フェデリコ・モンポウ その1

フェデリコ・モンポウ その1

モンポウ(1893-1987)はスペインのカタルーニャ地方出身の音楽家である。バルセロナに生まれ、若いころはパリで学びすごし、後半生はバルセロナに戻った。作曲したそのほとんどが短いピアノ独奏曲で、それに歌曲や少々の室内楽しか残していない。長い戦争の時代を生きたにもかかわらず、声高に自分の意見を主張することも、時代に積極的にかかわろうともしなかった、つつましい音楽家である。
画像
(モンポウ写真)
ベートーベンやモーツアルトといったクラシック音楽の巨匠たちを大輪の花にたとえれば、モンポウはいはば路傍に咲く小さな花である。しかしその花を一度手にとって見れば、忘れがたい印象を残すに違いない。余計な部分をそぎ落としたような短い曲が多く、メランコリックで内向的である。華やかであることも、人の度肝を抜こうとすることもない。自分が本質的だと思う音だけで曲を作ったといえる。魂の一番大切な所を音楽にした、と言ったら言い過ぎだろうか。しかし何はともあれ、なじみのない人には彼の音楽を聴いてもらうのが一番であろう。

 

秘密 secreto

彼が20歳前後で作曲した「内なる印象」という曲集の第8曲。この曲集には哀歌、悲しい鳥、小舟、子守歌、ジプシーなどといった題の、だいたい3分くらいの曲が並んでいる。まだ若い時の作品なのに、どこかあきらめているようなさびしい印象がある。この曲ではシンプルな旋律を何度か繰り返しているだけであるが、旋律途中の絶妙な転調のためか、一度聴いたら忘れられない。この単純さ、率直さなどはフランスの作曲家エリック・サティに影響だされたと言われることがある。サティがどちらかといえばシニカルで人間の喜怒哀楽といった感情を排除しているのに対し、モンポウは情緒的で、人間の魂とか心とかの、やや時代遅れともいわれかねないものに価値を置いていたように思える。



MUSICA CALLADA 第1曲 Angelio(天使のように)

「MUSICA CALLADA」は日本語にするのが難しいらしく、「ひそやかな音楽」「沈黙の音楽」「自分のために沈黙を守る音楽」などと意訳される。ある詩人の「鳴り響く孤独、沈黙する音楽」という詩の一節から引用されたという。調性や拍子のない前衛的なところもあるが、人の神経を逆なでするところはあまりなくて聴きやすい。全4巻あり、通して演奏すると1時間前後かかる。母や友人の死を経て作曲されたモンポウ晩年の作品集である。第4巻だけはピアニストのラローチャにささげられている。自分のためだけに書いた音楽のようで、演奏会で演奏されることを望まず、楽譜を出版することさえ渋ったのだという。



湖 lago

風景という曲集の第2曲目にあたる。第2次世界大戦のころの作曲だが戦争の影はあまり見られない。そのころのスペインのフランコ独裁政権は、かつてナチスに援助を受けていたにもかかわらず、第2次世界大戦に参戦しなかったためであろう。
第1曲「泉と鐘」、第3曲「ガリシアの馬車」という題名からもわかるとおり、絵画的、風景描写的なところがある曲集である。曲の冒頭の分散和音は水面にできた小さな波紋のようであり、中間部は水の滴りのリアルな描写のように聞こえる。水辺を多く描いた印象派の絵画のようなピアノ曲だ。

ところで乾燥したスペインに湖などあるのだろうか。曲の解説にはバルセロナのモンジェイックの丘に関係しているとある。丘の湖とはいったい何だろう?グーグルマップで調べると、バルセロナ市内の南に位置したこの丘は海に面していて湖は見当たらない。バルセロナの近郊にもなさそうである。もっと広範囲を探せばピレネーなどの山間部にダム湖らしいものはある。「湖」の原題のスペイン語「lago」の日本語訳をみると、湖の他に「池」の意味もあるようだ。モンジェイックの丘には1929年の万博の時に作られたマジカ噴水という人口池がある。しかしネットで見るマジカ噴水は噴水ショーが有名なようで、この曲の印象にそぐわない。思うにこの曲はたぶん、現実の池の景色からモンポウが連想した空想の湖の風景なのではないだろうか。




橋 El pont

もともとピアノ曲であったのをチェロとピアノのために書きなおした、モンポウには珍しい室内楽曲。出だしは調性のあいまいな20世紀の音楽であるが、チェロが始まると19世紀的な調性音楽になる。美しいがかなりセンチメンタルである。長らくうつ病で苦しんだモンポウらしい曲である。



歌と踊り 第8番

歌と踊り1番が1921年、14番が1962年に作曲されたモンポウの代表的なピアノ曲集である。(一部はギター曲)各曲は前半のゆったりした「歌」の部分と、後半の速いテンポの「踊り」との、2部構成となっている。しばしばスペインなどの民謡が使われていて親しみやすい曲集である。この第8番は前半に「アメリアの遺言」という民謡が使われている。ギター曲でも有名ならしく、しめっぽい演歌調に聞こえない事もない。この民謡の歌詞は、継母に夫を奪われ、さらに毒を盛られて死んでいく娘が、その母に語る遺言というぞっとするような内容である。訳詞がネット上にあったので引用してみる。

 良い王様のお娘御
 アメリア様がご病気に
 医師七人にみせたけれど
 なんの病か知れもせず
   「ああ、なでしこの束ゆえに
   わらわの胸はつまります」

   「ああ、わが娘、まな娘、
   そなたの病は何ゆえに?
   臨終(いまわ)の聖体受けたなら
   残してたもれ遺言を」

   「遺言ならば、あなたには
   ひとつも嬉しくないものを……

   あなたは奪った、まま母よ
   わが夫をば、とこしえに
   いつも夫が戻るたび
   あなたは部屋に引き入れて……

   もうこれからは邪魔もなく
   お抱きになれます、あのひとを
   ああ、なでしこの束ゆえに
   わらわの胸はつまります」
                (濱田滋郎訳詞)

後半の踊りの部分は「糸をつむぐ娘」という民謡から作曲したのだという。これだけスペインの郷土色強い作曲をしていてもモンポウは民族主義者といわれるのを嫌ったのだという。
https://www.youtube.com/watch?v=NWQN8KDQGJo


君の上には花だけが DAMUNT DE TU NOMES LES FLORS

歌曲集「夢のたたかい」のなかの1曲。モンポウはかなりの数の歌曲も作っている。この曲を聴いた友人のフランス人作曲家プーランクは感動のあまりアンコールを3回も要求したのだという。詩は友人の詩人ジョセプ・ジャネスによるもので、言葉は美しいがいささか難解である。死んだ恋人を悼んでの詩であるには違いない。

君の上には花だけが置かれ
それは白い捧げ物か。
君の体を照らすひかりは
もうすでに枝からのものではない

その花の口づけをもって君は
香ぐわしい命のすべてを与えられたのだ
君は輝いていた 閉ざした瞳が宝と抱く
光りに照らされて

もし花の吐息となれたなら そして
百合のようにこの身を君に捧げられたら
わたしの命が君の胸の上で
朽ち果てるように

そうして君のかたわらで雲散霧消していく
ような夜を知らずに
いることができたなら
    (訳 服部洋一)



  モンポウ略歴

モンポウはスペイン・カタルーニャ地方のバルセロナで1893年に生まれた。

父親はカタルーニャのタラゴナ出身で、地主の息子であった。親の方針に従わずに家を出てしまい、その後実家とはほとんど没交渉になった。公証人や、妻の母方の家の経営するガス会社に勤めた。音楽家になりたいという息子の希望を認めてパリ留学をさせ、モンポウの兄は画家になった。子供の希望には寛容な父親であったようだ。
モンポウにとっては母系が重要である。祖母の家はバルセロナのガス会社を経営する資産家である。祖父の家系は南フランスで鋳造工場を経営していた。教会の鐘の鋳造や修理では一流で、パリのノートルダムやモンマルトルの聖心教会にも鐘を納めている。バルセロナに支店を出したとき、祖父が最初の店長となった。モンポウはこの祖父に可愛がられたようで、しばしば鋳物工場に遊びに行き、よく一緒に散歩などをした。鐘は型に金属を流し込んで鋳造したらお終いなのではなく、その音色の調整にかなりの労力を要する。それを子供のモンポウはじっくり聞いていたようで、後年の彼の音楽にその鐘の音色を聞くことができる。

モンポウはエコール・フランセーズやキリスト教教義修道士会学校を経てバルセロナのリセオ音楽院で学んでいる。ペドロ・セラにピアノを学び、15歳の時、他の生徒と2人で最初のリサイタルを開いた。モーツアルトピアノソナタイ長調、シューベルト即興曲変イ長調、メンデルスゾーン、グリーグがその曲目であった。16歳の時バルセロナでフォーレ自身とマルグリット・ロンの演奏によるフォーレ作曲弦楽とピアノのための五重奏曲作品89を聴いた。演奏会に遅れた友人を待っていて、扉の外で第一楽章を聴いたらしい。そこで音楽の啓示をうけ、作曲家になる決心をする。(とあるがフォーレもロンもピアニストなので、どういうことだろう。フォーレはすでに聴力に異常をきたしていたから、主にロンが演奏していたのだろうか?)(ちなみにこの曲も私の好きな曲である。フォーレ ピアノ五重奏曲第1番作品89 you tube https://www.youtube.com/watch?v=5-j6LLkpQYY

1911年パリ音楽院受験のため、グラナドスに音楽院の院長であったフォーレ宛の紹介状を書いてもらい、パリに行く。しかし間の抜けたことに受験資格にある年齢制限を超えていて受験ができなかった。紹介状のほうもフォーレはすぐには会ってくれず、待たされている間に、会っても無駄だと観念して帰ってしまった。フェルディナン・ラクロワに師事してピアノを学び、最初の作曲などをした。精神的に不安定な時期もあって、神経衰弱から専門医による治療を受けている。今となっては得体のしれない注射や電気ショックなども受け、それでも少し良くなった、らしい。

1914年第一次世界大戦がはじまるとパリからバルセロナに戻る。1919年には最初の楽譜出版があった。ピアノ曲「魔法の歌」である。1920年にパリに戻り、恩師ラクロワの積極的な紹介もあってパリで成功を収め、あちこちの演奏会で作品が紹介された。ポリニャック大公妃もまじえた夜会に招待されたこともある。主役はモンポウなのであるが、上流社会の人達には全くなじまなかったようだ。

その後うつ状態をくり返し、1932年から41年まで全く作曲できていない。どうしたわけか友人とバルセロナでチョコレート菓子「ショコラ・グラセー・エスキモー」を売ることを思い立ったことがある。大金を払って権利を買い、「エスキモー」工場に1か月技術を習いに行った。バルセロナで商売を始めたものの暑くて冷凍庫が足りなくなり、1年で倒産、2万5千フランの資金の回収はできなかった。一時的な躁状態だったのであろうか。モンポウらしからぬエピソードである。

スペインの内戦時にはパリにいることが多かったようであるが、1941年に第二次世界大戦が勃発するとスペインに帰国している。この年ピアノコンクールの審査員をしていて、応募者であったピアニストで将来の妻であるカルメン=ブラーボと知り合う。この頃からようやく作曲ができるようになった。作曲、数々の受賞、教育などにも活躍した。自分の演奏会では緊張のあまり何度もキャンセルしたのだという。
1957年カルメンと結婚し1987年、94歳で死去、バルセロナのモンジェイックの丘の、海の見える墓地に埋葬された。


資料には女性に関しての記載が少なからずあって、興味深かった。
16歳の時に初恋。12歳年上のC…という良家の娘、とある。住所が近くすでに知り合いであったのを、乗合馬車の隣に座ったのをきっかけに親密になった。1922年(29歳)のころ自然消滅するまでだらだら続いたというが、これは公にはできない性質の恋であった。

パリ時代の1923から41年まではアラゴン出身の貴婦人マリア・Sとの付き合いがあった。この人は15歳年上の人妻で、モンポウはその家におおっぴらに出入りしていた。マリアの夫は妻より5歳年上のちょっと変わった人で、金持ちで、模型作りに熱中し、他に愛人も囲っている鷹揚な人であった。三人でなかよく食事に行ったこともあった。モンポウの鬱が高じたとき、マリアの家に住み込むことになり、貸家管理を任されたりもした。

スペインに帰った41年からは当時22歳だったカルメン=ブラーボと付き合いだしている。結婚を考え安定した収入を得ようと努力したけれども、結婚に伴う義務を強く意識しすぎてなかなか結婚に踏み切れなかった。結局16年もカルメンを待たせることになった。結婚するときも大変だった。新居を決めて何年もたつのにふんぎりがつかず、ようやく日取りを決めたのだが、当日モンポウは「できない、できない」と言って結婚式をすっぽかしてしまった。とても我慢できなくなったカルメンは、去っていこうと電車に乗ろうとしたところで、16年待ったのだからあと1日待とう、と思い直した。夕食時いつもの行きつけのレストランに行くとそこにモンポウが座っている。怒り心頭に達しながらも、何事もなかったかのようにいつもと変わらぬ調子で会話する。別れ際にモンポウは「よければ、また会おう。ミルクコーヒーでも飲もう。」と言ったのだという。
次の日正装したモンポウがカルメンの前に現れた。「さあ行こう。」
こうして夫婦2人と神父、それに立会人2人をあわせた計5人で、めでたく結婚式を挙げたのだという。
モンポウの死後妻カルメン=ブラーボは20年生き、モンジェイックの丘にあるモンポウの墓の隣に葬られた。



参考文献
・ひそやかな音楽----フェデリコ・モンポウ 生涯と作品----
 クララ・ジャネス著 熊本マリ訳 東京音楽社 1993

 下手な小説仕立てになっているので事実と空想が入り混じり、その記述はわかりにくかった。

・粋と情熱 スペイン・ピアノ作品への招待 
 上原由記音著 濱田滋郎監修 株式会社ショパン 2004

 アルベニス、グラナドスなどスペインの音楽家の評伝とピアノ曲の解説を読むことができる。モンポウに関する記述は35ページほどにまとまっていて読みやすい。

http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/handle/123456789/18967
トルドラとモンポウの歌曲研究 -歌曲における<カタルーニャ・ルネサンス>の意味-
服部洋一著
専門的な論文であるが、なかなか興味深い。歌曲の対訳がまとまって載っているのはありがたかった。


私はバルセロナに行ったことがないし、スペインの歴史も風土にも詳しくありません。これから書くお話は見たことのないバルセロナを素材にした架空の物語です。空想しているうちに、バルセロナの歴史とは異なる結果になりました。


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その町は地中海の西の端にある。すでに古代ローマ帝国の時代から港町として栄え、それ以来長い歴史を刻んできた。町の南端には小高い丘があって、そこに登ればこの町全体を眺めることができる。丘の東のふもとはすぐ港になっていて、地中海がはるかかなたまで青く広がっている。港にはいつでも大小たくさんの船が停泊していて、荷物を運ぶ人々が豆粒ほどに見えた。大型船が汽笛を鳴らしながら東に向かって出航し、いれかわりに荷物を満載した遠洋航路の船がはるばる異国の地から帰ってくる。近郊に向かう小型の輸送船が行き交い、沖合に見えるのは操業中の漁船なのだろうか、小船が点々と見えていた。丘の上にはたいてい海からの風が吹いていて、遠く離れた港のざわめきや潮の香りを運んでくる。

丘の北から西側にはこの町の中心部分が広がっている。地中海沿岸の町によくあるように、町の建物は白壁と赤い屋根で規則正しく統一されていて、その色は空と海の青、それに近郊の緑からくっきりと浮きたって見えた。町並みの中を探してみれば、古い立派な市庁舎や豪奢な邸宅などがあり、ゴシック様式の大聖堂をはじめ教会の鐘塔があちこちに立っていて、古いこの町の歴史を感じさせた。広い通りには車や荷車が動き、夕方には買い物や仕事帰り、それに街に繰り出してきたたくさんの人々でにぎわっていた。

乾燥したこの国の中では比較的雨が多く、町並みの途切れた先にはオリーブやぶどう、オレンジなどの豊かな畑が広がっていた。その先にはうす青い山々が見え、標高のある国境の山脈に連なっている。山脈には冬になると雪が降り、そこを水源とした川が幾筋も地中海に向かってのびていた。そのうちの2本が大きく町を抱きかかえるようにして流れている。昔は川岸に高い城壁があって外敵から町を守っていたということだが、川は今でも町の境界になっていた。

今から数百年も昔のことだが、この町には地中海世界の雄としての栄光の時代があった。背後の広大な領土を掌握した王はこの丘に城を構え、大艦隊を編成して地中海へと乗り出し、イスラムやイタリアの船団を駆逐して途方もない地中海の富をこの町にもたらした。港には王家の紋章が旗めく大型のガレー船や帆船がひしめき合い、そこへイタリアからアフリカ、それに遠くギリシアやコンスタンチノープルからの金銀財宝を満載した船が入ってきて、たいへんなにぎわいであった。王の城の豪奢は途方もないもので、世にも珍しい黄金の装飾細工、象牙や黒檀紫檀で作られた調度品、ペルシアの織物、遠く中国から伝わった陶磁器、美しい奴隷たちなどで溢れ、異国の使節団を歓待する連夜の宴で歌や踊りの絶えることがなかった。際限のない贅沢の噂がヨーロッパ中にひろがったが、その輝きに満ちた栄光の時代は歴史的にはほんの短い期間にしか過ぎなかった。

その後王家は正統な血筋を保つことができずに乗っ取られ、たいした抵抗もできずに異なる民族の国家によってこの町は支配されてしまった。丘の上の城は異国の軍隊が駐留する要塞になった。城壁の上に据えられた砲台が海と陸とを威圧し、要塞の一部は監獄として権力者の都合がいいように使われた。港に出入りする商船の数は減り、その代り異国の旗を誇示した軍艦が逗留した。異国の言葉が公用語とされ、自らの民族の言葉は自由に使うことができなくなった。

しかしそれにもなれるしかない。気の利いた者は2つの言語を操って政治や経済の支配層に取り入って地位を築き、一部の娘たちは羽振りのいい異国人の気を引こうと化粧に余念がなかった。貧しい若者にとって手っ取り早い出世の方法は軍隊へ志願することで、忠誠を誓いさえすれば実力と運しだいでそれなりの階級にまで登ることができた。

多くの人々は自らの民族の誇りやかつての栄光の時代を忘れまいとした。自分たちの祖先の歴史が刻まれた町や祭りの伝統、風習などを大切にし、石畳の道が傷めばすぐ修復し、古い建物の汚れを落としてきれいに塗り直した。壁や屋根が崩れて風雨が吹き込むようになっても、できるだけなおして再び住めるようにし、建て直す場合でも昔からの町並みに壁や屋根をあわせた。町に潤いを持たせようと広場や建物のバルコニーに緑を植え、花を育てた。街路樹は心地よい日陰を作り、露店が並んだ広場は人でにぎわっていた。

人々はお祭りが大好きだった。復活祭、収穫祭、生誕祭、守護聖人の日、聖母祭、夏至祭、聖体祭など、毎月のようになにがしかのお祭りがあった。人々は山車の飾りつけや大道具はもちろん衣装、小物に至るまで、情熱をかけて幾日も準備し、祭りの当日には老若男女を問わず着飾って広場に繰り出した。この日ばかりは自らの民族の言葉で話し、民族の古い歌を歌っても当局からのおとがめはなかった。昔の衣装で仮装した行列が町を練り歩き、聖書や騎士道物語の一場面をあらわした山車が引きまわされるのに沿道の人々は喝采した。十字架を掲げた聖職者の列が通りかかればその場にぬかずいて敬意を表し、そこへバルコニーからたくさんの花びらがふり撒かれるのだった。

やがて町中のあちこちで、古い民族の歌がはじまる。ギターをかき鳴らし手拍子が加わっての歌が始まると、人々は高く掲げた両手を隣とつなぎ、幾人かで大きな人の輪をつくる。互いに顔を見ながら歌を歌い、難しいステップを一斉にそろえ、ぐるぐると輪を廻った。町中が陶酔したように踊りに熱中し、歌を歌った。大いに飲み大いに食べて祭りは夜遅くまで続き、楽しげな笑い声、それに陽気な酔っぱらい達で町は賑やかであった。

次の日には静かにお祈りをする人で町の教会はどこもいっぱいだった。この町には信心深い人が多く、朝、昼、夕のアンジェラスの鐘が鳴るとふだんでもお祈りを始める人があちこちで見られた。鐘の響きは町中のどこにいても聞こえた。一つの鐘が鳴り始めるとすぐほかの鐘が答え、それに他の教会の鐘が加わって、まるで離れた場所の鐘同士がおしゃべりをはじめたようであった。その響きは町から国境の山麓ちかくまで、それから地中海の波の上を遥か沖合まで伝わっていく。荒くれものの船乗り達でさえ故郷の町が水平線に見えてくると、アンジェラスの時刻にはきまって耳を澄ました。すると波の音や海鳥の鳴き声の中に、遠くから町の鐘の音がかすかに響いてくる。子供の頃から聞きなれたその鐘の音を耳にすると、長い航海から無事に生きて帰って来た喜びがわいてきて、思わず感謝の祈りをささげてしまうのだった。 

  (その1おわり その2につづく)

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