弱法師(よろぼし) 下村観山 (その1)

 日本画家下村観山、本名晴三郎は明治6年和歌山市の生まれである。下村家は代々紀州徳川家に仕える能楽の家系であったのだが、明治維新後は禄を失い観山8歳の時一家で上京する。幼くしてすぐれた画才を示し、狩野芳崖、橋本雅邦に師事、13歳の時の絵をフェノロサに賞されるほどであった。横山大観とともに岡倉天心率いる東京美術学校第一期生として入学、その画業は注目の的になり卒業と同時に助教授に任命されている。岡倉天心が校長を辞した美術学校騒動の際には横山大観、菱田春草らとともに辞表を提出し、新たに設立した日本美術院に参加した。その後東京美術学校に戻り、初の文部省留学生としてヨーロッパを歴訪するなどして日本画壇の重鎮として活躍した。代表作に「木の間の秋」「弱法師」「小倉山」などがある。晩年は多数の制作依頼や過度の飲酒から体調を崩し、食道癌にて昭和5年に亡くなった。57歳であった。
画像

 私は2014年1月に横浜美術館の下村観山展を見に行った。観山という人は、若年の頃からすでに大家の趣があると言われるほどの、すばらしい技術の持ち主である。壮年期の代表作といわれている絵は、堂々たる構図、細部にまでいたる緻密さ、色彩の美しさなど、あふれんばかりの才能を見せつけて圧倒される思いであった。
画像

 ところがどうしたことだろう、展覧会の中ほどを過ぎて晩年のセクションにいたると、古い大和絵や中国画を模したような人物像が多くなり、その絵には力がないように見えた。つかみどころがなく、集中力を欠いたように見え、おもしろくない。なによりも、これが描きたいのだ、という画家の気迫を感じることが出来なかった。
画像

 図録を読んでいてそのことを少し納得させてくれる文章があった。妻の回顧録の記述に、朝昼晩の膳には必ず酒がつく、というのがある。毎日朝から酒を飲んでいて、まともな絵が描けるのだろうか。多分アルコール中毒になっていたのだと思う。美術界の大御所として多忙な日々を送る一方、人を驚かせるような大作を久しく描くことができていないという焦りが、神経にこたえていたのだろうか。他に何か理由があるのかもしれない。アルコールは一時的に高揚感をもたらすかもしれないが、結局は絵画制作の妨げになる。不摂生がたたって晩年は体調がすぐれず、良い絵を残すことができなかった。しかしあと10年でも生きながらえたのであれば、また違った結果になったのかもしれない。そんなふうにも思った。


 代表作の一つである「弱法師」の絵は観世元雅の作になる能を題材にしている。元雅は「風姿花伝」を書いた世阿弥の子で、父親とはまた異なるすぐれた才能を持ちながら、若くして世を去った室町時代の能楽師である。「隅田川」という名高い能を残しているが、この「弱法師」との共通点は、その救いのない悲劇の頂点で幻を見るところにある。能の「弱法師」は、俊徳丸伝説というハッピーエンドの伝承物語を基にしている。俊徳丸の元恋人の女性が、盲目になって放浪していた俊徳丸を四天王寺に見つけ、二人で観音菩薩に祈ったところ、俊徳丸の目が見えるようになった。二人は末永く幸せに暮らしましたとさ、というのが原話である。そこから観世元雅は題材を得て能を創った。
画像

 大阪四天王寺の西門でおこなわれる春の彼岸中日、日想観のおこなわれる夕方である。妻の讒言で子供俊徳丸を家から追い出したことを後悔して、河内に住む高安通俊という人が、子供の供養のため施行(貧者への施し)をおこなう。そこへ弱法師と人から呼ばれている盲目となった俊徳丸があらわれる。父はそれをわが子と知るのだが名乗りを上げることが出来ない。弱法師が日想観(海に沈む夕日を拝んで極楽浄土を願うこと)をおこなうと、心に焼き付いていた難波近辺の光景がありありと見えてくるように思う。

「詠めしは月影の、今は入日や落ちかかるらん、日想観なれば曇りも波の、淡路絵島、須磨明石、紀の海までも、見えたり見えたり、満目青山は、心にあり
「おう、見るぞとよ見るぞとよ

 目が見えるつもりになった弱法師はよろよろ歩きだしてはみたものの、すぐに通行人に突き当たってふらつき尻もちをつく。人々の笑いものとなり、恥ずかしい思いに面を伏せる。

「今は狂い候はじ、今よりはさらに狂はじ。

 弱法師の父親の高安通俊は、人の言いなりになってわが子を追い出すような気弱な人だったようで、わが子である弱法師が座り込んで泣きべそをかいているのに、人目をはばかって声をかけることが出来ない。すっかり暗くなってから父親であることを名乗る。そしてみじめさのあまり恥ずかしがって逃げようとする弱法師を連れ、家に帰る。

 観山の「弱法師」の絵は、弱法師が夕陽を拝み、記憶の中にある瀬戸内海の風景が現実に見えたと思うその瞬間を描いている。再び目が見えるようになったと思い、ありえないほどの幸福感に満たされて思わず口元に笑みがこぼれてくる、その瞬間である。しかしその至福は、結局幻影にしか過ぎないことを残酷なまでに認識させられるまでの、ほんのひと時の出来事でしかなかった。
画像



 私は絵を見ながら勝手な空想をするのが好きだ。今回は弱法師が日想観で見たものが海辺の風景だけではなくて、童子(せいたか童子)も見えたというイメージがうかんだ。そのイメージを膨らませてのお話を作って見た。偶然にもサントリー美術館で高野山の名宝点があり、運慶の八大童子も見ることができ、参考になった。
手間がかかったわりに出来栄えはなんともさえないのだが・・・。
画像


***************
***************
***************

 私の話を聞いてくださるのかな。お聞きなさるのかな。ほう、あなたも変わったお方だ。こんなもうろくじじいの身の上話など、さぞや退屈であろうに。そうか、聞いてくださるのか。この話はな、これまで誰に話しても相手にされなかった。わしの話など信じる者はいなかったのだよ。おおかたあんたもそうだろう。つまらなかったら途中で聞くのをやめるとよろしい。聞く人がいなくなっても、私は最後まで話すつもりだ。もはやこの年寄りが気にすることなど、何もないのだからな。 

 かつて私には子供がいましてな。それがとても絵のうまい子供でした。長じて絵師となったのです。晴徳の名は聞いたことがありますかな。晴徳だ。やはり知らないですかな。晴徳といえばひと時は一世を風靡してもてはやされたもんだが、今では覚えているものは誰もおらん。あれだけ高く売れた息子の絵は、今では紙くず同然の扱いだ。しかたがあるまい。人は忘れられるのが世の常。死んで姿かたちが消えてしまえば、一緒に生きた者に記憶がのこる程度。その記憶も時間とともにあやふやになり、いずれは消える。まあ、人間なんてそんなもんだ。 

 どうしてこんな何のとりえもない私に、あれほどすばらしい才能の子が生まれたのでしょう。トンビに鷹、とか言いましたか、つまらない庭に立派な花が咲いたようなものです。でも他の人は別の言い方をなさるでしょう。あの子を立派だと言うのは親ばかりで、結局はつまらない石ころと同じだったよ。わずかに残った息子さんの絵にしても、あんたが道楽で描いていた絵とたいしてかわらないね、とね。いえいえとんでもない、あなたは知らないんだ、息子の絵の本当のすごさをね。

 息子の話をする前に、私の方を先にしておきましょう。私は若くして立派な店を持ちました。先代が苦労して大きくして、ようやく一人前になってきた店でしてね。血のにじむような努力でようやく保ってはいるものの、ちょっとの油断で足元をすくわれる。いつもギリギリのところにいて、才覚も辛抱もあるだけ搾らないとやっていけないようなお店でした。若かった自分にはちょっと扱いかねる、身に不相応な店でしたね。だから自分の店なんておこがましくてとても言えません。

 先代は息子である私を後継ぎと決め、はやばやと家督を譲ってくれた。長い下積み生活からたいへんな苦労を重ねたので結婚も遅く、年取ってからできた子供がかわいかったのでしょう。何事もよくわからない私に、早く商売を覚えてほしくてそんなことをしたのだろうね。だから、隠居にはならなかった。なれなかったと言った方がいいかもしれない。実際のところは朝から店に顔を出してそれまで通りあれこれ指図してまわっていた。私にはあいさつの仕方から始まって、品物の見方、カネの動き、帳面のつけ方、人の使い方まで、それはそれは懇切丁寧に教えてくれたもんだ。覚えることはたくさんあったのだが、私はのみこみが悪くてただ、はい、はい、と返事するばかり、すぐには使い物になりそうもなかった。しかたがないので先代は番頭と相談してだいたいのことを決めてしまうことになる。番頭の方も一応私に伺いを立てにくるのだが、物腰は丁寧ながら有無を言わせぬところがあって、要領を得ない私はなかなか首を横に振れたものではなかった。

 おもしろくなかった。何も決められず、私は店先にある単なる飾り物と同じだと思った。まあ、今となってはそれもよくわかる。いつまでたっても独り立ちできない息子をはやく一人前にしたい、でも店が傾くのも困る。先代には苦労させたんだと思うね。 

 あるとき私の結婚相手の話を先代が持ってきた。大切な商売相手の娘で、私よりすこし年上だという。それは名前の知られた有名な商家で、屋敷の建物も使用人の数もこちらの何倍もあって、あちこちに蔵が建っているような大きな家だ。 
 すでにこっちの親と向こうの親との間で勝手に話ができていて、どうだ、いい話だろう、と先代に言われた時にはもうほとんど手筈が整っていた。相手は国中で知らぬ者のない老舗の商家、こちらとはいくら先代が大きくしたとはいえ単なる成り上がり、先方は大切なお得意先なのでそう簡単に断れるはずもない。相手の娘は結婚にはちょっと年齢がかさんでいたのが気になったが、見合いしてみれば、一見おとなしそうで器量だって悪くない。会ったばかりでどうだって言われても困るのだが、親同士の間でとんとんと話が進んでしまい、あっというまに結婚の日取が決まってしまった。だからといって、こればっかりは本人が嫌だと言って頑張ればなんとかなったのかもしれない。もともと気が弱くて、すぐに物事を決められず、縁談を断る上手い考えも思い浮かばないうちに、いいようにされてしまった。まあしかたがない。たいがいのことは、そんな調子だった。


 しかしどうしてそんな大きな家が、成り上がり者などに嫁を出す気になったのか。それを気付くのに長くはかからなかった。しおらしかったのは最初だけ、祝言が済んだあとは別人かと思ったほどだ。何人もの取り巻きを引き連れて新居にのりこんで来て、わがまま放題やり放題だった。部屋が気に入らない、こちらの女中が気に入らないから変えろ、この家のしきたりは全くのでたらめだ。実家ではこんなことはなかった。とまあ文句の言い通しだ。朝はいつまでも寝ていて化粧の時間は長いし、毎日花見だ、夕涼みだとか理由をつけて、取り巻きを引き連れて遊びに出てしまう。店の手伝いはおろか家事もしない。実は出戻りだった、と聞いたのは後のことで、やっぱりそうだったかと妙に納得できた。どうしようもない性悪だったわけだ。店で私の立場が弱いことを見抜くと、私のことを頭から馬鹿にしてかかった。妻としてのごく当たり前の勤めについて言っても聞く耳を持たない。二言目には実家のことをひきあいにだすので何ともお手上げだった。
 一時期なぜか私にちょっと優しいそぶりをみせた時があって、心をいれかえたのかと喜んだものだったのだが、単に後継ぎを生むことが有利と見ただけだったらしい。妊娠がわかったとたんきれいさっぱり私をはねつけて、腹が膨れてからは気分がすぐれず、私に限らず店中の者を小汚くののしって罵倒することがひどくなった。なんでこんな女と結婚して子供まで作ったのだろうとつくづく後悔したが、すでに後の祭り。先代がひそかに気の毒がってくれているという話は聞いたが、私の前では何も言わなかった。 なにせこの結婚のおかげで店の取引はだいぶ増えていたからね。

 妻だって女なのだから、母親になれば少しは変わるかもしれない、などとひそかに期待していたが、それも見込み違いだった。臨月となり男の子を生んだ妻は、さらに不機嫌だった。こんなつらいことはもう御免だと、子供の世話は女中に任せきりで、乳をふくませないどころか顔もろくに見やしない。ああいやだいやだ、などと聞こえるようなため息をついて、子供のことは無視したり邪険に扱ったりで、周りを不愉快にさせていた。 

 不幸な結婚なんて特に珍しくもなんともない。少なく見積もっても幸せな結婚と同じ数くらいはある。そうではないかね。でもこれほどひどくはならないでしょう。普通の女は結婚して、子供ができたとわかったときには母親の気持ちになっている。そして赤ん坊が自分の腹を痛めて生まれれば、理屈なしに抱きしめほおずりし、ありたけの愛情を注ぐ。普通の女はそうですな。普通は。でもそうでもないことがある。それとは逆の、普通じゃないことがね。そんなに珍しいことじゃない。あたりまえでないことなんていうものは、この世の中にいくらでもあるんだよ。 

 生まれてみれば、男の子だ、立派な跡取りだ、と言って、まるでお祭りのような騒ぎになりました。お祝いの品が次々に届く、あとからあとから人がきて赤ん坊を見ていきます。やれかわいや、ほら眼をあいた、ほら手を握った。みなが最高の笑顔をみせて私にお祝いを言います。私は笑顔で、ありがとうございますと頭を下げます。妻はふてくされています。でも私にしても、本心は妻とそう離れていなかったとお思います。私には父親になったという実感がどうにもわきませんでした。見れば、我が子は寝衣から小さな手足を出してもぞもぞ動いています。さしあたり乳母のおっぱい飲んでるしか能がありません。小さくて弱い、普通の赤ん坊です。だからどうだと言うのだ?
  いくらかわいいとまわりで言っていても、自分にはそう思えませんでした。実のところを言えば、うとましかった。こんなものの父親になったということが、どうしても納得できなかった。愛情のない夫婦に生まれた子供だからかもしれません。でも、愛情があっても同じことだったかもしれません。子供は子供。私は私。それぞれが勝手に生きていくのでしょう。私はそいう類の、情の薄い人間です。変ですかな。でもそういう父親は多いのではありませんか。あえて口にしないだけで。子供を抱き上げてはみたものの何の感慨もわいてこず、さっさと放り出てしまいたい、こんな茶番はおしまいにしたい、いったい何故子供など作ったのだろうと後悔する輩が。それにしても私の結婚はひどかった。とてもわが妻となど呼べないような、とんでもない女に我慢し続けるなんて、自分ながら馬鹿じゃないかって思いましたよ。

 でもまあ、どんなにひどい生活にも、人間は慣れてしまうものです。愛情がない生活、言葉を交わすことがない夫婦、とげのある視線。うんざりすることを忘れてしまおうと、私は商売に精を出していました。少しずつ自分の力でもうけが出るようになってきて、そうなると商売が面白くなってきた。かわいそうなのは子供の方だ。晴徳丸、と名前はつけたものの、その名をやさしく呼びかけてくれる親はいない。母親からは邪険にされ、父親は商売に夢中で、女中の手だけで育てていました。たまに見かけるたびに、子供は大きくなっていました。いつの間にかこちらの顔を見ます。いつの間にかつかまり立ちします。でも子供はあまり笑いません。私も笑いません。私は出来るだけ子供のことは考えないようにしていました。 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック