円山応挙展を見て

江戸時代の画家のことはよく知らない。とにかく絵なるものを見たくなり、円山応挙展を三井記念美術館に見に行った。
展覧会情報は
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index.html

円山応挙は農家の次男に生まれた。農民である男が、己の才覚を絵筆一本に託して身分制度からはずれて出世しようというのである。他の人のできないことを目指す、どぎついまでの自己主張がなければのし上がることはできない。相当の覚悟と気迫があったはずで、全体的に、野心がそのまま絵になったような感じをうけた。

初期は玩具屋で「のぞき眼鏡」の絵を描いた。これはレンズをそなえた装置を覗き込むと絵が立体的に見える、という遊興のための絵である。この世の中の3次元空間を2次元の紙に写し、それをまた3次元に戻すように見てもらうのである。風景をいかにリアルに描きとるかが関心の焦点で、その方法は遠近法と、細密描写によるもの。物の形が不自然にゆがむまでの、どぎつい遠近法。どうだ、ここまで細かく書ける画家はほかには居ないだろう、と言わんばかりのかなり挑戦的な細密画。これみよがしの技量のひけらかしなのだが、当時の人々はさぞ驚いたことだろう。
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画家としての地位が確立するにつけて、未消化なものが解決して、新たな地平への挑戦へと向かっていく。基本はあくまでも、万物を紙に正確に写し取るという徹底した写生である。じっと見つめる対象物だけが細密にリアルに描かれて、しだいに背景や、周りの余分なものがはぎとられていく。たとえば、雀と竹は見事に描かれる。他のものは重要でないので描かない。孔雀と松はまるでそこに存在しているかのようにしっかり描く。あとは何もいらない。つまりは眼で見るのではなく、心に見えたものしか描かないということか。
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そしてその写生に加えて、画面上でどう構成するかという空間への意識。2次元の平面で3次元の空間を現出するためにどうしたらよいのか。ものすごく考えたのだろう。一つ一つの対象物が全体の中で、また、ふすまや屏風の制約のなかで、ここでしかあり得ないという場所に置かれていく。

おれはこんなこともできる、あんなこともできる、どうだ、おれの仕事はおもしろいだろう。おれのように描けるやつが他にいるか?やれるものならやってみろ、と応挙が言っている気がした。いやあ、たいしたもんだ、まいりました、と私はひたすら感心した。応挙の絵からは、相当の自信、自己主張を長い年月がたっているにもかかわらず感じたのだが、名を残した人の仕事にはよくあることなのかもしれない。

気になったのは、人間が描かれていないということ。人の気持ちや心、思い、願い、怒り、悲しみ、人生について、応挙はたぶん興味がなかった。
誰も他の人がやってことのない、新しいものを作り出そうというオリジナル性を現代アートは身の上としている。美しいという概念を疑っていたかいなかったかの差はあるにしろ、応挙も現代アートに通じる部分があるように感じる。そのかわり人間のもつ大切な一部分が抜け落ちたのではないだろうか。いずれも、極めてドライ。わたしはもっとウェットなところがほしいので、何か大切なものが足りないと感じる。ないものねだりしても仕方がないことではあるが。

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