若冲の動植綵絵を見て その2


隠居後の若冲はどんな生活をしていたのか。さらに私は想像をめぐらしてみた。
京都の家は門口が狭く奥行きが長い。中央には採光と通気のための中庭がある。若冲はその中庭に羽のきれいな鶏を集めて飼育場にしている。朝の時を告げることから始まって、甲高い鳴き声やらバタバタする羽音それに争い喧嘩騒ぎで一日中やかましい。あちこちが糞便で汚れて羽根が舞い臭いもひどくて、まるで鶏小屋の中に住んでいるようなものだ。隣近所からの苦情はひと包み持って挨拶に行くことで解決した。
若冲はその中庭の奥にある直射日光が入らない部屋を仕事場にしている。部屋の中は書きかけのスケッチ、乾いた絵の具のついた皿、必要なのか屑なのかわからない紙きれ、いろいろな形の石、貝殻、枯れた花や葉、虫の死骸、鶏の羽根、それにもちろん絵の具を入れた容器がずらりと並び、多種多様な筆、描くのを待っている絹の画布も重ねてある。部屋の壁沿いには図譜やら仏典やらの本がたくさん積んであって、そのわきには小さな仏像が鎮座している。人から見れば乱雑にしか見えないこれらの物も、独自のこだわりで一つたりとも移動することを許さなかったので、下女が掃除するときは気をつかう。むろん訪問客が部屋に入ることなど許されない。
若冲の着物は大概よれよれで絵の具や垢まみれになっている。きれいな着替えはとうに用意しあるのだが、熱中している絵師が気にする様子はない。絵を描いていたかと思うと縁側に座ったまま何日間もひたすら中庭の鶏を見ている。かと思うとスケッチやら下書きなどで夜中になっても行燈の明かりをたくさんつけて筆を走らせている。興が乗れば水も食事も口にしないから、部屋の入り口に食事がひからびていて、お茶には埃が浮いている。腹がすいているのに気がつくとそいつをかまわず猛然と食べる。おかずは毎日卵料理なのだが、文句を言わないのはそれに気づいていないせいなのか。

いよいよ絵を描く段になれば、画布である絹地を前にして背を伸ばして座り、腕組みをして白い布を見ている。いくら鶏が騒ごうとその姿勢のまま小一時間動かないこともある。頭の中ですでに出来上がっている絵を、寸分たがわず目の前の画布に落とし込んでいる最中なのだ。そして絵が絹地の隅々まではっきり見えた時、若冲は手をのばして細い絵筆をとる。すでに念入りに調合してある赤い絵の具の皿に筆を浸し、穂先を整える。

例えば牡丹小禽図(図2)ならば、花から描き始めたのだろうか。狙いの位置に筆を慎重に移動し、絹地についた途端筆はなめらかに動きだして迷いがない。少し曲がった赤い線、それにもう一本逆に折れ曲がった線を合わせて一枚の花びらの形とする。となりに次の花びらを描きさらにその次を続け、全体が一つにまとまるよう形を整えていく。花の輪郭線ができあがると若冲は筆を変え、ほのかな紅の混じった白が幾段階にもまじりあうよう、微妙な調節をしながら一枚一枚の花びらを染めていく。相当の時間をかけて細部を仕上げ、最後に中央にあるおしべの花粉の黄色をつけ終わると、これまで描いていた線や色が牡丹の花としての命を得て、浮かび上がるようにしてみずみずしく輝いている。若冲は疲れた様子もみせず、次の花へととりかる。・・・

よく言われることだが、若冲の絵には徹底したこだわりがある。形への偏愛や必要以上と思える細かさがある。それがまるで自閉症スペクトラム症、あるいはアスペルガー症候群の人が描いた絵のようだと言う人がある。かなり無責任な見方ではあるが、今日に伝わる彼の生きざまを考え合わせれば、たしかにそんなふうに思えないこともない。もっとも若冲程度の変わり者の芸術家などいくらでもいて、一般社会常識のある大芸術家の方が珍しい。このことについては以前から興味があったので、蛇足ではあるのだがこの際調べてみることにした。

いささか乱暴ではあるがざっとまとめてしまうと、自閉症スペクトラム症とは、知能の程度に差はあるけれども、幼児期から対人関係の構築が困難な傾向があり、行動や関心が狭くて二次的に情緒的な問題を起こすこともある人の一群、とでもなろうか。最近では注意欠如多動症や限局性学習症とともに発達障害(神経発達症群)の一つとして注目されているようだ。個人差が大きく、個性と独創的な発想で評価される人がいる一方、対人コミュニケーションが阻害されて周りからの援助なしには生活が成り立たない人もいる。程度の差はグラデーションになっていて他の発達障害とのオーバーラップも多く、さらには親も発達障害を抱えている場合もあって問題は複雑だが、とりあえず生活に支障かあるかないかを診断の目安にするようだ。しかしグレーゾーンを見過ごすことも、成人してからの引きこもりや家庭内暴力など重大な結果につながることがあり問題ではある。
自閉症スペクトラムの人は幼児期の脳の発達過程のバランスが悪く、目や耳などから入る雑多な刺激から大切な情報を識別する脳の処理能力が低い。結果として重要ではないが目立つ感覚に過敏になったり、逆に感覚情報の洪水の中で大切なものを見失う感覚鈍麻に陥ったりする。例えば、網膜に映るたくさんの情報のうち、人の顔が重要だとわからないので人と視線を合わすことができない。自分の気を引く色や形や動きの感覚に脳が支配されて、その感覚刺激に延々とこだわる。結果として人間関係を築くのがむずかしく、それは本人を情緒不安定にさせ問題行動をおこす原因となる。パニックになって奇声を発して飛び跳ねたり、常軌を逸した行為を繰り返す子供を見かけることもある。養育する側の苦労は並大抵ではないが、今では養育の工夫や薬物療法もかなり進んできているので、できるだけ早期に発見して対応することが重要だと言われるようになった。

若冲のどこに自閉症的要素があるかといえば、まずはその異常なまでの細部へのこだわりである。動植綵絵のどの1枚をとっても、拡大鏡でないとわからないような細かな表現が画面全体に及んでいて、手を抜くと言うことが一切ない。形や色に対する記憶の仕方も独特で、一つのパターンを執拗に反復して飽きることがない。なみはずれた色彩感覚を持ち、それを実現するために新しい絵画技法を案出してまでこだわりぬく。伝統を超越した彼の画法は、若冲の視覚に関する感覚過敏があったからこそできたのだとは言えないだろうか。
いっぽうでは感覚鈍麻ともいえそうなほどの普通の対人感覚の欠如がある。評伝によれば、若冲は酒も飲まず女も近づけず、世間一般の付き合いを好まなかった。有名青物問屋の若旦那が突然ひきこもって一日中鶏を眺めていたらそれが京都中の噂にならないはずはないのだが、そんな世間体などはたぶん気にしていない。人の顔は無表情の仏絵か人形のような童顔を描いたくらいでいまひとつ人間味にかける。動植物は表情を読み取るような面倒な作業がないので描きやすかったのではないか。いよいよ動植綵絵が完成し、友人たちが言葉を尽くして賞賛しているその面前で、千年後の理解を待つ、などと平気で言い放つ無神経さは自閉症的ならではの言葉だと思う。

むろんこんな程度では若冲が自閉症スペクトラムに属していたとは到底言えない。絵の友人たちとはうまく付き合っていたようだし、実家のある青物横町の危機に際してお上との交渉に粘り強くあたったというエピソードはその反証になろう。そもそも若冲が自閉症だったとレッテルを張ってみても意味がない。自閉症傾向をもつ者の生きづらさが絵を描く原動力になったのだ、などと物知り顔で言ってみても、それで若冲の絵が理解できるとは思えないからである。

若冲の絵や人となりについてはこれまで多くの人が分析してきたし、今後も論考は続くだろう。私などがとやかく言っても仕方がないのもわかっている。私は実物の絵を見ながら不安になってきた。あまりにも完成度が高くどこをとっても完璧なので、雑念中心の私にはいささかよそよそしく見えてくる。こんな態度で見ていたのでは絵の本質を見ることなどできはしない。相国寺に奉納されたという宗教画としての動植綵絵が、衣食住足りて祈ることもないこの私にわかるのだろうか。高価な絵の具を惜しげもなく使い、血のにじむような努力をつみかさねた本当の動機は何だったのだろう。若冲は何を見て、何をめざしていたのだろう。絵の前に立っている私が理解するには決定的に足りないものがある。勝手な空想にふけるばかりでは、若冲の絵はわからない。

朝から立ちっぱなしで相当の時間が経過している。おまけにものすごい人の数である。見なければいけない絵はまだたくさん残っているのに、さすがに疲れてぼんやりしてきた。わたしは動植綵絵に取り囲まれた部屋の中央にたたずみ、先ほどまで読んでいた本「北越雪譜」を思いだしていた。その中にこんな話があった。

〇漁夫の溺死 
ある村に母一人をやしない、五歳と三歳になる男女の子をもつ夫婦がいた。鮭が遡上する季節になると村人たちは険しい谷川に縄で足場をつり下ろして鮭を捕って家計の足しにした。断崖絶壁の淵は漁する者なく魚がよく集まるので、夫はその絶壁の上の木の幹に縄を括り付け、それを一本の命綱として崖に垂らし、淵の上に釣り棚を作った。十月のある雪の日、夫は朝から蓑笠姿でそこに陣取り、足下の川からたもですくいあげると鮭は面白いように捕れた。腰の袋に鮭を入れ縄を昇り降りする様子はまるで猿のようだった。日も暮れて雪荒れとなり帰宅はしたものの、こんな時こそよく捕れるからと、夫は家族が止めるのも聞かずまた漁に出た。夜となり子供も寝たのに帰ってこない夫を心配して、妻は蓑にみの帽子を被りたいまつを手にして様子を見に行った。崖下は西風のなぐり雪、何度か大声で夫を呼ぶとようやく、喜べ大漁だ、明日はうまい酒を飲もう、お前は先に帰れ、と返事がある。ならばあかりは置いていこうと、妻は命綱を括り付けた木の枝の又にたいまつを差し込み、家に帰った。ところが夜が更けても夫は一向に帰ってこない。
妻はもう一度吹雪の中を見に行った。先ほど木に懸けたたいまつの明かりはなく、崖下は暗くて何も見えない。声の限りに呼んでも返事はない。夫の足跡がないかと地面を照らして見れば、先ほどのたいまつが地面に落ちていて、夫の足場を支える命綱を焼き切っていた。

・・・ これを見るよりむねせまり、たいまつここにやけおちて綱をやききり、架(たな)おちて夫は深淵(ふかきふち)に沈みたるにうたがいなし、いかに泳をしり給ふとも闇夜(くらきよ)の早瀬におちて手足凍え助(たすか)り玉ふべき便(よすが)はあらじ。こはいかにせんいかにせん姑(しうとめ)にいひわけなしと泪(なみだ)を雫にふらせて哭(なき)けるが、我もともにと松明(たいまつ)を川へ投入れ身を投(なげ)んとしつるが、又おもへらく、わがなきあとは老(おい)たる母さまと稚(おさな)き子どもを養ふものなく、手をひきて路上に立玉ふらん。死ぬるにも死なれざる身には成けるかな、ゆるし玉へわかつまと雪にひれふし、やけたるつなにすがりつきこゑをあげて哭(なき)になきけり。かくてもあられねばなくなく焼残りたる綱をしるしにもち、暗き夜にたいまつもなく雪荒に吹かれつつ泪もこほるばかりにてなくなく立かへりしが、夫が死骸さへ見えざりし ・・・ (鈴木牧之編撰 北越雪譜 p132 岩波文庫 2010年第64刷)

 話はここで終わっている。あまりに哀れなので、感じ入った鈴木牧之が書き残したものに違いない。この不幸な女性はこの後どうやって生きていったのだろう。待っていたのは暗く、つらい人生であったのにちがいない。私は混雑する会場の中央に立ち、そこだけ人が少ないので垣間見える釈迦三尊の絵をぼんやり眺めながら、いつのまにか、吹雪の闇を流れる底知れぬ川、ごうごうと荒れ狂う水の音、それに泣くように訴える女の人の声を聞いていたのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

生きていてよいのでしょうか。このまま生きていてよい道理などあるのでしょうか。罰を受けなければなりません。私はあのとき死ぬべきでした。たいまつを谷に放りこの身も投げてしまうべきでした。夫が死んだのですから。吹雪の荒れ狂うあの谷川で、大切な夫が命を落としたのですから。残された家族もどん底までつき落とされて死んでいきました。すべては私がしでかしたこと、だから私は死ぬべきだったのです。でも死ぬことはできませんでした。泣いて、泣いて、泣きすぎて、とうとう私の目はつぶれてしまいました。このとおり、今では何も見えません。当然の報いです。

でも私は、生きております。こんなにつらい人生を、生きております。私はごまかしたのでしょうか。死ぬべきところを、死ぬのが怖くてごまかしたのでしょうか。そうかもしれません。でもお釈迦様はおっしゃいました。生きていてよいとおっしゃいました。すべてを知ったうえで、生きていなさいとおっしゃいました。なんてありがたいお言葉だったでしょう。私はそのお慈悲におすがりして、一日一日を生きております。自分でできうる限りのことをして、あとはお寺の方にお助けいただいて、お念仏を唱え、ただ祈り、いまは亡き人の菩提を弔っています。感謝の言葉もありません。

お集りの皆さま、これから私の身の上に起きたことをお話ししましょう。私の後ろにお釈迦様の絵が見えますでしょうか。ここの住職様がご親切にもこの絵をかけてくださいました。これにはわけがございます。お釈迦様に見守られていますと、私は安心してお話しすることができます。目の見えない私にはこれがどんな絵なのかわかりません。でも、すでに私は見たのです。このお姿を、見たのです。そのわけをこれからお話しいたしましょう。

あの夜から変わりました。真っ暗でおそろしく吹雪いていたあの夜から、私の人生のすべてが変わりました。私の幸せは、あの夜を限りに終わりました。子供の頃から続いていた明るい日々、可愛がられ楽しく笑った日々、たいした悩みも悲しみもなかったあれらの日々が、一瞬にして暗く凍える夜になり、二度と明けることはありませんでした。思えば夫との暮らしは幸せなものでした。なんでもあの人に任せていればよかった。やさしくて、働き者で、頼りがいがあって。困ったことがあればあの人が考えて決めてくれて、それでうまくいかないことなんかなかった。私はあの人が居さえすれば安心で、あの人がいないとさびしくてたまらない。いかに頼り切っていたことか。それにとっても優しくて、私のことを花のようにきれいだと言ってくれた。

でも本当のことを言うと幸せなことばかりではありませんでした。私たちの初めての息子は、普通ではなかったのです。抱き上げるのを嫌がります。話しかけても目があいません。ちょっとしたことでも癇癪を起して泣きわめきます。初めての子供でしたから、最初はこんなものかと思っていました。でもだんだんわかってきたのです。同じ年頃のお子さんがどんどん言葉を覚えているのに、この子はせいぜい口真似をするだけで何も覚えません。着替えも何もいつまでたってもできません。ひらひらしているものが目に入ると、布でも木の葉でもすぐに飛びつきます。そしていつまでも眺めたり引っ張ったりしていて、無理に引き離せばまた癇癪です。かと思うと雨が降ろうと夜であろうと、ぷいと外へとびだしてしまう。獣のようにわめき散らし、ところかまわず跳ね回ったりする。朝着物をきちんと着せても昼にははだけてだらしなく引きずっています。髪はくしゃくしゃ顔はべとべと、泥だらけの足には血がにじんでいる。左吉こっちに来なさいと、その子の名前を呼んでつかまえようとしても、身をよじって逃げてしまいます。いくら子供それぞれみな違うといっても、あまりにもおかしいのです。私はついかっとして手を上げてしまいます。でもいくらしかりつけてもさとしても、どうにもなりませんでした。それでも我が子です。大切な我が子です。おだやかな気持ちで子供の世話をしたいのです。でもいくらやさしくしても息子はこたえてくれず、なぜわが子だけみんなと違うのか、育て方をどう間違えたのかと、自分自身を呪うことさえありました。

村の子供たちが集まってきてはやし立て、大人はこの子のことをうつけ者と呼びました。でも私の夫は違いました。ほっつき歩く息子を探しだし、粗相があれば頭を下げてまわります。着物を直し顔を拭いてやって、ほらこれできれいになった、いい子だね、などと息子に話しかけます。もちろんいつでもそういうわけにはいきませんでしたが、ある時私にこんなことを言いました。左吉は天からの授かりものなのだから、大事に育てなければならないよ、どんな苦労があろうともこの子を捨ててはいけない、お天道さまはいつだって見ているのだから、なんて。どんなにやさしくてよい夫だったことか。よく人に、あんなに心根のよい男と一緒になれて幸せだね、今でもあんたに首ったけじゃないか、などとひやかされました。罰当たりの私はその意味がよくわからなくて、めおとになってもよいことなど何もなかった、頑固だし私の話などちっとも聞いてくれない、などと愚痴ってみせたものでした。

それがあんなことになった。いつも思い出すのはあの夜のこと。思い出さない日なんて一日もありません。同じことを何度でも何度でも思い出してしまいます。どうして私はあの時、あの木を選んでたいまつをさしはさんだのでしょう。どうして隣の木ではなくて、あの木だったのでしょう。あの木は夫の命をつなぐ大切な木だった。崖から降ろした命を預ける縄が、あの木の根元に結わえてあった。長い冬の間、夫は山積みの藁から良いものを選んで念を入れてより合わせ、しっかりした縄を何本も作った。命の綱だからと言って私には決して触らせなかった。出来上がってから私に手渡して、どうだこれなら絶対に切れないぞ、と笑っていた。どう引っ張ってもびくともしなかったあの縄でも、たいまつの火が落ちたらどんなことになるのか、少し考えればわかることなのに。よりによってあの木を選ぶなんて、私はなんて大馬鹿なの。それになぜたいまつを置いて帰ってきてしまったの。はやく帰るようにとだけ言って暗くなるのに任せていればよかった。なぜあの晩、たいまつをもっていくことなんか思いついたの。あの日はたまたまよい松が家にあった。よく燃えて火が長く持つようにと、油ののった枝をわざわざ選んで、あの人を死なせる準備をしていた。何にも気付かず、自分がやっていることがどんなに恐ろしいことか思いもしなかった。たいまつはなかなかの出来ばえで、握った感じがよかった。良いたいまつができたとうれしくて、いそいそと夫の死に場所に急いだ私。どうしてあの晩、あんなに風が吹いたの。風がなければたいまつは落ちなかったのに。なぜ鮭がたくさん川を上ってきたの。あの日に限ってめったにない豊漁だなんて。鮭なんかいなければよかった。

私の思いはいつも同じ所に戻ってしまう。一日中同じ考えの周りをぐるぐるするばかり、そこから離れることも、逃げ出すこともできない。もうどうしていいのかわからない。寝ている夢の中でも、突然ぶつっと縄が焼き切れる音がして、夫が川に落ちる。声を限りに叫んでも、助けは来ない。もがいて、もがいて、浮き上がろうとするのに、氷まじりの水がのどにも鼻にも入ってくる。突き出た手が水に沈んでしまうと、夫は暗い川底で両の目をあけ、恐ろしい顔で私をにらみます。私は毎晩のようにうなされて目が覚めます。早鐘のように胸が打ち、口が乾き汗びっしょりになって。

あの夜、雪まみれになって泣きながら家に帰ると、先に寝ていた姑が起きだしてきました。私のらちのあかない話でも、涙も鼻も凍りついた顔とにぎりしめた縄の燃え端を見て、おおよそ見当がついたのでしょう、母さまは急に泣きだして、今から川を見に行くと言いはりましたが、引き戸を開けてみれば暗闇に吹雪はますます強く吹き荒れて、とても外に出ることなどできません。
夜が明けて吹雪がようやく収まりかけたころ、母さまと二人で家を飛び出しました。大声で泣きながら歩いたので、村の人たちが心配して集まってきました。私の話と焼けた縄で大騒ぎになり、村中総出で夫が落ちた川を探すことになりました。雪が積もって足場の悪い川岸を冷たい水に足を濡らしながら、死体がないかと、せめて着物の切れ端、縄の残りでもいいからと、皆親身になって探し回ってくれました。でも夫も何も、影も形も見つからない。村の人たちは気の毒がって、せめて形だけでも葬式を上げようかと言ってくれたのでしたが、私はあの人が今にも帰ってくる気がしてその気になれませんでした。雪に埋もれていた山積みの鮭は手分けしてさばいて塩干しにしてくれました。親切にも切り身を焼いてくれた人までいました。でも私はこれがためにあの人が死んだと思うとつらくてとても食べられない。何もわからない子供たちは、あのうつけ者の左吉ですら喜んで食べているのが哀れでした。

私たち夫婦にはもう一人、下に女の子がいました。名前を「まき」といいます。息子のことがあるのでだいぶ心配しましたが、育てることはこんなに手のかからないことなのかと驚くほど素直な女の子に育ちました。お父さんが大好きで、そばに寄っていっては抱っこをねだります。髪に赤い細布など結んでもらうと嬉しそうに跳ねて踊って、ほんとうにかわいい盛りでした。でもあの日からはどんな遊びもつまらないらしく、おとうはどこに行ったの、なんでおとうは帰ってこないの、とことあるごとに聞いてきます。私は胸が詰まってうまく答えられません。母さまが気を利かせて、遠くに出稼ぎに行ったんだよ、と言ってくれました。私は、もうすぐお金をたくさん持って帰るからね、と言うのが精一杯です。なんでお母ちゃんは泣いているの、などと聞かれてたまりませんでした。泣いてなんかいないよ目にゴミが入ったんだよ、などと言いつくろうのがやっとです。でもそのうちに子供なりにわかったのでしょう。おとうのことはふっつりと言わなくなりました。夜になるとしくしく泣いて、私のふところで丸くなって眠りました。
母さまも泣いている、娘も泣いている、私もずっと泣いている なのにうつけ者の左吉だけは相変わらず外に飛び出して何やらわめいて跳ねている。親が死んだというのに、この子は何もわからないのかと思うと、不憫なのだが情けなくてしかたがない。今までどおり走って追いかけ、着物をなおし、顔を拭いてやり、食べさせて寝かしつけなければいけない。つい手をあげてしまうことが多くなり、そのたびに夫のことを思い出しては涙にくれました。

幾日も泣いてばかりいたためでしょうか。私の目はかすんできました。はじめは涙のせいでよく見えないと思っていました。でもそのうち朝から少しも泣いていないのにかすんでいるのに気が付きました。母さまに目を見てもらいましたが、何ともないと言います。きれいな水で何度も目を洗いました。冷たい水でしぼった手拭いをしばらく目に当てて休みました。村の人たちが心配していろいろなものを持ってきてくれました。たにしの煮汁、イチョウの葉、杏子の種、クコの根、お乳、とにかくなんでもためしました。あちこちの神社やお寺にお参りをし、お祈りもいっぱいしました。でも私の目には霞がかかったままでいっこうによくなりませんでした。

すでに年貢は収めた後だったし、たいがいな冬の用意はしてあったので、雪に閉じ込められた間つらかったのですが食べ物に困ることはありませんでした。しかし春が来ればこれまでとは違います。うちは地主から土地を借りて年貢を納める小作です。干鮭が売れたとはいえたくわえはわずかです。働かなければ食べていけないのです。私は雪解けの畑を耕すことから始めてみましたが、男の人のように鍬は操れません。その上目がよく見えないとなれば、いったいどうしたらよいのでしょう。丹精込めて夫が耕していた田畑は取り上げられ、人の手に渡りました。私は焦りました。せめて作業の手伝いだけでもとあちこち当たってはみたものの、さして役に立たない女手を雇う余裕のある人などそうはいません。事情が事情だけに無理を承知で仕事を分けてくれる人はありました。でも慣れた人たちにはどうでもないことも、要領が悪い私は体のあちこちが痛くなるばかりで、あまり役に立たないのです。はじめはお情けでお駄賃をくれていましたが、そのうちいい顔はしなくなった。でも仕方がないんです。よい人たちばかりでしたが、みんなどうしようもなく貧しかったのですから。

ありがたいことに時々食べ物をおすそ分けしてくれる人もいました。働いてわずかな銭や食べ物も手に入りました。でもそれだけでは四人が食べていくには到底足らない。子供たちはいつも腹を空かせていたし、愚痴を言うばかりだった母さまも元気をなくして死にたいと言い出します。子供だけには惨めな思いをさせたくなかったけれどしかたがありません。昔のひどいききんの時を思い出して何でも食べました。山菜やキノコはもちろんやわらかい木の芽や草の芽まで摘んで、バッタ、芋虫、蛙でも、口に入りそうなものなら何でも捕まえました。でも、そんなことではどうにもならなかったのです。

このままでは飢え死にしてしまいます。独り身ならば瞽女(ごぜ)にでもなって三味線も弾いてみせましょう。でも私には家族がいて、養っていかなければならないのです。残念ながら頼りになる親も親戚もいません。それにつけこんで食べ物片手に夜這いしようとする男どもがいましたがとんでもない、私は相手にしませんでした。村の相談役がまじめな縁談話を持ち込んできました。まだ若いしきれいなのだから嫁に欲しいという人はいくらでもいると言うのです。でも姑とうつけ者の子供がいておまけに目の悪い女を貰おうというのはそれなりの人で、私の方とて死んだ夫と比べてしまうので話が決まらない。すると今度は、この村にいては難しいから、思い切って川下にある大きな宿場町で働いてはどうかとすすめてきました。目が悪いうえさしたる技量のない私に良い働き口などあるのか心配ですし、女一人どんな危ない目に会うかわかりません。でも考えてみれば、その町は夫が流された川ぞいにあります。ここよりも西国浄土に近い町です。寂しくなったら川を見に行けばいいと思いつくと、私は行く気になりました。宿場町を行き来する物売りに頼んで、働き口を探してもらうことになりました。名前は銀さんといって、私がここに嫁いでからの古くからの顔なじみの人です。塩を買ったり針糸を買ったり、頼めばなたね油でも子供の玩具でも持ってきてくれます。事情を話すと二つ返事で引き受けてくれました。しばらくすると戻ってきて、よい話があるといいます。なんでも大きな旅籠屋の主人が、下女を探しているというのです。あそこはちょっときついから、少し我慢することになるかもしれない、と言っていましたが断ることなどできません。相談役に一文書いてもらい、私は山を下りることになりました。

夏の終わりの晴れて暑さの残る朝、約束どおり銀さんが迎えに来てくれました。すっかり支度を整えて戸口で待っていた私に、娘のまきがすがりついて泣き止みません。私はしゃがんで、いい子だからおとなしく待っているんだよ、おばばの言うことをよく聞くんだよ、とよくよく言い聞かせます。娘の好きな赤い飾り布を髪につけてやり、大丈夫だからと笑顔を見せようとするのですが、私のほうが泣き顔になってしまいます。でもこれはしばしの別れです。またいずれお金をもって帰ってくるのです。心配するほどのことはない、きっとうまくいくと自分自身にも言い聞かせておりました。母さまは泣いている娘を抱きあげて私を見送ります。名残を惜しむ間もなく銀さんはさっさと歩きだしてしまい、私はあわてて後を追いました。曲がり角でふりかえると、母さまと娘が手を振って私を見送っているのがぼんやりわかりました。娘の赤い髪飾りも揺れています。あれが元気だった二人を見た最後でした。左吉は今日もどこかに行っています。朝からいないのはいつものことなのであきらめました。

谷川沿いにある、人ひとりがやっと通ることのできる道を銀さんは歩いていきました。川下の宿場町に行くにはこの道が近道ですが、これはあの吹雪の夜に私が泣いて帰ってきた道です。今では頭の上を木々の緑が谷に向かってせり出していて、川はおだやかにしぶきを上げています。まもなく夫の死に場所である険しい崖の上にさしかかります。つらくなるのであれ以来ここには来ていないのですが、今日は仕方がありません。いよいよ夫が命の縄をゆわえた木が見えてきました。たいまつを差し込んだ木の又があり、縄が焼き切れていた地面もわかります。私は胸がいっぱいになり、たまらなく苦しくなってきました。
その時、背後からばたばたした足音が聞こえてきました。振り返ると息子の左吉が立っています。鼻水が垂れて泥で汚れ、着物はだらしなくはだけ、私を見るでもなく目を左右にそらしています。
「左吉、おまえさよならを言いに来たのかい、ありがとうね。」
私は優しく言って手を伸ばし、着物を直してやりました。すると左吉はよそ見しながら、
「ありがとうね。」
と繰り返します。言葉をそのまま返すのもいつもの通りです。
「おばばの手を焼かせるんじゃないよ。」
「やかせるんじゃないよ。」
「ここまででいいから、家に帰りなさい。体に気を付けるんだよ。」
「気を付けるんだよ。」
銀さんに遅れてしまうので、左吉の気を引くようそばの木の葉枝を折って左吉に渡しました。思った通り左吉は盛んに枝を振って、ひらひらする葉っぱに見とれています。私は左吉を置いて歩き出しました。ところが左吉はついてきます。私は振り返って言いました。
「左吉、見送りはいいからもう帰りなさい。」
すると左吉はよそ見しながら私の真似をして、
「もう帰りなさい。」
と言います。私はついかっとして大声をあげてしまいました。
「家へ帰りなさい左吉、いいかげんにしないか、この大馬鹿者。」
左吉の振り回していた枝が折れました。左吉の顔が歪み、突然谷中に響き渡るような大声で、
「おおばかもの、おおばかもの、おおばかもの・・・」
と叫びながら飛び跳ねだしたのです。折れた木の枝を振り回してたたきつけ、周りに葉っぱが飛び散ります。私は自分の顔から血の気が引いていくのがわかりました。左吉に背を向け、涙をこらえ逃げるようにして歩きはじめました。左吉は叫ぶことをやめません。先の方で銀さんがこちらを振り返って待っていました。困った顔をしていたと思います。私は手で先に行くよう合図するのがやっとで、左吉の声に追われるようにひたすら急ぎます。左吉は追ってくることなく、叫び声は後ろに遠く小さくなっていきました。夫の死に場所であったのにもかかわらず、私は手を合わせることさえできませんでした。

銀さんは品物を詰めた四角い行李をいくつか縦に重ねて背負い、飛び跳ねるようにして険しい坂道を降りていきます。そのたびに荷物の中で何かがカラカラと当たる音がします。遅れがちな私を待っている時だけ、その音は静かになります。夏の終わりのヒグラシがすだく中、私はその音を頼りにして急ぎました。道は川に近づいたり離れたり、時にはつり橋を渡ったりしながら山の中を降りていきます。気をつけてはいたのですが、それでも何度か足を滑らせました。銀さんは立ち止まって休んでくれます。私は痛む足をさすりながら流れの方へ目をやり、川の涼しげな水音に耳をかたむけました。あの吹雪の夜、この川を夫は流れ下っていったはずです。そして今、私は夫のあとを追っています。夫のいる西国浄土に近づいているのです。これからそばに行くからねと夫に心の中で呼びかけていました。休みはつかの間で、銀さんにせきたてられて先を急ぎます。途中幾度か背後に足音が聞こえた気がして振り返ったこともありました。しかし山道に人の気配はなく、すべて私の空耳でした。

山道が終わると急に目の前がひらけ、遠くまで田畑が広がっていました。金色の稲穂の波の上にかかしが立ちならび、その中で働くお百姓の姿もありました。風が吹いて鳴子があちこちでなりだすと、雀の群れが一斉に舞い上がります。流れ下ってきた川はすっかり緩やかになり、いくつか合わさって大きな川になっていきます。岸から網を投げて漁をする人、川上にむかって空舟を綱で引いて歩く人もいます。暮れゆくお日様を追いかけるようにして私たちは歩き、足元も見えにくくなった夕方遅くになって目的の宿場町につきました。
そこは街道沿いの大きな町でした。道は立派で広いのに、たくさんの人が行きかっていてぶつかってしまいそうです。荷を背負う馬を引く人、笠をかぶっているお侍さま、上半身汗まみれの人夫衆、杖を突いてゆっくり歩くお坊さま。道の両側には立派な建物が立ち並び、明かりが入った店の中で人が動いているのがよく見えました。客を誘う威勢のいいかけ声、まとわりつく客引き女、それに多くの人たちの話し声でざわついていてにぎやかです。二階窓に肘ついて通りを見物している人と目が合った時にはどぎまぎしました。さすが西国浄土に近い町です。疲れてはいましたが、私はなぜかほっとしていました。そのうちの黒塗りの立派な建物に銀さんは入っていきました。大きな旅籠屋でした。皆忙しそうに小走りで働いていて、客ではないのを知ると店の隅に置いておかれ、主に取り次いでもらうのも苦労でした。銀さんには何度も礼を言ってそこで別れました。

そこの主はとてもにこやかでした。相談役からの手紙に目を通すと道中をねぎらってくれて今夜はよく食べて休むこと、翌朝からの店の掃除を言いつけられました。簡素ながら出された食事をゆっくり味わい風呂まで使わせてもらいました。いろんなことがありましたが、それでもその時まではよかったのです。不安はあったにしろ、それが人としてあたりまえの眠りについた最後の夜でした。

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