時間の庭  ユベール・ロベール展を見て その2

(その1から続く)

 娘はユベールの手をとった。娘の輝くような美しさに圧倒されて、ユベールは抵抗する事ができなかった。娘は絵の中に入っていった。ユベールもまた、大きな窓から外の世界に出て行くように、絵の中へと歩みを進めた。すると、まるで時計の針が逆回転するように風景が変わりだした。木々はその高さを減じ始め、草はその生えている範囲を縮めていった。崩れた壁にレンガが積みあがっていき、倒れていた柱は立ち上がった。庭の中央には円形の池が水をたたえ、そのふちの彫刻のライオンの口から、透明な水が流れ出した。
 ユベールは立ちつくしてそれを見ていた。あたりが静かに落ち着くと、中央の池の周りをおずおずと歩いてみた。庭の周りには列柱が立ち並んだ回廊があり、壁には花や木や鳥などが見事に描かれていた。壁には規則的に扉があって、そのむこうに小部屋が並ぶしつらえになっているようだった。その小部屋の一つが、廃墟になった後の世の物置になったようであった。
 池の周りをまわってもとの場所に帰ってきて、ユベールはぎくりと足を止めた。彼が庭の中に足を踏み出した場所の後ろの壁に、等身大の人間の絵が描かれていた。その絵の場所はまさに、彼がイタリアで廃墟になったこの庭をスケッチした場所、パリのアトリエでこの庭を描いた絵を見るために後ずさりして立っていた場所であった。壁の絵の人物は、ローマの服トーガを着てはいるものの、その顔はまさにユベール・ロベール、彼その人であった。

 「この人は私の夫、ユベルス、ロベリウス。あなたはこの人の生まれ変わりなのよ、きっと。ここではあなたの名前はユベルス・ロベリウスなの。」
「そうだったのですか。・・・なんだかよくわからないが、とにかくこのローマの街を、見てみたい。」
「ええ、参りましょう、その前に着替えをしなくては。」
中庭から家の部屋の中に入るとかいがいしく働く人がいる。荷物を抱えたまま顔を上げ、愕然とした表情に変わる。
「ユベルス様、ユベルス様ではありませんか」
家の中の人々が集まってくる。
「お体の具合はいかかですか。」
「もうだめかと思っておりました。」
「奇跡が起こったのでございましょうか。」
彼は着替える。古代ローマの、ゆったりとした服、トーガ。その服を着させてもらう。
「ちょっと散歩してまいります。食事の用意をしておいて。」
「わかりました、ユリア様。お気をつけておでかけください。」

 家をでるとユリアは言った。
「あれらは奴隷たちですのよ。」
ユベールはそれに返事をするどころではなかった。見たこともない、石造りの瀟洒な家並み。装飾のついた列柱が並ぶ立派な建物。次々に現れる美しい建築に、目も心も奪われていた。
会う人がみな彼に驚いて、あいさつをしに集まってくる。皆が古代ローマの服装をしている。

「ユベルス殿、ユベルス・ロベリウス殿ではござらぬか、お元気になられたか。」
「ユベルス、お前はもうだめだ、などといっているやつがいたぞ。」
「具合が悪いと聞いていたが、もうよくなられたか。」
「こいつ、幽霊ではあるまいな。」
「美人の奥さんとお散歩かい。」
「ユリア、よかったなあ、・・・おれは残念だけれど。」

 人々は二人の後をついて歩き、ユリアの自宅に帰ると、ローマ式のねそべっての宴会が始まった。
「ユベルス、飲もう。」
「回復を祝して、乾杯。」
「不死身のユベルスに、乾杯。」
「美人のユリアに、乾杯。」
「楽隊を呼んで来い、踊り子だ踊り子、ロベリウスが元気になったといえばみな来るぞ」
「ユベルス、食え、もっと食え。」
「いつから神々の仲間入りをしたんだい。」
「冥府からどうやって抜け出したのか教えろ。」

 ユベールは気持ちよく飲んだり食べたりしていたが、はたと思い出した。
「ユリア、だいぶ時間がたったよ、そろそろ元に戻りたい、パリのアトリエに私がいないことを誰かに気づかれたら、大騒ぎだ。」
「それでは少し元の世界に戻ることにしましょう。」

 宴会で盛り上がる人々の間から抜け出し、二人は中庭に出て、ユベルスの絵が描いてある壁の前に来た。
「ここからもどればいいのよ。」
「どうやって。」
「絵をよく見て。」
ユベールがじっと目を凝らすと肖像の向こうに、うっすらとパリのアトリエが見えてきた。ユベールは肖像画に手を触れてみたが、壁の冷たい感触があるだけであった。
「そのままでは戻れないわ。あなたがこの絵と同じ位置に立たなければ。こちらをむいて。」
ユベールはユリアの方に向きを変えた。
「絵に重なるように、そのまま後ずさりして。」
彼の体は、まるで垂直になった水面に沈み込むように、壁のなかに入っていった。彼の姿は壁の肖像画とぴたりと重なった。すると庭が変貌を始めた。列柱は倒れ壁が崩れ、草木が生えて廃墟となった。気がつくと彼はパリのアトリエの中に立っていた。目の前には彼の廃墟の庭の絵があった。ユリアは絵の中から出て来た。目の前に夜明け頃の時間、人々はまだ寝静まっているらしかった。

 「わかりましたでしょう、この場所でこちらの世界と、あちらの世界がつながっているのよ。わかったら戻りましょう。」
「ちょっと待ってくれ、そう簡単はいかないよ、私はこちら側の人間なのだから。こちらの世界を捨ててあなたの世界に行くわけにはいかないよ。」
「そうね、そうよね。でも、私にいい考えがあるわ。」
ユリアはアトリエの中を見回し、ユベールの自画像を見つけた。その絵の前に行き、跪いて両手を合わせ、目を閉じうつむいて小声でお祈りをはじめた。

 「ハーデスの神よ、冥宮の王者よ、ユリア・ディオメデスが再びお願いをします、この絵の人物に命をおあたえください、あなた様は先の私の願いをかなえてくださいました。しかしその願いはまだ成就されたとはいえません。そのためには今また一つの願いをかなえてくださる事が必要なのです。どうかこの絵の人物に、命を与えてください。」

 ユリアはしばらく祈っていた。次第にユベールの自画像の顔に血の気がさし、生き生きと動き出してユリアを見た。そして絵の外に歩き出してきた。アトリエの中ではユベールの前に、彼と全く同じ顔、同じ体型の人物が立っていた。

「これはあなたの影よ。あなたを演じる役者の奴隷と思えばいいわ。あなたの代わりにここの世界のことをやってくれます。その間あなたはローマの世界にいることができるのよ。影の手を握って御覧なさい、奴隷が何をしてきたのかの記憶が見えて、その記憶をあなたの記憶にすることができます。影から記憶をもらってこちらの世界に戻れば、誰にも気づかれないわ。」
ユベールは影の手を握った。
「・・・何も感じないが。」
「当たり前よ、今生まれたばかりなんだから。まだ何の記憶もないわ。まずは、自分の名前を教えてあげなければいけないわ。」
「こいつの名前はいったいなんていうんだ?」
「あなたの名前に決まっているじゃない。」
「そうか・・・お前の名前はユベール・ロベールだ。ユベール、ロベール。わかったか、いってごらん」
「・・・私の名前はユベール・ロベール・・・」
「そうだ、お前の名前はユベール・ロベール、私の影であり、私の奴隷だ。わかったか」
「私の名前はユベール・ロベール、私は影。あなたの影。あなたの奴隷。」
「そうだ、いいぞ。私はこれから古代ローマに行って、建築や絵画の勉強をしてくるから、留守番を頼む。とりあえずのお前の仕事は、この中庭の遺跡の絵の複製を作れ。注文主に届ける分を急いで描かなければならない。この絵はアトリエにのこしておくんだぞ。いいか、たのんだぞ。」
「はい、わかりました、ご主人様。」
そう言い聞かせ、さらにこまごまと指示を与えてから、ユリアをつれてふたたび古代ローマの世界に入っていった。

 町の名前はメピポといった。イタリアにあるローマ帝国の地方都市で、豊かなローマの富に預かって繁栄していた。町には人々が自由に利用できる公共施設がたくさんあって、娯楽には事欠かなかった。人々の間に貧富の差はあったもののフランスに比べればずっとましで、ローマの奴隷達の方がフランスの農民より人間的に扱われていた。つまり、古代ローマの方が千数百年後のフランスよりも、住みやすい豊かな社会であった。
かつてユリアの夫であったユベルス・ロベリウスも画家であった。ユベール・ロベールはユベルス・ロベリウスの代わりにその町で生きた。腕のよい評判の画家として、一般の住居はもちろん、商店、飲食店、競技場、神殿にまで、町中に絵を描いていた。妻のユリアを愛し、子供が生まれ、奴隷達を大切にし、あたたかい家庭を作った。美しく賢い妻ユリアは彼の自慢であった。

 ユベールは毎晩のようにパリのアトリエに戻らなければならなかった。まず影の手を握り、彼が一日何を経験したかを探った。影の記憶はすべてユベール本人の記憶となった。はじめそれは情けなくなるほどの惨憺たるありさまだった。見よう見まねで描いていた絵はとても見られるものではなく、周りのものはユベールが極度の疲労から病気になったと考えているようだった。ユベールは影の絵に手を加えてどうにか見られるものにした。影には根気よく絵画の基礎を教えた。影は手のかかる奴隷であった。絵の他にも庭のこと、彼を取り巻く人々のこと、彼のパリの妻アンヌや子供のことも教えなければいけなかった。はじめは危なっかしい綱渡りの日々ではあったが、一日一日をなんとかこなすうちに、影もだんだん慣れてきた。時々ユベールは影を元の自画像の中に戻し、自分自身で国王に謁見したり、パリの妻のもとに帰ったりもしていたが、影と彼自身の入れ換わりに気づく者は誰もいなかった。

 素晴らしい二重生活だった。パリでは押しも押されぬ画壇の中心人物となっていて、一方古代ローマでも売れっ子の画家であった。仕事量は人の2倍、家庭も2倍の忙しさだったが、精力家のロベールは陰の力を利用しながらそつなくこなしていった。秘密を知っているのは古代ローマの妻ユリアだけで、パリの妻アンヌは夫が本人から影にすり替わっても全く気付かなかった。いずれも正式の結婚で、ユベールは気分次第で自由に行き来していたが、ユリアは何も言わなかった。そうして何年もの月日が過ぎていった。だんだんと影の絵はうまくなり、ユベールの思った通りの絵をだいたい描けるようになったので、さほど手がかからなくなった。次第に彼はパリのことは影に任せるようになり、ユリアのそばにいる時間が長くなっていった。

 その幸せの日々は永遠に続くかと思われた。

 ある日、大地震がメピポの町を襲った。恐ろしい地響きとともに大地が大きく揺れ、町の石造りの建物はあちこちで崩れ、砂埃が空へ舞い上がった。人々は慌てふためいて泣き叫び、走り回って町は大混乱におちいった。幸いユベールはけがすることもなく救助に走り回っていたが、突然極度の不安に襲われた。パリで何かがあったに違いない。パリでも大変なことが起きている。その直感にとらえられたまま彼は立ち尽くした。再び余震があり、町の騒ぎはさらに大きくなったが、彼はもはやここにはいられないと感じていた。彼は家に戻った。家の前にユリアと奴隷達が道路に避難していた。
「ユリア、私は今からパリにもどる。」
「駄目よユベルス、今はだめよ、こんなときに私を一人にしないで。」
「心配なんだ、悪い予感がしてならないんだ。」

 ユベールはユリアの手を引いて家の中に入り、奥の中庭に行った。家の中もあちこちが崩れていた。
「心配することはない、様子を見たら、すぐに帰ってくるから。」
「だめ、きっと帰ってこれなくなるわ、パリのことは忘れて、このまま私と一緒にいて、お願い」
「それは心配しすぎだよ、いつものようにちょっと行くだけだ。」
「ユベルス、あなたは行ってはいけないわ、きっと悪いことが起こるわ。・・・
・・・ユベルス、本当のことを言うわ。もともとユベルス・ロベリウスと私は、あなたに会うよりずっと昔からの私の知り合いだったよ、私たちは愛し合っていたの、深く愛し合っていたのよ。そして私たちは結婚したの、でも幸せだった日々は、長くは続かなかった。彼が病に倒れたの。皆はもうだめだって言うし、私があんまり泣くものだから、彼は力を振り絞って、自画像をここに描いてくれたのよ。彼は私に絵を残してくれた。皆はユベルスが死んだって泣いたけれど、私には信じられなかった。
私は祈り続けたの、ハーデスの神、冥宮の主に、あなたを帰してくれるようにって。この中庭で、1700年の間祈り続けたのよ。それからやっとハーデスは聞いてくれたのね、あなたは帰ってきた。あなたがちょうどその絵のある場所に立って私のところに戻ってくるのに、1700年かかったわ。
でもハーデスは恐ろしい神よ。一度手に入れたものは決して手放さないの。だからユベルス、いかないで、私のそばにいて。ハーデスはあなたを取り戻しにくるわ。」
「心配はいらないよ。私はローマの神などは信じていないからね。」
「そうね、あなたは本当はユベール・ロベールなのですものね、わかっていたわ。こういう日が来る、いつかこういう日が来るって。ちょっとお待ちになって。・・・・・・ここにあなたのお金があるわ。これはフランスのお金でしょ、今から1700年後にここであなたからいただいたお金よ。こうして大切にしまっておいたのよ。何かの役に立つかもしれないから、あなたにお返しします。」
 ユベール・ロベールはお金を受け取った。それはかつてユベールがイタリアでの絵画修行中ユリアと初めて会った時の、3日間のお金であった。彼はそのお金を握りしめ、ユリアの体を抱いた後うなづいて見せた。そして肖像画の描いてある壁の絵の中に、ユベールは入っていった。

 絵から出ようとすると、いつもとは勝手が違う。絵が重なるように乱雑に置かれていて、その隙間にユベールははさまれていた。ようやっとのことでその間を抜け出した。部屋は閉め切ってあって薄暗い。鎧戸の下りた窓からわずかに陽の光が漏れて入っている。乱雑に置かれていたのは彼の絵であった。誰が勝手に絵を移動したのか、おまけにこんなに雑に扱って。彼にはわけがわからなかった。彼はローマのトーガ服のほこりを払いながら、隣の部屋へと通じる扉を開けた。

 そこには机が並び、書類の束を前にした男達数人が、入ってきたユベールを驚いた顔で見ていた。中の一人は拳銃を手元に引き寄せている。ユベールは茫然と入り口で立ち尽くしていた。あまりにも場違いな古代の服装だった。
「いったいあなたは誰だ。」
「私はユベール・ロベールだ。」
男たちは彼から目をそらさず何事かささやき合った。
「私を知らないのか、私は王の庭園設計士、そしてルイ16世絵画コレクションの管理者の、ユベール・ロベールだ。」
「ああ、この人のことを前に見たことがある。確かにユベール・ロべールさんに違いない。」
ある者が目配せをした。それを受けた者がうなずいて部屋の外に出て行った。
「いったいあなた方は何なんだ、ここは私のアトリエであるはずだが。」
「これは申し遅れました、ロベールさん、私たちは革命評議員のメンバーです。」
「革命評議員?なんだいったいそれは。」
「これはとんだ御冗談を、ロベールさん、それよりあなたはその恰好をどうしたのですか。これから仮装舞踏会にでも行かれるのですかな。」
「いやこれは・・・今度描く絵の登場人物の服装について研究をしていまして。」
「それでそんな服装を、なるほど・・・さすがは廃墟のロベールと言うことだけはある。」
そうして男たちは笑った。しかしその眼は笑っていなかった。
数名の兵士が部屋にどやどやと入ってきた。連れてきた男がロベールを指差した。
兵士の一人が言った。
「あなたは 、ユベール・ロベールさんで間違いはないですか。」
「いかにも、私がユベール・ロベールだ。」
「それではあなたを逮捕します。」
ユベールの両脇に屈強の兵士がやってきて彼の両腕をつかんだ。
「離せ、いったいなんのつもりだ。」
革命評議会の男が言った。
「おかしいですな、ロベールさん、あなたの裁判は今朝あったはずだが。死刑判決に恐れおののいて変装して脱走されたのですな。」
「死刑・・・そんな、ばかな・・・」
「連行しろ。」

 ユベール・ロベールは兵士たちに引きずられるように連行され、監獄へと入れられた。そこは死刑囚たちの牢で、多くの男達が詰め込まれていた。ある者は手紙を描き、ある者は涙を流し、仲間と談笑している者、神父に懺悔している者など、さまざまな様子であった。
死刑執行は明日の朝であると告げられた。ユベール・ロベールは床に座り込んだまま動けなかった。ユリアから渡された硬貨はだいぶ落としてしまったが、残りを手のひらの上で眺め、手を握り、また手を開いて見ていた。

 夜中ユベールを呼ぶ声に彼は気づいた。見ると牢の外に、彼の奴隷である彼の影が立っていた。
ユベールは牢の格子に走り寄った。
「おまえは、おまえは・・・」
「おかえりなさいまし、ロベール様、あなたが帰ってきてくださって、私は助かりました。」
「いったいどういうことだ、説明して聞かせろ。」
「革命なのですよ。フランスに革命が起きたのですよ。今まではあなたもご存じのとおり、王様をはじめとする貴族が民衆を支配し、そこからの上がりで暮らしていました。今から4年前のことですが、民衆が立ち上がり、貴族の支配を打ち破って、自分達の政府をうちたてたのです。これは革命なのです。貴族たちは国外に逃亡するか、残ったものは次々に処刑されています。あのルイ16世も、マリー・アントワネット王妃も、ギロチンにより露と消えました。」
「ギロチン?何だそれは。」
「効率よく死刑執行するための首切り機械ですよ。」
「なんということだ。」
「いま政府はロベスピエール率いるジャコバン派が握っています。彼らは周りを敵に囲まれて、恐怖のあまり理性を失なっています。彼らは敵と思われるものを見境なく逮捕し、パリだけでも連日数十人もの処刑を行っています。あなたは王党派とみなされて逮捕されたのです。」
「逮捕されたのはお前だろう、私ではない。」
「いいえ、逮捕状はユベール・ロベール、あなたに出されたのです。裁判では私はできるだけの弁明はしたのですよ。しかし死刑判決は逮捕される前から決まっていました。判決文は例文があって、名前のところだけ書き込めばよいものが最初から用意されていたのです。」
「いいや逮捕されたのはお前だ、ここ数年はパリの仕事はお前にすべて任せていた、王党派なのはお前で、おまえが死ぬべきなのだ。命令する、お前がこの牢に入りなさい。おまえは私の影で、私の奴隷にすぎないのだ。私は牢の外に出ることにする。」
「ははは、そうはいきません、ロベールさん。もはやあなたは私の主人ではなく、私は奴隷ではありません。フランスでは革命が起きたのです。人は自由なものとして生まれ、権利において平等なのです。もはや生まれによって差別されることはないのです。私とあなたは対等なのです。」
「何をばかなことを言っているのだ。」
「あなたには感謝しています。あなたは生きる喜びを教えてくれたのですから。絵を描くことは素晴らしいことです。庭を作ることも素晴らしい、この世で生きることは素晴らしい。ついでに言うと、あなたの奥さんも素晴らしい。」
「きさま、きさま、何を言っているのか自分でわかっているのか。」
「死刑判決が下されて、危うく私は処刑されるところでしたよ。そこへあなたが帰ってきてくださった。感謝の言葉もありません。これからはあなたの名前を汚さぬよう、できる限り精一杯の仕事をして見せます。お別れに握手をしましょう。」
そして影は手を差し出した。ユベールはその手をじっと見た、それから影の顔を見た。ユベールはおずおずと手を出した。その手を影の手が包んだ。しかし、手からは何も伝わってこなかった。これまでなら影の記憶が一瞬のうちに分かったものが、何もわからないのだった。呆然としているユベールの手を影は放した。
「最後に一言だけ。今日あなたが帰ってきたのは偶然ではありません。私があなたをお呼びしたのですよ。あるお方が、あなたを呼ぶようにと教えてくださいましたのでね。その方は、死ぬ運命にあるのは、私ではなく、元のユベール・ロベールあなただと、おっしゃっておいででした。」
そして影は背を向けて去っていった。


 1794年の年が明けたパリのよく晴れた朝、いつものように兵士達に取り囲まれた囚人達の列が、革命広場の処刑場まで続いていた。ほとんどの囚人達が諦めからおとなしく歩いていたのと対照的に、一人泣き叫びながら暴れている者がいた。ユベール・ロベールであった。髪はぐしゃぐしゃに乱れ、目は落ち窪み、涙と鼻水で汚れた顔はゆがんでいた。彼は数人がかりで兵士に抑えられ、引きずられるように歩かされていた。手には小銭をしっかり握っていて、それで処刑人達を買収するつもりかと冷やかされていたが、その硬貨を決して放そうとはしなかった。広場では多数の兵士が囚人たちの周りをぎっしり固めていた。革命広場の中央に植えられたギロチン台で、処刑は早朝から手際よく進んでいた。
 順番が来るとユベールは最後の滅茶苦茶な激しい抵抗をした。兵士たちは彼を死刑執行人達に引き渡そうとしたがとても押さえつけられず、執行人達とともに彼の体を抱え処刑台の上にまであがらなければならなかった。そして数人がかりでギロチンの固定台の上に彼を縛りつけた。
 彼は叫んでいた。
「おれはユベール・ロベールなんかじゃない、おれの名前はユベルス・ロベリウスだ、メピポの町に住んでいるローマの人間だ。人違いだ、おれはユベール・ロベールじゃない。助けてくれ、ユリア、ユリア助けてくれ。愛していた、お前のことを愛していた、ユリア、でてきてくれ、もう一度このおれを古代ローマにつれていってくれ、ユリア、まだ死にたくない、お願いだ、・・・」
 最後の瞬間まで叫び声が続いた。死刑執行人の合図とともに留め金がはずされ、ギロチンの刃が落ちる鈍い音とともに叫び声は消えた。握っていた硬貨は台の上に音たてて散らばった。


 こうしてユベール・ロベールは死んだ。彼の影のほうは監獄の中で皿に絵を描くなどして生計を立て、最悪の日々をうまく生き延びた。その年の夏、テルミドールのクーデターが起こりロベスピエールが処刑されると、その数日後に影は釈放された。その後彼に革命政府から仕事が入るようになり、美術館管理委員のメンバーに任命された。ルーブル美術館の設計をおこない、その完成から廃墟にいたる空想画を描くなど、精力的に仕事をおこなった。そして画家としての栄光と名誉に包まれて1808年、73歳で天寿を全うした。充実したすばらしい人生であった。
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