその赤い唇に自分の唇を重ねた。胸の底から暖かな幸福感が幾重にも幾重にもなって湧き上がってくる。それは牧生の体の中へと広がり、手足のすみずみにまで満ちていった。その時、牧生は理解した。

 ああ、私はこのひとと結ばれるはずであったのだ、この人こそ、私にふさわしい人であったのだ。私は間違っていた。この人を愛して、この人と二人で生きるべきだったのだ。

 牧生は薄い衣を透して莉麗の体を強く感じていた。きめ細かな白い肌、ふたつの乳房のふくらみ、やわらかな腹、それにぬくもりのある陰のところ。ほっそりとした足、形の良い手指も、すべてを感じていた。まるで体全体が莉麗の体と完全に重なって、ひとつになったようだった。体ばかりか、莉麗の心までがしみこんできて、自分の心とつながったように感じる。口で言葉にしないでも、思いが通じ合う気がしてきた。おまえが元気そうでよかった。故郷のみんなも元気かい?ご隠居様はご健在でいらっしゃるの?

 莉麗は体を離し、牧生を見た。黒い瞳のなかに何か揺れて動くものがある。
「故郷では茉莉花の花は今満開で、村には香りが満ちています。ご隠居さまはあなた様とのお話を楽しみにしております。お父様もお母様も村の人たちも、あなた様がお帰りになるのを今か今かとお待ちです。すぐに故郷へ帰りましょう。」
「そんな、無茶なことを。」
「湖には水が満ち、よい風が吹いております。長江は穏やかに流れ、帆舟は滑るように進むでしょう。舟を待たしてございます、すぐに故郷へ帰りましょう。途中の道行など、ほんのわずかでございます。」
「今は行くことはできない。明日は科挙の試験なのだ。これで長年の志しがかなうのだ。」
「それが何でございましょう。試験は三年ごとにめぐって参りますが、今宵は二度と訪れませぬ。」
「待ってくれ。・・・せめて支度をさせてくれ。」
「時間がございません。まもなく夜が明けてしまいます。」
「家の者にいとまを告げなければ。」
「今、この屋敷は眠りに包まれ、どなた様も目を覚ますことはありません。この夜が明け、朝の光がさすまでは。」

 二人の体は離れていた。しかし牧生は、まるで寄り添っているかのように、莉麗の体のぬくもりを感じた。まるで抱きしめている時のように、莉麗の胸の鼓動や息遣いが伝わってくる。莉麗の細く優しい指が動いて牧生を愛撫する。牧生の体からゆっくりと力が抜け、莉麗にみちびかれるまま、牧生は歩き出した。

 いつもは鍵をかけている扉がやすやすと開き、人々が眠静まる屋敷の中を通り抜け、二人は気付かれることなく屋敷の外に出た。あたりには銀の霧がかすかに漂い、それを通して月の光が石畳の坂道を照らしている。人影もなくあたりは寝静まり、二人の足音だけが響いた。路地が下った先に運河が見えてきた。下りきったところは船着き場である。運河の水は白い靄におおわれ、その中に屋形の付いた小さな舟が二艘、月の光に黒々と浮かんでいる。立っている船頭が影になって見えた。

 「ここからは舟で参ります。私が先の舟に乗り、あなた様が後の舟です。」
「一緒に行こう、そんなことはできない。」
「この地ではあなた様には妻子があり、わたしはまだ生娘でございます。ご一緒することはできません。故郷に帰れば、わたしはあなたのものとなりましょう。」
「頼む、離れないでくれ」
「この茉莉花の花束はお約束のしるしです。わたしは先の舟に座ります。あなた様は舳先に乗って、わたしのことをご覧になっていてください。」
そう言うと莉麗は花束を牧生に渡した。白い花束は月の光にみずみずしく輝き、花弁からは銀の霧が絶えることなく湧きだし、流れ落ちている。

 船頭に手をとられて莉麗が前の舟に乗り、船頭は棹をさして舟を出した。牧生が飛び乗った舟は水音を立てて揺れ動き、前の舟を追いはじめた。先へ行く舟の艫には莉麗が優雅に座り、牧生を見ている。追う舟には牧生が座り、莉麗を見ている。両岸には隙間なく大小の建物がせまり、運河の川面は靄で白くおおわれている。牧生が手にする茉莉花から銀の霧がこぼれて舟に満ち、それが舟べりからあふれて靄の中へと吸い込まれていった。

 霧でぼんやりした赤ちょうちんが列をなし、遠くから歌や笑い声が響いてくる。河岸にはおぼつかない足取りの酔っぱらい達が、肩を組みながらゆらゆら歩く。上機嫌で歌い、地べたの上に座り込む。
しかし二人の舟は静かに進み、牧生と莉麗は見つめあったまま、動くことはなかった。

 朝が来て大声が飛び交い、船着き場には忙しそうに動き回る人々がいる。荷物を積みすぎて、傾きかけた船の上で大騒ぎをする人々がいる。辺境の地へ行く兵士で満載の、沈黙の支配する船が通る。半裸の遊女が歌い嬌声をあげ、乱痴気騒ぎをしている満艦燈の船が通る。
しかし二人の舟は静かに進み、牧生と莉麗には何も聞こえず、何も見ることはなかった。

 船底を青い魚の群れが通り過ぎ、水鳥が羽ばたいて一斉に舞い上がる。ミソサザイがつがいでやってきて恋の歌を歌い、川イルカが顔を覗かせてしきりに挨拶をする。
しかし二人の舟は静かに進み、牧生と莉麗はお互いだけを感じてささやきあい、ため息をもらした。

 風が吹き雲が渦まき、川から水しぶきが上がる。雨がやみ虹が弧を描き、一日が終わっていく。霧が出ては消える。陽が昇り沈む。
しかし二人の舟は静かに進み、牧生と莉麗はからだもこころも解け合って、幸福の中にいた。

 そのようにして二人の舟は進み続けた。牧生が手にしている茉莉花は長い時を経てしおれ、花束から花弁が一枚、そしてまた一枚と落ちていく。花から湧き出ていた銀の粒子は力を失ない、残り香もわずかになった。

 目が覚めたように牧生はあたりを見回した。舟は故郷の湖の上にあった。帆は風をいっぱいにはらみ、滑るように進んでいく。目指すかなたに丘が見える。懐かしい故郷の丘にちがいなかった。牧生の視線は丘の稜線を辿っていき、その頂上ではたと止まった。牧生は目を大きく見開いた。そこにあったはずの王老人の館が、館の形がどうしても見えないのだった。

 牧生がおかしいと思ったその瞬間、横風が吹いてきた。風はたちまち強くなり霧が押し寄せてくる。波が逆巻きしぶきが飛んだ。次第にかすんでいく視界の中で、牧生を見つめる莉麗の顔を見た。かつて見たことのある悲しい顔であった。風は恐ろしい音を立てて荒れ狂い、次の瞬間莉麗の舟はあおられ、船底を見せて傾いた。そしてあっという間もなく、湖に沈んだ。牧生は揺れる船縁を両手でつかみ、振り落とされないようにしているのがやっとだった。

 「莉麗、莉麗」
声の限りに牧生は叫んだ。「舟を止めてくれ、莉麗を助けなければ。すぐに舟を止めてくれ。」
牧生は湖に飛び込んだ。
「お客さん、ばかなことをするんじゃねえ」
船頭が大声で怒鳴った。瞬く間に風は止み、空は晴れている。船頭は急いで帆をおろし、牧生が水しぶきを上げているところまで、舟を戻していく。大声で助けを呼ぶ船頭に気づいて、釣り船がいくつも集まってきた。
船頭は牧生のそばまで舟を寄せ、舟に乗り移った他の人と一緒になって、牧生の腕をつかみ引き上げた。ずぶ濡れで半狂乱になっている牧生を押さえつけ、落ち着かせようとした。

 目の前に故郷の村の船着き場がある。騒ぎを聞きつけて人が集まっていた。船頭は棹を巧みにあやつって舟を桟橋につけた。牧生はつかまれていた手を振りほどき、桟橋に飛び移り、集まってきた人たちにむかってどなった。
「誰か舟をだしてくれ。莉麗を助けなければ。乗っていた舟が沈んだんだ。すぐに舟を出してくれ。」
男たちは困った顔をして互いに顔を見合わせている。
「どうした、早くしないと莉麗がおぼれて死んでしまう。君たちにも見えただろう、急に強い風と霧がやってきて、莉麗の舟は沈んだのだ。なぜ見殺しにする。なぜ誰も答えない。」
「・・・旦那さん、私ら見てましたけれど、舟なんか沈んでいません。変な風も吹かなかったし、霧も出ませんでした。」
「何を言う、私等は都から二艘でやってきた、すぐそこまでは。あそこで莉麗の舟が沈んだのだ。」
「いいえ旦那様、はじめから舟は一艘でした。遠くからはっきりと見えていました。なあみんな、そうだろう。」
集まった人たちはみなうなずいている。
「そんなはずはない、船頭、おまえが証言してくれ。私たちは二艘の舟で来た。突然風が吹いて、それにあおられて一艘が沈んだのだ。おまえも見ただろう。」
「いいえ旦那様、わたしらは最初から一艘でした。一緒にきた舟などありはしません。幸い天気がよくて、ずっと順風の、いい旅でした。」
「そんなはずはない、そんなはずは。約束のしるしに莉麗から茉莉花の花束をもらったのだ、・・・ああ、花束がない、花束はどこだ、どこにいった。舟に乗り込む時花は満開で、あたりは香りに満ちていた。船頭、あの花束はどうなった、知らないか。」
「旦那様は枯れ枝のようなものを大事に持っておいででした。あれは枯れ枝でございました。花の香りなどするはずがありません。」
「ばかな、そんなはずはない、そんなはずは。」
牧生の視線が宙を泳いた。
「莉麗、莉麗、どこにいったのだ、一緒に故郷に帰ると言ったではないか。私のものになると約束したではないか。お願いだ、もう一度姿を現してくれ、莉麗、莉麗・・・」

 両手で顔を覆い、うわ言のように莉麗の名を繰り返している牧生に、近寄って声をかけた者がいる。
「あんた誰だ、なぜ莉麗の名を知っている。」
牧生は顔をあげた。赤く目やにを垂らし、皺だらけの薄汚れた老婆だった。汚らしいぼろのような着物をまとって、白髪まじりの髪が乱れほつれていた。じっと老婆の顔を見ているうちに、牧生は思い出した。
「もしやあなたは、瑞琳様ではないですか。王老人の館にお住まいだった、莉麗のお母様。」
「あんたは誰だ。・・・なぜ莉麗を知っている。」
老婆の赤くただれた目から、涙が落ちる。
「わかりませんか。牧生です。あなたにも、王老人にもずいぶんお世話になった、小さな牧生です。莉麗ともよく遊びました。莉麗は元気にしていますか。もう大きな娘さんになっているでしょう?」
老婆は下を向き何かぶつぶつ言って、首を振るばかりだった。
「館のひとたちはお元気ですか。王老人は。ご存命ならば相当のお年のはず。」
老婆は下を向いたまま肩を震わせていた。泣いているようだった。周りに集まった人達の顔を見回しても、皆横や下を向いて視線をそらしてしまう。
「どうしたのです、何かあったのですか。」
誰も答えない。ただ老婆のすすり泣く泣き声が聞こえた。牧生は両手で老婆の肩をつかんだ。
「答えてください、いったい何があったのですか。」
絞り出すように老婆が答えた。
「恐ろしいことが。」
「えっ?」
「恐ろしいことが、やってきた。この村に。あとからあとから、たたみかけるようにして・・・」
「何があったのです。一体何があったのです。」
「私だけ生き残った。私だけが、生き残った・・・」
「莉麗は、莉麗はどうなりました。莉麗は生きているのですか。」
瑞琳は震える手で丘の方角を指さした。丘の上に、あるべきはずの館は見えなかった。気がつけば村の集落も、多くが廃墟になっている。

 牧生はあっと言って飛び上がり、駆けだした。今は丘を登る人もいないのか、階段のあちこちが崩れ、草が生え落ち葉がたまっていた。一気に登りきって息を切らしながら見渡すと、丘の上は草や灌木が生い茂るばかりで、ただくずれた外壁がかつて館のあった場所を教えていた。草をふみ分けて館の敷地に踏み込んだ。草の間に黒く焼け焦げた材が折れ重なり、あたりに瓦の破片が散乱している。見渡した建物の敷地跡は、記憶にあった館に比べてあまりにも小さく、あまりにも狭かった。
 崩れ残った外壁には茉莉花の緑の葉が、生き生きと茂って壁を覆っていた。花の季節は終わっていて、枯れ残って変色した花弁が、わずかに枝についている。顔を近づけて香りをかぎ、地面に落ちているのも拾ってみたが、もう何も匂わない。

 その茉莉花の茂みの足元に、盛り土が見えた。草が生い茂ってよくは見えないがその上にまるい石が置いてある。墓に違いなかった。牧生は手当たり次第に草を抜いて、落ち葉を掻き出し、墓をきれいにした。いくつもの盛りあがった土の並びが現れて、それぞれに石がただ乗せてある。一番大きな盛り土と大きな石は、王老人の墓だろう。牧生は墓の前に膝をついた。

「ただ今、帰って参りました。お約束を果たすことは、・・・できませんでした。」
牧生は墓の前で額を地面にすりつけた。そのまましばらく動かなかった。

 王老人の墓の隣に小さな盛り土があって、その上に枯れ落ちた茉莉花の花びらが散っている。小さな丸い石が乗っている。莉麗の墓に違いなかった。
「莉麗、莉麗、・・・」
牧生はひざまずき、墓に話しかけた。
「帰ってきたよ。おまえの牧生が帰ってきたよ。」
牧生は盛り土をやさしく撫でた。撫でながらも話しつづけた。
「つらかったねえ・・・さびしかったねえ・・・」
盛り土の上にある小さな石にふれると、それを両手で包みこむようにして持ち上げた。いとおしむように胸に抱き、目をつぶった。牧生は静かに泣き出した。

 陽が傾き、あたりには風が吹きだした。館の跡に生える草が揺れ、茉莉花の茂みもゆれてざわざわと音をたてた。牧生は石を抱いたまま立ちあがった。瓦礫を避け、草を踏み分けながら、かつては庭で、幼いころに詩を朗唱していた場所に立った。そこからは湖が見えた。湖だけは、昔と変わらなかった。

 湖の上にも風が吹き、岸にはえる木々の枝葉が揺れている。船着き場にある店ののぼりも、風ではげしく揺れている。湖岸には数人がたむろし、湖をながめ、何かを待っている。湖の対岸には山々が幾重にもかすんで見える。
風は湖の奥から吹いてきている。その風とともに、はるか遠くから霧が這うようにやってきた。沖合は次第に霞んでいき、湖も山も空も、すべてがあいまいに溶け合っていく。霧のなかに見え隠れしながら、二艘の小舟が現れた。帆に風をいっぱいにうけて、舟は湖面をすべるように近づいてくる。・・・


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注1 陶淵明 形影神        新編中国名詩選(上)p410 岩波文庫2015
注2 王維  送元二使安西     新編中国名詩選(中)p133 岩波文庫2015
注3 李白  黄鶴樓送孟浩然之廣陵 新編中国名詩選(中)p175 岩波文庫2015
注4 杜甫  登岳陽樓       新編中国名詩選(中)p390 岩波文庫2015
注5 陶淵明 帰園田居五首 其一  新編中国名詩選(上)p419 岩波文庫2015
注6 杜甫  登高         新編中国名詩選(中)p388 岩波文庫2015
注7 李白  春日酔起言志   新編中国名詩選(中)p227 岩波文庫2015

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