フェデリコ・モンポウ その2

フェデリコ・モンポウ  その2   (その1からのつづき)


アンジェラスの鐘が鳴り響くある日の朝、街路樹が茂る通りを隔てた二つの家で、男の子と女の子が同時に生まれた。泣き声を聞きつけた近所の人が集まってきて歓声を上げ、無事の出産を祝ってとっておきの葡萄酒をあけた。ワインを入れたグラス片手に花や食べ物などを持って双方の家に押しかけ、口々にお祝いを言っては乾杯し、赤ん坊の顔を見たがった。通りを隔てたもう一つの家でも同じせりふで乾杯し、人が行ったりきたりして家のなかは花束と祝いの品とでごったがえした。通りがかりの人も加わって、その一画はお祭りのような騒ぎになった。

男の子はフレデリコ、女の子はアメリアと名付けられた。誇りと自信に満ちた母親たちは子供を披露し、はたから見てもこれ以上あるまいと思われるほど幸福そうであった。二人はもともと近所の仲良し同士であったから、ベッドに子供を並べ寝かせておしゃべりに興じたり、這いまわる子供を遊ばせながら日頃の悩みを打ち明け合ったりすることがよくあった。だから子供たちも物心ついたころから遊び相手がいるのが当たり前で、まるで本当の兄弟のように仲良く育っていた。

分け隔てなく育てたはずではあったのだが、長じるにつけ二人の違いがはっきりしてきた。アメリアは活発で、踊ることが大好きな女の子だった。親に抱かれて祭り見物に行き、そこで娘たちの踊りを目にすると、親の腕の中できゃっきゃと跳ねるようにして喜んだ。よちよち歩きをしだしたとたん、危なっかしい足取りで踊りのまねをしては尻もちをついた。おしゃべりができるようになったおませな年ごろになると、髪には花を飾り、アーモンドの首飾りにフリルを付けたスカートで、見よう見まねの踊りのポーズを披露した。もちろんそれだけで我慢できるわけはなく、人にせがんでは踊りを教えてもらった。ガイヤルド、サルダーニャのような古い踊りからボレロ、ファンタンゴ、さらにはフラメンコなどといった激しい踊りまで、覚えるのは早かった。祭りの日には踊り子の娘たちの中に小さなアメリアがいて、子供らしいけれどもなかなか上手な踊りを披露した。すぐに人だかりができ、掛け声や手拍子、歓声で大いに盛り上がった。アメリアはいつだって人々の幸せの中心にいた。

一方フレデリコはおとなしくて人見知りの強い男の子だった。いつまでも母親の胸にしがみついていて、床に下ろそうとすると泣きだしては母親を困らせていた。しかしそれよりも心配なことがあった。それはフレデリコから言葉が出てこない事だった。両親が話しかけるとうなるような声を出しはするのだが、いつまでたってもそれが言葉にならない。そんなフレデリコを心配し、両親は町の医者、教師、神父、ジプシー占いにまで相談しに行った。人に言われることは片端からやってみた。絶えず誰かが話しかけ、川での冷水浴、薬草のせんじ薬を試し、奇跡の聖母へのお参りもした。トカゲの日干しを喉につけ、鸚鵡の舌も食べさせてみた。しかし何をやってもフレデリコからうなり声以上のことをひきだすことができない。もちろん眼は見え耳も聞こえている。話しかければ目と目を合わせ、内容は理解しているようである。今度は文字を教えようとした。しかしどうしたことか、文字に似てはいるが虫が這ったような形を書くばかりで、意味のある単語が書けない。言葉というものを持つことができない脳の障害だろうと医者から言われても、結局どうしたらいいのか誰にもわからないのだった。10年間言葉が出なかった子供がある日突然話し出したことがある、などとあてにならない気休めを言う人がいて、両親はそんなことで自らを慰めるのがせいぜいだった。

そのうちフレデリコはうなり声に抑揚をつけるようになった。まるで歌を歌っているようだと大人たちは言い、きっとこれは言葉が出てくる始まりにちがいないと期待した。母親がそばで注意深く聞いていれば、歌の調子でおなかがすいているのか、眠いのか、おなかが痛いのかなどを聞き分けることができた。そのうち何か言葉で尋ねれば、フレデリコは歌で答えるようになった。それで何となく話が通じる。多少の不便はあっても、日常のごくありふれたことがらについては困るということもないのだった。

しかしそこまでだった。10歳が過ぎてしまうと、母親以外でフレデリコに言葉を期待するものは誰もいなくなった。母親はフレデリコのことで頭がいっぱいで息子にかかりきりになり、父親はしばしばため息をついた。不幸なことに父親は事故で若くして亡くなってしまい、母親は心労のあまり家に引きこもることが多くなった。アメリアの母親は心配してしばしば訪ねて行っては、ひがみっぽくなった友人の愚痴を聞いてやった。

アメリアもはじめは母親について、そのうち一人でフレデリコのところに遊びに来るようになった。アメリアもまたフレデリコの歌の意味がわかる数少ない一人だった。一緒に育てられたせいだろうか、性格が正反対な二人であったのだが奇妙に仲が良かった。アメリアはおとなしいフレデリコが気になって仕方がない様子だった。

「おはよう、フレデリコ、おはよう。」
母親にべっとりのフレデリコのそばに寄る。
「遊びに行こう、フレデリコ、外はよく晴れているよ。」
と誘いながら、フレデリコの手を引っ張る。フレデリコの方はアメリアが来るのがうれしくて、抵抗するふりをみせてから、引かれるまま外に出るのだった。二人は手をつないで近所の路地を走り回り、街路樹の木陰の道で石けり遊びをした。しかし道路は狭く、すぐに飽きてしまう。そんなときは路地を抜け、大通りを渡り、海沿いにある丘のふもとまで行く。息を切らして登山し、丘の頂上の眺めのよい場所から、自分たちの家や教会の尖塔を指さし、丘の反対側から港に出入りする船を数えた。こんな遠出をすることは家族に内緒の冒険なので、アンジェラスのお祈りの時間に居ないことがわかると、近所中の騒ぎになってあとで大変叱られるのだった。

しかしどんなに遊びに熱中していても、歌やギターの音楽が聞こえてくれば、アメリアはフレデリコをそっちのけにして耳を澄ました。あたりを見回し、踊っている人がいればそのそばに行き、その人の動きをじっと見る。見よう見まねで踊っていると、たいていは喜んで仲間に入れてくれた。ギターだけのときはその人の前に立ち、いっぱしの踊り子気分で踊ってみせた。ギター奏者は喜んで足拍子や掛け声を入れて何曲でもひいてくれた。

フレデリコの方は、はじめ黙って見ていただけだった。それでもいつのまにか踊りの音楽を覚えていった。どんな曲であれ、手をたたき足を踏み鳴らしてリズムを取り、歌の旋律を口ずさむことができるようになった。それはやはり言葉のない、声だけであったのだが、なかなかの上手になっていた。 

フレデリコが歌を覚えてしまうと、アメリアは二人だけの踊りに熱中した。人に邪魔されない丘の頂上では、とくにそうだった。
「さあはじめるよ、フレデリコ、準備はいいかい。」
アメリアが足の位置取りを決めると、フレデリコは低い声で何やらうなりだす。踊りが始まる合図だった。アメリアが背筋を伸ばして両手を高く掲げ、目を輝かした様子はまるで獲物を狙う猫のようだった。うなり声は熱気をおび、リズムをきざみはじめ、歌の旋律に変わっていく。アメリアははじめゆっくりと、ついで踊りの精霊が乗り移ったかのように強烈に踊りだすのだった。フレデリコはリズムに合わせて手をたたき足を踏み鳴らし、声を自在に扱った。いろいろな種類の楽器のように声の音色を変え、ある時は鳥のように、さらに動物の鳴き声をまじえながら歌うこともできた。アメリアの踊りは目まぐるしく変わっていく。ゆっくりと荘重に、素早く情熱的に、次は悲しくうちしずみ、また明るくのびやかに。しかしどんなに曲想が変わろうと、二人の息はぴったりと合っていた。次はどうしたいのか、この曲の次にはどんな歌が、どんな踊りが続くべきなのか。互いの眼の動き、しぐさ一つでわかってしまうのだった。ようやく音楽が終わって踊りをやめたアメリアは、魔法が解けたかのように、息を切らせながらフレデリコの手をとって笑った。それは二人にとって何よりも楽しい時間だった。


月日が経ち、二人は大人になっていく。言葉を話せないフレデリコとていつまでも両親のもとで甘えているわけにはいかない。彼は金を稼ぐため色々な仕事をやってみた。大工、石切り人夫、お菓子の販売員、鋳造や金属加工の職人、それにもちろん歌手やギター奏者も。いろいろ挑戦はしてみるのだが、どれひとつとしてうまくいかない。そもそも会話ができず鼻歌を歌ってばかりいるとみなされたフレデリコに仕事を任せられるはずもない。不器用なうえ引っ込み思案の性格も災いしてなにをやっても長続きせず、せいぜい安い日雇の作業を転々とするしかなかった。うだつの上がらぬ息子に母親の表情は曇り、心配はつきなかった。

アメリアは美しい娘に成長した。すらりとして背が高く、豊かにウェーブする黒髪と愛想のよい笑顔、それに表情豊かな黒い瞳が魅力的だった。普段はつつましくふるまっているくせに、いったん踊りともなれば激しい情熱にかられて奔放になった。祭りの時のアメリアは他の踊り子を圧倒し、いつだって祭りの女王に君臨していた。彼女のまわりには老若男女を問わずたくさんの人々が集まってきた。もちろん町の伊達男たちが放っておくわけがない。男達はアメリアの気を引こうと気の利いた言葉をかけ、言葉によって彼女をおおいに楽しませた。時にはひそやかに、時には公然と愛の言葉を語る男もいて、アメリアをうっとりさせたり困らせたりしていた。異国の士官でさえアメリアの気を引こうとして覚えたての片言で愛を語って見せた。そんな稚拙な言葉ですら真心がこもっているように思われることもあったのだが、アメリアが容易になびくことはなかった。

結婚相手の候補はいくらでも現れた。中にはかなり条件の良い人もいて、アメリアは長いことためらっていた。幼馴染のことが気になっていたのかもしれない。しかしアメリアの家族はフレデリコのことなどまるで問題にしていなかったし、アメリアにしてみてもフレデリコとの結婚は考えられなかった。理由ならいくらでもある。まず、稼ぎの見込まれない男ではどうしようもない。長い付き合いなのにフレデリコと言葉で会話したことがない。言葉は大切なのにフレデリコはそれすら持っていない。とくに愛の言葉がないと、幸せになれない気がする。それに限らず、言葉がなければいろいろ困ることがあるにきまっている。たくさんの言葉を聞かせてほしい。心の内を言葉によって伝え合いたい。でもフレデリコにはそれができない。 ・・・そう思いはするもののなかなか決心がつかなかった。


ある日、派手な羽根飾りのついた帽子をかぶり、流行のドレスを着たアメリアがフレデリコの家に来た。石畳の道で、満面の笑みで話し出した。
「わたし結婚することになったの。お母さんがこの人がいいって決めたの。きれいな軍服でしょう?大きなお屋敷で、たくさんお金のある家よ。それに真心のこもった言葉もいっぱいくれるの。素敵でしょう?」
アメリアの後ろには青い軍服を着た背の高い青年が立っていて、にこやかにあいさつした。向かいの家から出てきているアメリアの両親は、フレデリコに気づきもしないのかその青年と盛んに話している。
「みんなこの結婚には大賛成なの。あなたも賛成してくれるでしょう?フレデリコ。私は幸せになるのよ、だってこの人が、これから毎日愛しているって言ってくれるから。たくさんの言葉で飽きるほどの話をするって約束してくれたのよ。」
青年はアメリアに車に乗るようにうながした。最新式のフォードだった。ピカピカの車体を見に人が集まってきた。
「私達都に行くのよ。ここからずっと遠いところ。私たち一家もあとからそちらに引っ越すの。すごくいい仕事の口を紹介してくれたって、お父さんもよろこんでいるわ。さようならフレデリコ、これでお別れよ。たまには私のことを思い出してね。」

アメリアはフレデリコに手を振って、男が開けた車のドアからフォードに乗った。男は見物の人払いをし、運転席に乗った。エンジン音が上がりクラクションが鳴って、車はゆっくり走りだした。窓からアメリアが顔を出し手を振った。フレデリコは駆けだした。アメリアにむかって何かを言おうとして必死に口を開け閉めした。伝えたいことはたくさんあるはずだった。しかし言葉は出てこなかった。車は大通りに出るとスピードを上げ、馬車や荷車を追い越していく。町の境界にある川を越えて都へとむかって行った。都はこの町の人にとっては異国の言葉が話される異国の地である。フレデリコは橋のたもとで立ち止まった。物言えぬ彼にはなすすべがなかった。最後の歌を聴かせることも、さよならを言うこともできないのだった。


フレデリコは歌うことをしなくなった。アメリアが彼のもとから去った時に、彼の希望も去ってしまったのに違いなかった。仕事もやめ乞食のような格好で町中を歩き回り、あるいは家の中に幾日も引きこもった。その頃には幼いころからフレデリコを知っていた近所の大人たちも年を取り、アメリアの一家のように町を去った者もいて、フレデリコを気に掛ける人は次第にいなくなっていた。最後まで残ったフレデリコの母親もしばらく患った後、不肖の息子の将来を案じながら死んでしまった。家の中はフレデリコがただ一人、教会の施しを受けるなどしながらその日その日を生きていた。




それから何年も経ったある日のことだった。ためらいがちのノックの音に、フレデリコの名前を何度も呼ぶ弱々しい声が聞こえた。扉を開けてフレデリコは驚いた。そこには一人の女が立っていた。髪は乱れ、汚れ破れた服を着て、戸口にようやくつかまりながら前後にゆらゆら揺れている。あごが小刻みに震え、埃だらけの頬には幾筋も涙の跡があり、黒い瞳は悲しげにフレデリコを見ていた。変わり果てたアメリアの姿だった。あの輝きに満ちた面影はどこにもなかった。アメリアの眼にみるみる涙が湧き上がり、頬を伝わって流れ落ちた。

「フレデリコ、わたしはもうだめ。病気なの。あなたの歌を聞かせて。昔歌ってくれたように。それだけを願って、ここまでやってきたの。つらくて長い道のりだった。幾度も動けなくなり、おしまいだと思った。そのたびにあなたの歌を思い出して、自分をはげましてきたの。だからお願い、私を追い帰さないで。あなたの歌を聞きたくて、その思いだけで、こうしてやって来たのよ。」
いまにも崩れ落ちようとするやせ細った体を支えながら、フレデリコはアメリアを家の中に入れた。
「フレデリコ、あなたは優しかった。あなたは嘘をつかなかった。それで十分だったのに、どうして私にはわからなかったのかしら。」
フレデリコは何度もうなずきながら、粗末なベッドにアメリアを横たえた。アメリアの体の震えは止まらなかった。
「ひどいことがあったの。とてもあなたには聞かせられないようなことが。私はだまされていたの。言葉たくみに、信用させておいて、どうしようも抜き差しならなくなってから、本当のことに気付かされた。私はだまされたのよ。大切だと思っていた人たちに。どうしてあそこまでひどくなれるの。言葉よ。言葉が私を破滅させたのよ。耳触りの良い言葉、人の気を引く言葉ほど、裏があったのよ。私にはそれがわからなかった。体も心ももてあそばれていた。醜い手と、醜い口に。気が付いた時には遅かった。私を利用するだけ利用しておいて・・・。ごめんなさい、フレデリコ、私が馬鹿だった。大好きだった踊りも、もうできない。踊ることのないアメリアは、やさしいフレデリコのそばで、言葉のないフレデリコの歌を聴きながら、死んでいくのよ。」

アメリアの顔をじっと見て、冷えきった体を温めようと体をさすりながら、フレデリコは聴いていた。

「私が死んだら、地上のお墓には埋めないで。地上にあるお墓では、きっと人の言葉が聞こえるわ。言葉なんて聞きたくない。誰の言葉も聞きたくない。言葉の聞こえる場所はもう嫌なのよ。だから、お願いよ。」
アメリアは目を閉じ、大きく息を吸った。

「私が死んだら私を海の底に沈めてください。冷たく、暗い海の底に。海の底なら、誰の言葉も、騒がしい町の音も、何も聞こえない。偽りに満ちたこの地上の音が、何ひとつ届かない深い深い海の底に、私は沈んでいきたい。」
アメリアはそう言い終わると、ため息をついた。そして二度と口を開かなかった。

フレデリコは静かに歌いだした。顔を拭いてやり、汚れた手足を洗ってやりながら、フレデリコは歌った。上体を少し起こし、スプーンで口に水を含ませながら、フレデリコは歌った。服のほこりを払い、髪を櫛ですいてやり、両手を自分の両手で包み込みながら、フレデリコは歌った。それは慰めの歌なのか、愛の歌なのか、それとも祈りの歌だったのか。言葉をこえた思いを込めて、言葉が表すことができない深い心を、フレデリコは歌った。

夜明けごろ、アメリアは死んだ。呼吸が弱くなって止まり、心臓は鼓動することをやめ、体からぬくもりが消えて行った。しかしいつのまにかアメリアの顔からは悲しみが消え、喜びに満ちた美しい顔になっていた。それでもフレデリコは歌うのをやめなかった。薄ら明るくなっていく窓の外では、庭の草木のつぼみが膨らんで、白い花があちこちに咲きだしていた。


死んだアメリアを抱き上げて、フレデリコは家を出た。外の街路樹は細々とした枝先まで、真っ白な花でおおわれていた。隣の木にも白い花が咲き、その先の木にも白い花がひらいていく。建物の前の小さな植込みも、二階のバルコニーの小鉢にも、かわいらしい小さな花から、大きくて立派な花まで、すべてが白一色になって咲いていた。アメリアを抱いたフレデリコが一歩一歩進むにつれて花が咲き、咲き切っては散りはじめ、フレデリコにも、抱きかかえられているアメリアにも、花びらが雪のように舞い落ちてくる。フレデリコはアメリアの耳元でささやくように歌い、アメリアは幸福そうに眠っているように見えた。花びらは静かに降りつづけ、道は花で覆われて真っ白い一本のすじになった。それをたどっていくと川の流れが見えてくる。川面に反射する朝の光の中に、小舟が一艘見える。

岸辺の小さな桟橋につくと、フレデリコは小舟に乗り、アメリアを横たえた。二人のからだから白い花びらが舟底にこぼれ落ちた。岸辺に咲いたたくさんの白い花に手を伸ばして摘み、フレデリコは小舟の中を、白い花で満たしていった。そうしている間にも、どこからかはわからない高い空から花びらが舞い落ちてきて、舟を白くしていった。白い花にうずもれて、アメリアは目を閉じたまま、ほほ笑んでいた。かつて町の祭りで踊り、祭りの女王として誇らしげに胸を張っていた頃のような、愛らしい顔であった。フレデリコは小舟の中の、アメリアの足元に座った。

近くの教会の鐘が静かに鳴りだした。響きの一つ一つを確かめているような、ゆっくりとした深い響きであった。小舟がゆれ、静かに動き出した。川の中央に向かい、流れを下っていく。舟の後には川面に落ちた花が、白い帯のようになって続いていく。舟が後にした鐘の音は響き終わり、それが消えないうちに近くの教会の鐘が新たに鳴りだした。そしてまた次の鐘、次の鐘と、二人の舟が流れを下るにつれて鐘の響きも受け渡されていく。その静かな鐘の響きに送られて、二人をのせた舟は海へとむかって行った。

フレデリコは歌い続けた。朝早く起きだして川岸で散歩する人が、聞こえてきた歌に気が付き、立ち止まって小舟をながめた。橋の上でおしゃべりしていた人々は、橋げたの下をくぐっていく小舟を見おろして話をやめた。河口の大きな船の上で忙しく働いていた人々が歌声に気づいて手を止め、驚いた顔で船の間を進む小舟を見送った。小舟の中には真っ白い花につつまれた美しいアメリアが横たわり、その足元では言葉を持たないフレデリコが歌を歌っている。そしてその小舟のあとには、花々が白い帯のように連なって流れていくのであった。

小舟は海に出た。沖合に出て次第に波が高くなり、町の教会の鐘の音がかすかになってきた頃、小舟はゆっくりと沈みはじめた。まるで舟全体が重くなってきたかのように喫水線があがり、海の水が小舟の中に流れ込んできた。白い花は海に流されながらも小舟の後をついてくる。ついに小舟は舟首を海の底にむけて斜めに沈みだした。たくさんの白い花が一気に舟からあふれ出していた。ほほえみをたたえたアメリアの顔にも、海の水がおおって流れていく。

フレデリコはアメリアのもとを離れまいと舟縁をしっかりつかんでいた。腕から肩、顔が沈み、海水で息ができなくなった。アメリアとともに海の底へ沈んでいくつもりだったのかもしれない。しかし小舟から湧き上がってくるたくさんの白い花が彼の体にまとわりつき、それが大きな力になって彼を海上へと持ち上げようとした。彼はこらえきれず手を離し、花とともに海面へ浮かび上がっていった。ほほえむアメリアを乗せた小舟は、残りの白い花を点々と従えながら、暗闇の海の底へと沈んでいった。



どうやって彼が助けられ地上へと戻ったのか、誰が彼の家にまで送り届けてくれたのかはわからない。しかし彼はこれ以上故郷の町で生きることはできないと思ったのであろう。金はなく、たいした荷物を持つでもなく、生まれ育った家の扉を閉めて、彼は歩き出した。そして町の境界の川にかかる橋を渡って、広い世界の中へと出て行った。その橋の先に彼を知る者はいない。だから言葉を話せない彼は、橋を渡り終えた時に、自分の名前を失うことになった。どこで生まれ、両親はだれであったのか。何をして、どうやって生きてきたのか。彼はすべての過去を失なって、どこへというあてもなく歩いていった。


彼は川の水を飲み、木の実や草の実まで食べ、夜露に濡れないように木の下で眠った。地面に落ちている金目の物を探し、取入れ後の麦畑の落ち穂を拾ったが、物乞いや盗みをすることはなかった。腹がすいて足が痛み、疲れ切って地べたに倒れこむと、不思議なことにそこに彼を助ける者が現れた。彼には食事が与えられ、時には小銭も与えられた。彼にお礼ができるわけはなく、ただ歌を歌うだけであった。その人は手を振ってたち去っていく。元気を取り戻した彼は再び歩きだした。再び倒れ込むとそこに違う人が来て、一緒に食事をし、休息する場を与えてくれる。それは年寄りの夫婦であったり、子連れの奥さんであったり、恰幅の良い金持ちの男だったりした。どうしてだかはわからなかったけれども、もはやこれまで、もうおしまいだと思われた時に、奇跡のように彼を助ける者が現れた。彼はお礼に歌を歌うだけであった。しかしそれは聞かれることがなかった。自分が歌いたいために歌った歌でしかなかった。そのようにして、彼は細々と命をつないでいた。


その頃の世界には憎しみが満ちていた。あちこちで民族同士が土地を巡り、住民や資源を巡っての争いをおこしていた。国の指導者たちは大群衆を前にして、目を吊り上げ口から泡を飛ばし、激しい身振りで演説した。自国民の優秀さを論じ、隠されていた偏見や不満を誇大にあらわにして、他民族を激しく非難した。群衆は歓呼の声をあげて指導者への忠誠を誓った。異を唱えることは許されなかった。そこではいつでも紋切り型の言葉が使われた。はじめは胡散臭いように思われた言葉であっても、確信的に繰り返されていれば、真実だと思えてくる。権力者に都合のよい言葉ばかり聞かされていれば、たとえ嘘であっても本当のことになってしまう。群衆は一人一人に得体のしれない憎悪を植え付けられて、ついに指導者と同じ言葉を狂信的に叫びだしていた。

世界中いたるところに強制収容所があった。増悪の対象になったものは誰であれ、逮捕され連行されて収容所へ送られた。強制労働に耐えられないものは処刑されることで問題は解決された。さらに憎しみは国家を持たない弱い立場の民族に向かい、その民族ごと抹殺するという計画が準備され、実行に移された。血に飢えた民衆の圧倒的な支持の中、殺される運命の人たちの輸送列車に向かう長い列が続いていた。町のあちこちに憎しみをあおる言葉がスローガンとして張られ、ラジオからは勇ましい指導者の言葉が憎しみを奨励していた。人々は繰り返される指導者の言葉のままに、着々と武器を準備した。


そして戦争という名のはてしない殺し合いが始まった。はじめは仕掛けた側が優勢で、戦いは短期で終わると思われた。しかし戦線は次第に広範囲に拡大し、破壊は徹底的になった。多くの人が死ぬことで、残った人々の憎しみは激しく増幅される。気づいた時にはすでに遅く、コントロールのできない巨大な憎しみがローラーのように世界を押しつぶしていった。人殺しの方法は次第に大規模に、確実なものとなった。殺人のために作られた巨大な機械が町を蹂躙し、たくさんの飛行機からは爆弾がまるで雨のように落とされた。あらゆる兵器が火を噴いて、奢れる者もつつましい者も、年寄りも女性も子供も、祈る者も祈らない者も見境なく吹き飛ばしていった。たとえ生き残っても、燃えさかる火の手、飢えや疫病から逃れることはできなかった。町中はもちろん野や山にも人の死体が放置され、川には焼け焦げて膨れ上がった死体が浮き沈みしながら海へと流れていった。もはや誰とも見分けのつかない恐ろしい顔の死体が群れとなって川を下り、サメや魚によってつつかれ噛み裂かれて、髪を乱して踊るようにしながらばらばらになり、沈黙の海の底へと沈んでいった。

名前も過去も失ったこの男はすべてを見てきた。銃弾が飛び交い、爆弾が落ちて火の手が上がり、路上で無慈悲な処刑が行われていたが、命を落とすことなくさまよい続けた。すべてを見て、すべてを聞きながら、歌だけは歌っていた。死んだ者のために弔いの歌を、悲しむ者のために哀悼の歌を、絶望した者のために慰めの歌を。でもその声は小さかったので、戦闘の轟音にかき消されて人には聞こえなかった。恐怖のための叫び声、嘆き悲しむ者の声、断末魔に苦しむ声によって、あるいは目をつぶり両手で耳をふさいでいたので、誰も彼の歌を聴くことがなかった。

戦争が終ってまもなくして、破壊の跡が続く故郷への道に彼の姿が現れた。顔にはしわが寄り、痩せてぼろ布を着たような身なりではあったのだが、目は澄んで遠くを見ていた。最後まで落ちずに残った橋を渡って、彼は故郷の町に歩みを入れた。

戦いが長い間荒れ狂ったこの町に、昔の面影はなかった。家々は火災のすすでうすよごれ、窓は破れ無数の銃弾痕で壁が穴だらけになっていた。爆弾の落ちた跡が池になり、一面瓦礫になった場所もある。あたりは異様に静かで焦げ臭く、ときおり異常発生した蠅の羽音だけが聞こえた。道だけはどうにか通れるようになっていて、人々がさまようようにして歩いていた。かつて彼が住んでいた地区の家々も壁が崩れ屋根が落ちていて、彼を知る者は一人として残っていない。彼は痛む足をかばいながら路傍に転がる建物の柱の破片に腰かけた。そして歌いだした。


初め彼が歌を歌っていることに気を留める者は誰もいなかった。主を失った犬が彼の周りを嗅ぎまわし、老人が胡散臭げに横目で見ながら通り過ぎていくぐらいであった。それも気にせず彼はただ一人言葉のない歌をうたいつづけた。彼の歌に最初に気づいたのは瓦礫の中に家族の痕跡を探しに来た男であった。歯を食いしばって黙々と作業を続けていると、どこからか歌声が聞こえてくる。しばらくするとその人は手を休めて顔を上げ、彼のそばに行って座った。つぶったその人の目から、涙が流れ出した。別の通りがかりの人が立ち止まって耳を傾け、しばらくするとその場に座った。また一人、また一人と人が集まってきた。彼の歌は美しく、心のなかに染み入り、かつての幸せだった日々のことが思いだされた。一度聞きだしてしまうと容易に立ち去ることはできなかった。疲れ切った顔に喜びの表情があらわれた。感動した人々は彼に自分たちの食べ物と飲み物を分け与え、眠る場所を提供した。



彼は来る日も来る日もその石の上に座って歌い続けた。すでに彼が現れる前から人が集まっていた。彼の歌は嘆きの歌であり、故郷の歌であり、信仰の歌、心の歌であった。ある者はそこに悲しみと慰めを聴き、ある者はそこに安らぎと希望を聴いた。それまでたくさんの言葉に騙され、傷つけられてきた人々は、言葉がないこの歌のほうがかえって心に訴える力があると思うのだった。いつしか彼は魂の歌い手と呼ばれるようになった。彼の周りにはいつでも人だかりがしていて、うわさは国中に届き、遠くから彼の歌を聴きに来る人々まであらわれた。彼には国から数々の栄誉ある賞が与えられたのだが、町の人々は彼のことを、自分たちの民族の魂の歌い手なのだと言った。

戦後の町は急速に復興し、かつてのような白い壁と赤い屋根の建物が立ち並んでいった。彼には瀟洒な家が用意された。彼に心酔したある女性がそばを離れようとせず、身の回りの世話をかいがいしくおこなった。不幸な経験をした女性で、彼のほうもまんざらではなさそうに見えた。彼は食べるものも着るものも不自由せず、街を歩けばすれ違う人が笑顔で挨拶をした。どこへ行っても彼は歓待され、人が集まってきて一曲歌ってくれとせがまれるのだった。

家の庭には白い花の植物を何種類も植えた。花が咲くと彼はきまってそれを一輪摘んで手に持ち、杖をつきながら家を出ていく。一緒に住んでいた女はそれをいぶかしんで、気づかれないようにしてついて行った。彼は繁華街を過ぎ、町の南端にある丘の長い坂道に入っていく。息を切らしながら登り切り、頂上の公園をつき切って、人目の付かない林の中に入っていく。そして丘の東側の斜面にたどり着くとようやく立ち止まった。しばらく目の前の地中海を見ていた彼は、白い花を胸に持ちなおして歌いだした。驚いたことに、それは楽しげな踊りの歌だった。ガイヤルド、サルダーニャのような古い踊りからボレロ、ファンタンゴ、フラメンコといった激しい踊り、さらには鳥の声や虫の鳴き声をまねた独特な節の歌まで、ずっと一緒に生活している彼女も聞いたことが無い歌だった。さらに彼が花も杖も振り回し、不自由な足で踊りのステップを踏み出した時には、彼女はわが目を疑うほど驚いてしまった。あたかもそこに誰か相手かいるような手つきとステップで、白い花びらが飛び散るのも気に留めなかった。最後は海に向かって花を投げて座り込み、彼の踊りは終わった。女は駆け寄り、息を切らしている彼を介抱しながら、何故一人で歌を歌っていたのか、何故汗だくになるまで踊っていたのかをきいた。しかし彼は何か言いたげな、はにかんだような笑みを見せるばかりで、何も答えることができなかった。

彼は年とっても彼の体が動ける限り、白い花が咲くと決まってそれを摘んで丘に登った。もしかすると彼もその理由を語りたかったのかもしれない。しかし最後の日まで彼は言葉を発することはなかった。人々はなぜ彼が白い花を摘んでは丘に登り、海に向かって歌を歌い踊るのか、足が不自由になり声がしわがれてしまっても、白い花を手にもって海を見ていたのか、知ることができなかった。それは伝えようにも伝えることのできない彼の秘密なのであった。

・・・・・・

彼の墓は海の見える丘の上にある。彼が亡くなってから長い月日がたち、彼を知っている人も残り少なくなった。私もまた年を取り、どうにもならない物思いにとらわれたりすると、彼が好きだったという白い花を持ち、丘に向かう坂道を登ることにしている。海からの快い風が吹き、木々の緑が陰を落としていて、私にはちょうどよい散歩道だ。丘のはずれにある彼の墓にたどり着き、墓石の上に白い花を置く。そしてそこからしばらくの間、青い地中海をながめている。海風が吹いて木枝の葉擦れの音がし、それに鳥のなきごえや、かすかな波の音もする。そのうちに町の教会のアンジェラスの鐘が鳴りだす。私は目をつむり、鐘の音がいくつも呼応して独特の大きな響きになるのを聞いている。しばらくは賑やかであった響きが一つ一つ減って、最後には残った鐘の響きも消えてしまう。あとには遠くの海の波の音や鳥たちの鳴き声ばかりになるのだが、注意すればそのなかに、昔の彼の歌がかすかに響いているのを聞くことができる。その歌を聞き逃すまいとしていると、やさしくてどこかさびしげだった彼の顔を思い出されて、いつのまにか自分の気持ちもなぐさめられているのに気が付くのだった。


Cantar del alma  魂の歌


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