エジプトファラオの永遠の命 その4

   (その3からのつづき)

テサケウム達がじっと待つ場所に、ラー神の船が次第に近づいてきた。巨大であった。大きな船に、神殿がそのまま乗っていた。ラーの船が水を切って進むと、波は星々できらめいた。
テサケウムは息をひそめた。見張りのたくさんの神々がはっきりと見てとれる。しかしテサケウム達に気づいてはいない。ラーの大船はテワケウム達の乗った小舟の目の前をかすめ、通過していく。
「いまだ、船べりに手を掛けろ。櫂を忘れるな。」オンボスのささやきでテサケウムは立ち上がって船べりに手を掛けた。「よし、船に侵入するぞ。」
テサケウムは這い上がり、甲板に顔を出した。そこは大船の船尾付近で、見張りの神兵はわずかいるだけであった。船の上には小型ながら白亜の神殿があった。神殿の中の玉座にはラー神が座っているはずだった。

「邪悪な巨大蛇アボビスを倒すための剣が、この船の後ろにもあるはずだ。あった、あそこだ、見えるか。」居眠りしてうつらうつらしている見張りの神の後ろに、剣が立ててあった。「あれはなかなか役に立つのだ。あれをいただきにいく。合図とともに行け、櫂を忘れるな」
オンボスが呪文を唱えると、太陽の船のへさきに、真っ白な雲が急に出てきた。
船は雲の中に突っ込み、あたりは真っ白で何も見えなくなった。
「今だ、行け」
テサケウムは船に飛び乗り、剣のそばに走って行った。オンボスが新たな呪文を唱えると、立っていた剣は櫂になり、テサケウムが握っていた櫂は剣に変わった。テサケウムはそれをすり替えた。そして侵入した元の船べりの場所に戻ろうとしたところで雲が切れ、視界が明るくなった。すでにテサケウムの目の前に、何人もの神の兵士とトト神が立っていた。

トト神が言った。「そこで何をしている」
テサケウムは後すざりした。
「おや、おまえはまだ死んでいない人間だな、なぜここにいる?どうやってここまで来た?おまえが背中に背負っているものはなんだ?」
すぐに船べりに追い詰められた。オンボスがピューッとつんざくような口笛を吹き、テサケウムは強く後ろに引っぱられた。テサケウムは船べりを踏み外してあおむけに水面におちていった。と次の瞬間背中に衝撃があり、飛び出してきた小舟に乗っていた。そのまますごい勢いで小舟は水面を走り出した。太陽の船の神々が弓に矢をつがえ、射かけてきた。
「うつ伏せになって船にしがみつけ。」そうオンボスが言うのとテサケウムがうつ伏せになるのは同時であった。「息を止めろ」
小舟は一気に水の中に沈んだ。神兵の射た矢が次々にかすめていく。矢は水の中まで追いかけてきたが、小舟が深く潜っていくとすぐに届かなくなった。テサケウムは水の中でも必死で小舟にしがみついていた。川に流れる星々が小舟のわきをいくつも通り過ぎた。川底が見えてきた。小舟は速度を落とすことなくそのままぶつかり、川底にめり込んでいった。

川底はまるでやわらかい膜でできているかのようだった。小舟はぽっと川の底をつきやぶり、川の下の空中に躍り出た。下界は暗い闇に覆われていた。見上げれば青い川底と、そこを流れる星々が見えた。振り返ると小舟が飛び出した穴から、川の水が流れ落ちている、次第に流れは小さく止まっていった。
「やれやれあぶないところだったが、まんまとしてやったな。」テサケウムはまるでオンボスのように話した。
「いや、安心するのは、まだだ」
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再び背後を見ると、馬の引く戦車が何台も、川底を突き破って出てきた。どの馬もたくましく空中を走り、戦車に乗った神兵が、再び矢を射かけてきた。
「急降下するぞ」
船がスピードを上げて降下しだすのと矢が飛んできたのは同時だった。テサケウムは振り落とされないよう必死で小舟にしがみついた。矢は危なく小舟をかすめていく。
「まっすぐに飛ぶな、狙われないよう舟を左右に振れ」
テサケウムは右に、ついで左に体をひねった。船はそのたびにコースを変えた。執拗に戦車は追いかけてきて矢を射かけたものの、なかなか当たらなかった。
「このまま、夜明けまで突っ走れ。」
地面近くにまで下りてしまえば、下方から矢を射かけられることはなくなる。小舟は暗い地面ぎりぎりを疾走した。夜の冥界の山や谷を、木々や大きな岩の間を、かすめて疾走した。小舟はガタガタ揺れて、今にもばらばらに壊れそうだった。次第にあたりの暗さがうすれてきた。もうすぐ夜明けだ。
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その時遠くに長く切り裂くような鳴き声が聞こえた。はるか先の上空を、細長い蛇が空を飛んでいる。
「くそっ、もう少しで夜明けなのに、アポピスだ。」
細長いものはとうに小舟に気が付いていたようで、みるみる近寄ってくる。ぎらぎらした大きな目、ぬらぬらと光るうろこ、巨大な蛇であった。口をあけて毒牙をみせ、赤い舌をちょろちょろ出して威嚇している。
「櫂を出せ、正面に突き出せ。アボビスが来ればそのまま体当たりだ。」
櫂はいつの間にかもとの剣にもどった。そのままアボビスめがけて突っ込んでいったが、アポピスは身軽に剣をよけた。そして小舟の周りにまとわりついて、さかんに攻撃を仕掛けてくる。テサケウムは剣を振り回し、アボビスの攻撃を避けた。
アポビスの攻撃をかわすことに気を取られ、いつのまにか小舟のコース取りが甘くなっていた。
追跡してきた戦車からの矢が飛んできた。ずん、と鈍い衝撃があって、背中を覆うオンボスに矢が当たった。うっと短い叫びをオンボスがたてた。そしてまた一矢、一矢とオンボスに命中し、ついにテサケウムの脇腹にも一矢が命中した。矢が飛んでくるのを見て、アボビスは戦車に気づいた。小舟から離れ、戦車の群れに襲いかかった。アボビスにかみつかれた馬は悲鳴を上げてすぐに力を失ない、戦車の兵士は振り落とされた。残りの戦車はアボビスの攻撃を避けて、散り散りになって帰っていく。その間にテサケウムの小舟はかなり先にまで逃げた。
「テサケウムよ・・・出口を見落とすな、・・・ラッパの口に入れ」
オンボスの声は弱々しかった。
「オンボス、・・・ラッパとは、何だ?」
意識が薄れそうになりながら、テサケウムは探した。山岳地帯で、いくつもの岩山がそびえている。その中にラッパの口を山頂に持つ、奇妙な形の山が見えてきた。
「あそこか」
テサケウムはどうにか小舟をコントロールしてラッパの口に突入した。小舟は右に左に急カーブしてふりまわされ、がたがたと振動がひどくなった。みるみる小舟は端から壊れ出し、木切れが後ろへ飛んでいく。小舟は次第に高度を落とし、超低空飛行になった。次第に明るくなってくる。もうすぐ夜明けというところで小舟はついに空中分解をおこしてばらばらになった。テサケウムは空中に放り出され、そのまま地面にころがり落ちた。そこは砂漠で、テサケウムはもんどりうって何回転もしてから、ようやく止まった。

静かだった。テワケウムはよろよろと立ちあがった。不思議なことにけがはなかった。砂漠の上にはバラバラになった小舟の木切れが点々と転がっている。空はまだ暗かったが地平はすでに紅に染まっていた。もうすぐ夜明けだった。テサケウムは背中に張り付いていたはずのオンボスがいないのに気付いた。周りを探すとセオンボスが砂の上に歩織り出されたくたくた人形のように転がっていて、全く動かなかった。
「オンボス、オンボス」テワケウムはオンボスの体をゆすりながら叫んだ。目には涙が浮かんでいた。
「矢を抜いてくれ」弱々しいかすれ声でオンボスは言った。
オンボスの背中には数本の矢が突き立っていた。テサケウムはそれを抜いた。
「テサケウムよ、お前を守るので精いっぱいだった。だが守れなかった。許せ。」
初めて聞くオンボスの優しい言葉に、テサケウムは泣いた。
「お前は、なんともないのか」
テサケウムはうん、うんと、うなづいた。
「おかしいな、お前にも矢が当たったように見えたが、なぜお前は生きているのだ?」
テサケウムは自分の体を見た。かすり傷もなかった。そして首から下げていた荷物袋に矢が刺さっているのに気が付いた。矢尻の先は袋の中のトト書の表面で止まっていた。
「トト書が、私を守ったようです」
「そうか。トト書に助けられたか。」
オンボスはふっと笑った。
「トト書を広げて、傷口の上に乗せてくれ。矢の先には手を触れるな。」
言われるままに、テサケウムはオンボスの上にトト書を重ねて広げた。
「最後にお前を助けたのはトト書だったとはな、それにこの俺までもが。これで矢の毒のまわりが弱まった。心配するな、テサケウムよ。これで大丈夫だ。もういい、トト書をしまえ。櫂を拾ってこい、出発するぞ、俺を背負え、いよいよ大詰めだ。」

テサケウムはトト書を袋の中にしまい、剣から姿を戻した櫂を拾い、オンボスを背負った。そして夜明けに向かって歩きだした。
「ちがうぞテサケウム、逆を見てみろ」
巨大な建物が遠くに見えた。マントヒヒの石像が建物の手前の道の両側に立っている。
「トトの神殿だ、夜明け前、奴は必ずここに来る。急いでくれ」
空は青く、もう間もなく日の出の時刻であった。
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誰もいない、何も置いていないがらんとした神殿に入った。中央の広間にトトの像がある。向こうを向いて座ったヒヒの姿である。いや、それは石像ではなかった。トトと言われるその神がそこにいる。太古の昔、トト書を書いた神がそこにいる。この書を自分の自由にするためには、この神は倒さなければならない。トト神は、言葉の成就を邪魔するために、いずれ自分の目の前に立ちはだかる。この神を殺さなければ、先に進むことはできない。

テサケウムは櫂を握りしめ、背後からしのびよった。テサケウムは完全にオンボスと一体となっていた。こうして殺意をもってトト神に忍び寄ることが、自分の意志なのか、オンボスの意思なのか、もはやわからなかった。
握っていた櫂が剣に変わった。テサケウムは音もなく一気に走り寄り、いきなりトト神を背後から切りつけた。
トト神は傷を負ってふりかえった。「なぜここに人間がいる、どうして人間が私を傷つけることができる、そのうしろにいるのは、まさか・・」テサケウムはさらに切りつけた。トト神は深手を負った。
「ぶはははは、」とオンボスは笑い声をあげた、いや、実際に笑ったのはテサケウムであった。
「教えてやろう、これは太陽の船の剣、ラー神の剣、この世の最強の剣だからだ。」
テサケウムの次の一撃でトト神の首が落ちた。神は倒れ、神殿の床に赤い血が広がった。血は広がって柱や壁も赤く染めていった。テサケウムの体もトト神の血に染まっていた。
「さあこれで最後の仕上げができるぞ。」

オンボスと一体になったテサケウムは空へ飛びあがった。神殿のわきに流れるナイル川の中央に、刀剣をゆっくりと突き立てた。
ナイルの流れは刀剣で左右に分かれ、川の中央に大きな水の谷間ができた。刀剣は川底に達し、川底にある砂が見えてきた。そこにはたくさんの蛇やサソリがいて、その中央に大きな石箱があった。テサケウムが川底に降りていくと、蛇やサソリは盛んに威嚇してきた。テサケウムは呪文を唱え、髪についたトト神の血液のしずくを取って、蛇とサソリに吹き付けた。うようよ動いていた蛇とサソリは動かなくなった。テサケウムはその上に足を下した。
 石箱のふたを開けると、中に鉄の箱が現れ、鉄の箱をあけると青銅の小箱があり、青銅の小箱をあけると銀の小箱があり、銀の小箱をあけると金の小箱が出てきた。
「トトの隠し場所など、お見通しだ。この中に最後のトト書と、もう一つ大切なものがあるはずだ。」
黄金の箱を開けると、中には黒い石が一つ、ごろんと入っているだけであった。
「ない、ないぞ、」テサケウムは黒い石をつかんだ。そこには1行だけ、文字が刻まれている。それだけであった。「トトめ、だましおったな。」
怒りにまかせて石を川底に力いっぱい投げ捨てた。蛇やサソリがバラバラになって吹き飛んだ。

「見ておれ、お前の考えていることなどすぐに見破って見せる。」テサケウムは空中に浮かび上がり、ゆっくり剣をナイルから抜いた。抜くにつれて川はもとの流れを取り戻し、水の谷間はなくなった。
ぐるりとまわりを見た。川の東に血で赤く染まったトトの神殿、西方に赤いピラミッドがある。
「ははん、そういうわけか。」テサケウムは赤いピラミッドの頂上に降り立った。
「トトよ、見つけたぞ」
テサケウムは剣を逆手に持ちゆっくりと振り上げた。そして一気にピラミッドの頂上につきたてた。
ピラミッドは頂上から轟音を立てて崩れだし、がれきと化していった。剣はピラミッドの土台に達した。
土台の岩を取り除くと、そこにはナイルの川底で見たのと同じ石の箱があった。
石箱のふたを開けると、中に鉄の箱が現れ、鉄の箱をあけると青銅の小箱があり、青銅の小箱をあけると銀の小箱があり、銀の小箱をあけると金の小箱が出てきた。

金の箱のふたを開けるとそこには丸まった白いパピルスが一つ、もう一つピンク色の握りこぶしほどの大きさの塊があった。塊は規則正しく鼓動していた。心臓であった。
テサケウムはオンボスの声を聞いた。「やはりここだったな。おれをおろせ。」
テワケウムは背中に張り付いていたオンボスを、そっとあおむけに下した。オンボスは目をつぶっている。
「その心臓を、おれの胸の上におけ。」
言われるがまま、テサケウムは心臓をオンボスの胸に置いた。
「持っているトト書をすべて、そのうえにかぶせろ。」
言うとおりにトト書でオンボスの胸を覆った。ずぶずぶと音を立てながら、パピルスの高さが低くなった。
「トト書をどけろ」
心臓はすでにオンボスの体の中で脈打っていた。オンボスは笑い声をあげた。最初は低く、そして高らかに。そして目をあけた。目は邪悪な光に輝いていた。オンボスは、見慣れぬ角張った耳のある神として立ち上がり、その体は次第に巨大になった。あたりを見回し、しわがれた声を遠くまで響かせた。
「見よ、われの名はセト、われは、力の偉大なもの、嵐と暴風の領主。オシリスの息の根を止め、かつてこの世を支配したもの、そのセトがついに復活したのだ。憎むべき天空の神々よ、おれを嘲笑した神々よ、復讐の時は来たのだ。今度はお前らが泣く番だ。」そしてまた高らかに笑った。
セト神はテサケウムを見下ろした。
「テサケウムよ、あわれな人間よ、おまえはわしによく仕えてくれた。セトは受けたものを忘れはしない。このわしがお前を加護してやろう。お前の寿命が果てる時まで、なんびともお前を傷つけることはできない。トト書もお前にくれてやる。お前の愚かな大王の、みやげにしたらよかろう。」
空は真っ赤な朝焼けあった。朝陽があたって、セトの体は黒光りしていた。セトは剣を握りしめ、笑い声をあげて天に昇った。

こうしてテサケウムは5枚目のトト書を手に入れた。

テサケウムはトト書の袋を首から下げた。そして一人、百の門の都に向かって歩き出した。
朝焼けで染まった空の赤はいつまでも消えなかった。
風が吹きはじめ草葉がひるがえり、ナイルの川面は波で乱れた。
鳥たちはけたたましく鳴き声を上げ、犬や牛など動物はかなしい遠吠えをやめなくなった。
人々は家から外に出て不安そうに空を見上げた。
誰も仕事に手がつかず、あちこちで罵り合いの喧嘩が始まった。
その中を一人、テサケウムは百の門の都に向かって歩き続けた。

黒雲が広がり雨が降った。土砂降りとなり雷が鳴った。
北から冷たい風がおりてきた。南から灼熱の風が吹きあげてきた。風と風がぶつかる狭間に、巨大な竜巻が幾本も天へと立ちあがった。竜巻が通った跡に生きている命はなかった。
地震があった。激しく大地が揺れ、住居も記念碑も神殿も崩れ落ちた。
ナイルの水が逆流しはじめた。海の水が川をさかのぼり、耕地に流れ込んですべての作物が枯れた。
砂漠に炎が噴き出し、火山となってせりあがった。いたるところに火の雨が降った。
その中を一人、テサケウムは百の門の都に向かって歩き続けた。

ホルス神殿から、はやぶさの形となった神が天にかけあがった。すべての神殿から神々の姿が消えた。
神の声を伝えると称する者達があらわれ、世界の終わりを告げてまわった。
砂漠に埋められたミイラが立ち上がり、西に向かって去った。
嘆きの声が地に満ちていた。エジプトは神々に見放された。人間を守る者はいなくなった。
人々の欲望があらわになった。盗み、辱め、裏切り、殺し、あらゆることがおこなわれた。
その中を一人、テサケウムは百の門の都に向かって歩き続けた。

大気の神シュウがセトに殺され、天の神ヌト神は自分の体を支えきれなくなった。
巨大なヌト神の顔や体の輪郭が、空の奥から現れた。
空気が薄くなった。人々は息をするのも苦しくなった。
天を仰ぎ、次第に大地へと迫りくるヌト神の巨大な体を見て、この世が間もなく閉じられることを知った。
日蝕が始まり、太陽は次第に欠けていった。地上は薄暗くなり、見えるはずのないものが現れた。
その中を一人、テサケウムは百の門の都に向かって歩き続けた。

百の門の都は大混乱におちいっていた。都の門はくずれ、そこを守る兵士の姿はなく、都に逃げてくるもの、都から逃げ出すものでごった返していた。道はぬかるんで泥だらけで、持てるだけの荷物を持った人々で身動きが取れず、押し合い、突き飛ばされ、踏みつけにされて、いくつもの死体がころがっていた。男たちの罵声に満ち、つんざくような女たちの悲鳴がいつまでも響いた。前へ進み、後ろに引き返し、右へ、左へ、もはやどうしたらよいのか誰にもわからなかった。
宮殿の前の石段も、兵士、書記、その他得体のしれない人々があわてふためいて上り下りしていた。
階段の端にネルフィル老人が一人座っていた。ネルフィルはテサケウムがやってくるのを見つけて立ち上がった。
「帰ってきたな。このありさまだから、ついにやりおったと思っていた。よくぞ生きて帰った。しかし、他のものはどうした?出ていくときは百人を超える部隊だったはずだが。」
「みな、死にました。」
「そうか。それで、トト書は手に入ったのか。」
テサケウムは袋の上に手を乗せた。
「そんなに悲しい目をするな。よくやりとげたな。大王様がお待ちかねじゃ。しかし、お前ひとりの力でなしとげた、わけではないな。」
テサケウムはうなずいた。
「まあそうだろう。誰の力を借りたのか、だいたい見当はつく。」

二人は混雑している宮殿内に入っていった。守衛の兵士をつかまえて、王子テサケウムが帰還したことを大王に報告させた。二人は大王の居る広間に案内された。次々に伝令が出入り、領内の緊急事態の報告がされ、家臣たちが大声で議論していた。
「大王様、王子テサケウム殿がただ今お戻りにございます。」
守衛の声は広間の喧騒にかき消されていた。大王は昔と同じ玉座に座っている。しかしその背は曲り、髪の毛は真っ白で、壮麗な服の上に乗る顔は見る影もなく痩せて、皺だらけであった。顔色が悪く、肩で息をしていた。首から筒をぶら下げ、それを両手で抱えてなでている。うつろに開いていた目は、部屋に入ってきたテサケウムの姿をとらえた。そしてそこから目を離さなかった。
大王は右手を掌を下にして斜め前にあげた。ざわついていた部屋の中が静まり、家臣たちも大王の視線の先に居るテサケウムに気が付いた。
「アセンメト大王様、あなたの息子、テサケウムがただいま帰りました。偉大なる大王様にラーのとこしえの祝福があらんことを。」
拝礼するテサケウムをせかすように大王が尋ねた。
「それで、トト書は、手に入ったのか。」
「ここにございます。」
テサケウムは首から下げた袋の上に手をのせた。
「それか、そこにあるのか。皆の者、下がってよいぞ。」
家臣の一人が声をあげた。
「しかし大王様、すぐに御裁断いただかなければならない問題がいくつもございます。都の問題、ナイルの流れの問題、神のいない神殿、・・・」
「ええい、うるさい、皆で知恵を、出し合い、好きなよう、したら、よいではないか。」
「宮殿内の人心すら浮き足立って、国は乱れに乱れております。ここで偉大なる大王様のご英断を・・・」
「さがれ、さがれ、大王の命令が、わからぬのか。」
「はい・・・、大王様、仰せの通りに。」
人でいっぱいになっていた部屋から、不承不承家臣たちは出て行き、テサケウムとネルフィルだけがのこった。
「わしはここにいてもよろしいかな。」
ネルフィル老人がきいた。今やネルフィルの方がアセンメト大王よりずっと若く見えた。
「そちもいたのか、よかろう。トト書を、広げよ。」
テサケウムは袋から4枚のパピルスを取り出した。パピルスはいずれも白く、汚れもなくよい香りがした。アセンメト大王が立ち上がり、玉座から降りようとしてふらついた。テサケウムはあわてて大王を支えに行った。大王は大事そうに抱えていた、首からさげた筒の組みひもをはずそうともがいている。テサケウムは手伝ってはずしてやった。大王は筒から視線を離さず、それをテサケウムに渡した。
「あけてみよ。」
何のことかわからずにいると、大王は筒を上下に引っ張る真似をした。テサケウムが引っ張ると筒は真ん中から2つに分かれ、中に白いパピルスが入っていた。最初に宮殿の図書館で見つかった、トト書の冒頭の部分であった。
テサケウムはそれを机の上に広げていった。文字はまるで書いたばかりのようにみずみずしかった。次に自分が持ち帰った4つのパピルスからつながるものを選んだ。切れ端がぴたりと合うその次の一枚を並べ、また次の一枚をならべていった。すべてをつなげると、部屋の端から端まで届きそうなほど長い書物であった。
「まちがいなくつながるようでございます。」
「滅びる。エジプトは、滅びる。この宮殿も、皆、滅びる。時間は、もはやないのだ。はじめてくれ、ネルフィル。」
「しかし大王様、テサケウム殿は今しがた長い旅から帰ったばかり、砂埃もまだ落としておりませぬ。この書を手に入れる時の苦労話や、一緒に行った百人の息子たちの運命も、何一つ聞いておりませぬ。」
「そんなことは、どうでもよい、すぐにはじめよ。」
「国が亡ばんとする時に、大王様おひとりが生き延びるおつもりか。」
「お前が、その言葉を言うのか。」
「せめてテサケウム殿にねぎらいの言葉を。」
「くどいぞ、ネルフィル。」
ネルフィルは肩をすくめ、テサケウムに目くばせした。
「では少しお待ちください。始める前に、一通り目を通さねば。」
ネルフィル老人はトト書をはじめからじっと見ていた。テサケウムもそばでトト書に見入った。

部屋の扉をあけ、家臣が大声を出した。
「大王様申し上げます。かくれなきアメン・ラー神が、何者かに倒されたようでございます。さきほどから太陽は輝くことをやめております。」   
「大王様申し上げます。国中にセト神の赤い印が現れました。セト神が復活し、勝利したもようでございます。」
アセンメト大王は怒りの声をあげた。
「うるさい、さがれ、誰も通すな、命令じゃ。」

ネルフィル老人はトト書の最後の部分を、じっと見つめたまま動かなくなった。そして無言のままテサケウムを見た。テサケウムも問題の場所を見た。そこは長く続いていたトト書の文章が途切れ、まるまる一行がそっくり抜け落ちていた。テサケウムははっとした。ナイルの川底の黄金の箱の中に石があり、そこには一行の文字が刻まれていた、トト神は書物に細工をしていたのだ。
「どうした、最後まで、見たか、すぐに、はじめよ。」
「恐れながら大王様、この書は不完全でございます。」
「どういう、ことか。」
「最後の方の、一行が抜けております。」
「何を申しておる、これだけ長い、書物の、たった一行など、たいしたことは、なかろう。すぐにはじめよ。」
「では始めます。始める前に、大王様の真のお名前をおきかせください、それを唱えなければなりませぬ。」
アセンメト大王は自分の持つ真の名前を伝えた。
「それでは大王様は部屋の中央にお立ちください。我々は端に座ります。テサケウムよ、わしのそばに座れ、離れずに見ておれ。」
ネルフィル老人は目をつぶり、一回大きく深呼吸をしてから目をあけた。そして始めた

『この世での永遠の命を得るための呪文、神々の仲間入りをし、とこしえに喜びをあじわい、永遠の務めを果たさんがための呪文。命短き者たちを正しく導くための呪文。トト神、これを書す。ここにある者、命の限られし者、メリアメン・ウセルアマトラー・アセンメト。汝の心臓に永遠の光をみちびき、ラー神のふところに抱かれ、ともにいきながらえ・・・

たくさんのろうそくの明かりがついているにもかかわらず、部屋の中は次第に暗くなっていった。パピルスの文字は生き物のようにうねり、壁には数多くの影がうごめきだした。読み進むにつれてトト書が白く、明るく輝いた。そして切れ切れの書物は生き物のようにうごめいて、次第につながり切れ目のない長い一巻の書物となった。黒い古代文字が光の中に浮かび上がり、ネルフィル読み進むところから文字は次第に書物から浮き上がった。そして書物から離れ、部屋中を自由に飛び回りだした。文字は壁や天井、床にぶつかり、突き破っては戻ってきた。ヒュン、ヒュンと風を切る音が響いていた。
ネルフィルは構わず読み続けた。読み進むにつれ部屋の中は飛び回る文字で満たされた。それがしだいに大王の周りを低いうなり音をあげながらゆっくりと回りだした。文字は大王の体をかすめ、大王の壮麗な服は少しずつ千切れていく。文字はまるで遊びながら踊るように大王の周りを旋回し、ついに服はすべて千切れて落ちて、背の曲がったしみだらけの醜い老人の裸体が現れた。
ネルフィルが読むトト書も終盤になった。風切り音は甲高くなり、文字は狂乱状態で大王の周りを激しく回転し、ついに列をなして大王の体の中に突入しだした。大王は気絶し、体は不規則に激しく振動した。そしてトト書の最後の欠落行のところに至ったとき、突然文字列が乱れた。文字はバラバラになりながらかろうじて大王の体に入っていったが、入りきらない文字がいくつか、不規則に揺れながら、空中に舞い、消えて行った。すべてが終わり、静けさが戻り、大王は床にくずおれた。

そのときであった。突然の大音響とともに宮殿が揺れ、部屋の天井が崩れて白い煙に包まれた。天から光がさしこんだ。その光の中を、真っ白な衣に包まれた女神が、ゆっくりと降り立った。頭に階段の印をつけたイシス女神であった。女神はトト書を拾い上げた。文字はもと通りに整然と書かれている。女神はトト書をくるくると巻いた。そしてテサケウムとネルフィル老人を見た。その眼は怒りに燃えていた。二人はあわててひれ伏した。
「人間の中でもとりわけ愚かな二人よ。お前たちは自分がなにをやったのか、わかっているのか。おまえたちは、人間が手を触れてはいけないものに触れ、やってはいけないことをやったのだ。」
女神の言葉は鋭く、雷鳴のように鳴り響いた。
「テサケウムよ、お前はトト神の血を浴びているな、おまえがやったことはあまりに重大だ。いくらセトにたぶらかされたと言っても、許されはしない。一つだけ教えなさい。この書物には1行欠けた部分がある。それはどこにあるのか。」
「イシス女神様、それはナイルの流れの中、トト神様の何重にもなった箱のそばに、石に刻まれてございます。」
「そうか。その言葉に偽りはなさそうだ。しかし愚かなテサケウムよ、おまえは罰を受けなければならぬ。覚悟をしなさい。」
テサケウムは涙を流し、頭を垂れた。
イシス女神は手をあげた。そこに白い杖が現れた。女神は杖を握り、テサケウムに激しく振り下ろした。しかし杖はテサケウムの体の直前で止まった。女神は驚いた。何度杖を振りおろしても、テサケウムの体に触れることすらできなかった。
「セトだな。お前にはセトの祝福がある。仕方がない、お前は生かしておいてやろう。この愚か者よ。」ついで女神はネルフィルに顔を向けた。「ネルフィルよ、盗人の逃亡者よ、おまえを許すわけにはいかない。命は奪えないから、おまえを天上の奴隷にしてやろう。」「それから、そこにもう一人ころがっているな。永遠の命をほしがった愚か者。その者にはすでに罰が下されている。」
そしてトト書を持ったまま、イシス女神は天に上がっていった。ネルフィルの顔が半泣きのようになった瞬間再び白煙に覆われた。

白い煙が収まると、部屋には大王とテサケウムが倒れていた。テサケウムが先に気が付いて顔をあげた。
「大王様」とテサケウムはかけよって起こした。
大王は裸であった。定まらない視線で口角から涎をつーっとたらした。
「痛い、ばか。痛い。ばか。」
「大王様、いかがでございますか。」
大王の視線は定まらず、テサケウムの顔も見ようとしていない。
「おなかがすいた、まだたべていない。」
「どうなさったのですか、私が誰だかわかりますか、あなたの息子のテサケウムですよ。」
大王は鼻歌を歌いだした。そしてハハハと一人で笑った。大王は、テサケウムはもちろん、誰の顔もわからなくなっていた。


天変地異は終わりを告げた。日食で欠けていた太陽はもとにもどり、いつもの青空と強い日差しが戻った。ヌト神は再び天を支えるために消え、ナイルはいつものように流れ出した。
人々の噂では、復活したセトが天上で暴れて殺戮の限りをしていたが、太古の伝説と同様に、ホルスとの一騎打ちになり、最後はホルスが勝った、少なくともエジプトの地から追い払った、とのことであった。セトによって殺された神々は、イシス神がその魔力で復活させたのだという。

アセンメト大王は会話も自分の身の回りのこともできない痴呆の老人になっていた。エジプトの大王の座は後継者の争いになった。それは血で血をぬぐうよな争いであったのだが、大王の息子の一人であるテサケウムはそれに巻き込まれることはなかった。今や食事もトイレもまともにできないアセンメト大王の世話をして、残りの時間は図書館でパピルスを読んで一生を過ごした。
テサケウムは結婚をし子供をもうけ、年を取り痴呆老人のアセンメト大王より先に死んだ。テサケウムの子供たちも言いつけを守ってアセンメト大王の世話をしたが、いずれも年を取って大王より先に死んだ。そうして幾世代も経るうちに栄光のアセンメトの時代は忘れられ、世話する人もなくなり、アセンメト大王は街中を放浪するようになった。
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いまやぼろを着て大小便を垂れ流し、すえた臭いをまきちらしながらよろめいていく大王のことを、人々は疫病神と呼んだ。ある年、エジプトをひどい疫病が襲った。巷には死人があふれ、葬る人もいないほどになった。すでに王朝が変わった後で、誰もアセンメト大王を知る者はなく、疫病の原因は汚い姿でうろつくこの老人のためとされた。時の王の命令でアセンメトは捕らえられ、型通りの拷問をされた。そして王が見守る中、剣で突いたが、アセンメトは死ななかった。剣で幾ら突いて、大地に血が流れても、傷口を調べるとすでにふさがっていた。アセンメトは手首を切り落とされた。すると切られた手首から手が生えてきた。見物していた人たちは逃げ出した。兵士が首をはねると、胴体から再び首が生えてきた。時の王は恐れをなし、今度は丁重に葬るようにと、ミイラ職人にアセンメトを引き渡した。
ミイラ職人は面食らっていた。幾ら王の命令とはいえ、生きたままの人間をミイラにしたことはなかったからだ。弟子たちにアセンメトの手足を押さえさせ、内臓を取り出すために胸から腹を切り裂くと、アセンメトは叫び声をあげ、血が噴き出してきた。構わず腹を広げ、内臓をナイフで掻き出した。次の作業に取り掛かろうとすると、驚いたことに空っぽの腹腔に心臓や肝臓がみるみる生えてきた。腸がぬらぬらと伸びてきて腹腔内はもとどおりになった。そして切り裂いたはずの切り口は閉じて、傷痕さえ残らなかった。弟子たちは悲鳴を上げて逃げだした。しかたなくミイラ職人はアセンメトを布でぐるぐる巻きにしていって、動けないようにした。そして荷車で墓場にまで運び、そのまま砂漠の中の石の小部屋に封じ込めた。

アセンメト大王はその後も墓の中で生き続けた。頭を振り続けたために顔をまいていた布の一部がはずれ、隙間から墓の天井が見えた。近くを人々の足音が通り過ぎたり、犬や他の動物の鳴き声、時にはかすかに人間のおしゃべりが聞こえることもあった。それから数千年の時が過ぎた。今でも、大王の墓は発掘されることなく、どこか、エジプトの砂漠の下に埋もれている。

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参考文献
大英博物館 古代エジプト展 2012森アーツセンター
ツタンカーメン展 2012上野の森美術館
世界四大文明 古代エジプト展 2000東京国立博物館
エジプトの神々事典 ステファヌ・ロッシーニ、リュト・シュマン・アンテルム 河出書房新社
エジプト神話物語 ジョナサン・デー 原書房
エジプトの神話 矢島文雄 ちくま文庫
 

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