仕立て屋と青ひげ   その2

            仕立て屋と青ひげ    (その2)

 仕立て屋は勢いよく店の玄関扉を開け、立ちすくんだ。そこにはふだん見慣れた汚ない通りはなかった。足もとから鮮やかな茶色や黄色や紫色によってモザイク状に彩られた地面が広がっていた。先ほど壁を通して見ていたはるか先の地平には、小高い丘の上に建つ城の、真っ黒な影があった。
「・・・・いったいこれは、どうなっているんだ。ここは夢の中だったのか。」
「この先の村の居酒屋なら、村の人達がたくさんいます。私たちをかくまってくれるかもしれません。でも青ひげはきっと簡単に私たちを見つけ出すわ。」

 二人は真っ白な道を歩き出した。道は少し柔らかく、弾力があった。しかしその白い道のところどころに、大きな黒いしみがある。あたかも黒い液体を大量にこぼしたかのようであった。
「これはいったい何ですか」
「青ひげによって殺された人の血の跡です。消えることはなく、洗い流すことは誰にもできません。犯した罪はすべて大地が記憶しているのです。」
貴婦人の足が黒いしみの前ですくんで動けなくなった。
「ここで殺された人を覚えています。大地の記憶は、私の記憶でもあるのです。」
「でもここにとどまってはいられません。先へ急ぎましょう。」
仕立て屋は貴婦人に手を貸した。怪物のような手に、手袋をした上品な貴婦人の手が預けられ、ようやく歩き出すことができた。仕立て屋はいまに追いつかれるという恐怖に、嬉しさが混じって奇妙な気持であった。

 目的の建物がみえてきた。黄色の壁に青い屋根の家だった。扉はあいており、中から人々の賑やかな声が聞こえてくる。しかしその出入り口近くの地面にも、いくつか黒いしみがあった。

 二人は走るように店に入り、開いている椅子に息を切らしてへたりこんだ。店の中は一瞬静まり、次いで人々が二人の周りに集まってきた。
「お嬢様ではありませんか」
「お元気でしたか。てっきり青ひげ公につかまったのかと。」
「よくぞご無事に戻られました。」
「いったいこの方は誰?このあたりでは見かけない顔だけど。」
「見て、あの手、ひどい手をしている」
近所の人たちなのだろう。古ぼけてはいるがきれいな色の布の継ぎはぎの服を着ている。色を除けば、昔の農民の服装だ。

 そこへさけびながら駆けこんできた男がいる。片手を伸ばして背後をさかんに指さしている。
「やってくるぞ、黒い馬に乗って、悪魔がやってくるぞ。」
店の中は一瞬で総立ちになり騒ぎになった。口々に何か言いあい、あわてて荷物をまとめ、走りまわり、金切声の悲鳴、泣き出す赤ん坊。「逃げろ、急いで逃げろ。」「隠れる場所はないか。」「ああ、今日はついていない。」「よりによってここに来るのか。」「神様、お助け下さい。」

 騒ぎの中、仕立て屋と貴婦人は店の奥の椅子に座った。逃げようにも逃げる場所はなく、それ以上どうしようもなかったからだ。

 荒々しく疾走する馬の蹄の音が近づいてきた。いななきが聞こえ、店の前で足音が止まった。店の人たちは逃げ出そうとして大混乱だった。表から走り出たばかりの男が荷物のように店の中に投げこまれ、床に転がった。店内の叫び声は一瞬で止み、誰もがその場で凍りついた。赤ん坊の泣き声だけが聞こえている。

 あごひげの青い男が入ってきた。腰には銀に光る剣を下げている。どの人よりも背が高く、どの人よりも大きな体格をしていて、体をおおう黒いマントがまるで暗闇をまとっているように見えた。暗く鋭い目で一人一人の顔をじっと確かめながら、店の中をゆっくり歩いていく。その眼に見られた者はその視線に気圧されて息も継げなくなり、その場に気を失って崩れ落ちる者までいる。

 青ひげ公は二人の顔を見つけ、まっすぐに歩いて来た。
「これはこれはお嬢さん、こんなところにおいででしたか。よくぞ私の城から逃げだしたものだ。感心したぞ。小細工をしてたな、この貧相な仕立て屋と。みんな知っておるぞ。」
貴婦人は青ひげ公をじっと見つめたまま何も言わなかった。
「手は元に戻ったのか。結構。その手で何をなさるおつもりかな。この貧相な男とお楽しみでも?」
青ひげ公は皮肉っぽく笑い、仕立て屋の方を見た。
「これは仕立て屋殿。女の尻についてのこのこと出てきたな。言っておくが、おまえのような弱虫など何の役にも立たんぞ。」
青ひげ公は貴婦人に近づき、いきなり体を抱え上げた。貴婦人は悲鳴を上げてあばれ、ブリュネットの髪をふりみだして青ひげ公の腕や頭に殴り掛かるが、青ひげ公はびくともしない。
「この女はいただいていく。仕立て屋、ついてこい。」

 店の中の者は誰もその場から動こうとしない。とっさに仕立て屋はそばにある椅子をつかみ、大声をあげながら青ひげ公に殴り掛かかっていった。しかしまるで無駄だった。予期していたかのように青ひげ公は椅子の軌道をかわし、振り返って片手で簡単に椅子をつかんだ。そして仕立て屋から椅子をもぎ取ると、カウンターの壁に向かって放り投げた。棚に並んでいた酒瓶が落ちて、大きな音を立てて床に砕け散った。

 仕立て屋はこの光景を過去に見た気がした。それがいつのことであったのか、思い出そうとしていた。そしてものすごい力で殴りかかってくる青ひげ公の顔を、よけようともせずに見ていた。眉一つ動かさない、無表情な顔であった。


 ・・・仕立て屋は自分のベットの中で目を覚ました。また夢を見ていたらしい。でも本当に夢だったのだろうか。顔も体も、あちこちが痛い。ようやくの思いで鏡を見ると、顔が腫れあがって青く内出血している。そっとさわってみると飛び上るほどに痛い。口がべとつき、血の味がする。口の中のものを吐き出すと、折れた歯であった。驚いて口を開けて鏡で調べた。中は血だらけである。夢であったはずなのに怪我をしている。広げて見た手はさらに大きく、さらに醜くなったように見えた。

 ここはどちらの世界なのだろう。夢の中なのか、それとも現実の世界なのか。仕立て屋は痛む体をかばいながら店の出入り口の所まで行き、扉を少し開けた。おそるおそる外をのぞいてみると、そこにはいつもの町の通りがあった。どうやら自分は生まれた町の現実の中にいるらしい。ここかしこに町のゴミがころがっている。仕立て屋はほっとした。

 口のなかの粘つきを何とかしたかった。水甕の所にいき、水を飲もうとするがほとんど残っていない。ようやっとコップの底に少しだけの淀んだ水をあつめ、飲み干した。それだけでどっと疲れを感じてベッドに戻り、横になった。そのままじっとしていた。動こうという気も起らない。部屋の中は静かだった。誰かがいる気配はない。あの貴婦人の手もいないし、誰かに見られているという感じもない。彼は自分の体をさすってみた。しかし痛む自分の身体をどうすることもできない。外に出て行くこともなくこうしてじっとしていれば、いずれこのままで死んでいくのかもしれない。そんな気がした。

 しかしその日のうちに店の扉をたたく者がいた。そして修繕の出来上がった服をとりに来た農民たちが、ベッドで寝込んでいる仕立て屋を見つけた。純朴な農民たちは仕立て屋の腫れ上がった顔を見て気の毒がり、水を汲んで来て布を浸して顔を冷やし、簡単な治療を施してくれた。仕立て屋はうっかり自分の大きな手を見せてしまったのだが、驚いたことに、怪我をして腫れたという彼のその場しのぎの言い訳を、農民たちは素直に信じてくれた。その上ていねいに布を巻いてくれる。さらには寝たきりの彼のために食料を買ってきてくれた。それは服の代金によって支払われたのだが、それ以上のものを彼に与えてくれた。彼は予期せぬことに驚き、感謝した。農民たちが帰った後にも、幸福感がただよっていた。この現実の世界も、そんなに悪くないのかもしれない。仕立て屋は安心して、うとうととした。

 夢がやって来た。
 黒い丘の上に、黒い石の壁が高く切り立っている。壁には隙間は全くなく、小窓も開いていない。城の出入り口は黒い扉で閉まっている。重く頑丈な鉄の扉であった。
いつのまに城の中に入っている。暗く冷たい城の奥から女の泣き声がかすかに聞こえる。その声が聞こえる方をたどって、迷路のような城の中を歩いていく。しだいに声ははっきりしてくる。ついにその声がする扉にたどりついた。手には鍵がある。鍵穴に差し込んで回転させるとガチャリと手ごたえがあり、扉が開いた。あの貴婦人がいた。太い縄で椅子に縛り付けられて、動くことができずにいる。顔には殴られた跡がり、ブリュネットの髪は乱れ、着衣も乱れて肩があらわになっている。夢の中の貴婦人は、夢を見ている彼の顔をじっと見た。うるんだ眼から、ひとしずくの涙が頬を伝わって落ちた。
どうか私を助けに来てください。あなたにしかできないことなのです。あわれと思って、助けに来てください。

 そうして彼は夢から覚めるのだった。目が覚めて起きている間はつとめて夢のことは考えないようにしていた。最近は近所から彼を尋ねてくる世話好きの老婆がいて、いろいろ気遣ってくれる。中には親切にも豆のスープまで届けてくれる人もいる。いつもは戸口であいさつするだけだった人たちも、かわるがわるやってきて仕立て屋にやさしくしてくれた。仕立て屋はそんなことで気が紛れて、一日中なんとなく幸せな気分だった。しかし夜になれば陰鬱な城の夢を見る。そこでは貴婦人が涙を流し、彼が助けに来ることを願っているのだった。

 仕立て屋は悩んだ。このまま両手のことをうまくごまかしてしまえば、この世でなんとか生きていけるかもしれない。何でもいいから言いつくろってしまえば、これまでと同じような安穏な日々を送ることが出来る。実際いくら考えてみても自分はこれまでに悪事を働いたことがない。やましいところは何もないのだから、以前の生活と変わりなく生きていてもよいのではなかろうか。

 しかし一方ではあの美しい貴婦人の助けを求める声が耳から離れない。夢の世界であるとはいえ、助けに行くべきではないだろうか。自分のようなつまらない人間、うだつのあがらない自分が、これほど必要とされているなんて。それもあれほど高貴で美しい女性に。夢の中の世界に飛び込んでいき、あの女性を助けてあげたい。

 じっと横になっていたので、寝ている時間と起きている時間が入り乱れていた。夢の中では色彩に満ちた土地をさまよい歩き、現実の店の中で修繕する服を広げて見ている。黒い城で貴婦人の泣き声を聴き、店の扉を開けて外のゴミだらけの現実を確かめている。自分がいるのが夢の中なのか、それとも現実の世界なのか、よくわからくなっていた。しっかり目を覚まして現実の世界に出ていく決心をするのか、それとも夢の世界に入って貴婦人を助けにいくのか。どうしたらよいのか仕立て屋は途方に暮れていた。

 顔の腫れが引いて体調がよくなると、近所の人たちはしだいに来なくなり、飲み物も食べ物も残り少なくなった。空腹感が募ってきて、人恋しさもひどくなった。わずかだけれどもお金は手元に残っているから、少なくとも現実の世界で水や食料を手に入れなければならない。ともかく残る金をかき集め、手にぐるぐるぼろ布を巻いて、とりあえずいつもの食堂に行ってみようと店の戸口を開けた。

 一歩出た所で仕立て屋は立ち止まった。そこには見慣れた家並みや通りはなかった。足もとから鮮やかな朱や黄色によってモザイク状に彩られた地面が広がり、起伏のある大地のはるかかなたまで色彩豊かな土地が続いていた。濃い緑や淡い黄緑の草木が生え、思い思いに好きな色を塗ったような人家が所々にある。その遥か彼方の地平には黒い丘があって、シルエットの城が真っ黒に見えた。

 夢の世界であった。仕立て屋はためらった。部屋に戻ってベッドの中にもぐりこんでしまえば、そのうち元の現実の世界に戻るだろう。しかしこちらの世界にはあの美しい貴婦人がいる。貴婦人は城の中に閉じ込められて泣いている。どうするのか。しばらくためらった後、この夢の世界で貴婦人を助けに行くことに決めた。
 そうは決めてはみたものの、どこをどう行ったら青ひげ公の城につくのか、さっぱりわからない。仕立て屋はかつて貴婦人とともに行った居酒屋に行って、城に至る道を聞いてみることにした。手に巻いたぼろ布を店の中に放り込み、店の扉を閉めた。

 歩いているうち、カラフルな土地のあちらこちらに黒いしみが増えているのに気が付いた。黒いしみは折り重なり、まるで池のようになっているところもある。居酒屋は夢で行ったのと同じ場所にあったのだが、あたりは黒いしみがおり重なって地面の色彩は色あせ、すっかり様変わりして見えた。仕立て屋が店の中に入っていくと話し声が静まった。人の数はだいぶ減っている。その全員が仕立て屋を見ている。荷物を手につかみ、腰を浮かしている者もいる。仕立て屋は空いている椅子に座った。同じテーブルの人は立ちあがり、店の隅へと足早に逃げて行く。

 店の亭主が近づいてきた。
「今日はどんな御用で?あとから青ひげ公がいらっしゃるので?」
「いや、そうではありません。青ひげ公の城に行く道を教えてもらいに来ました。それになにか食べるものを頂けるとありがたい。」
「青ひげ公の城への道はすぐお教えします。すぐに出て行ってください。」
「心配しないで。お金ならあります。」
そしてテーブルの上にコインを置いた。亭主は仕立て屋の手を見てぎょっとし、恐る恐るコインを取り上げた。すぐにテーブルの上に戻した。
「こんなお金は見たことがありません。道筋をお教えしましょう。お願いですからすぐ出ていってください。」
「なぜ食事を出せないのですか。」
「なぜって、あなた、もうこりごりです。青ひげ公は、このあたりを好き勝手に荒らし回り、人の女房や娘をかどわかしていく。あなたもお仲間でしょう。」
「とんでもない、私は青ひげ公とは何のかかわりもありません」
「ではその手は何ですか。青ひげ公と同じ手ではないですか。」
「いえこれは。・・・私はしがない仕立て屋です。青ひげ公とは何の面識もないです。」
「それは信じられない。その手は青ひげ公の手だ。私たちの家族を、仲間を苦しめ、命を奪った手だ。そんな手は見たくない。すぐに出て行ってくれ。」
「この手は、そんなに青ひげ公の手と似ているのですか。」
「似ているなんてものじゃない、青ひげ公の手そのものです。血塗られた手です。青ひげ公に会いたいのならば簡単だ。ここいらの土地からどこからでも見える、小高い丘の上の城に住んでいる。真っ黒で、窓がない城だ。」
そこまで言われては仕方がなかった。仕立て屋は立ち上がり居酒屋の入口から外に出た。
「こちらの道をまっすぐに行ってください。城を見失うことはないでしょう。迷うことはありません。」
店の中のひとたちがぞろぞろと出入り口に出てきた。
「いったい何の用があって青ひげ公の城に行くのですか。」
「ある貴婦人が囚われているのです。助けに行くのです。」
「助けに行く?そんなこと、できるもんか。」
「きっとあんた、殺されてしまうよ。」
「でも行かなければなりません。」
「この辺の若者達がたくさんあの城に連れて行かれたんだ。帰ってきた者はいやしない。」「いや、この前お嬢様が一度はうまく抜け出したでしょう。」
「うちの娘がかどわかされているんです。生きているのか、死んでいるのかだけでも調べて来てくれませんか。」
「無理さ、この人弱そうだもの。生きては帰れないよ。」


 仕立て屋は教えられたとおりに道を歩き始めた。城に近づくにつれ大地は色彩を失って灰色になっていった。あちこちに黒いしみがひろがり、そこを避けて通ることはできなかった。しみに踏み込むとそこはぬかるんでいて、足がめりこんで容易には歩けない。木々は枯れ、草も黒く変色し、時折見かける人家は廃屋になっていた。カラスが何羽か枯れ木にとまっていて、仕立て屋の様子をうかがっている。追い払っても仕立て屋の後ろをしつこくついてくるのもいる。歩き出してから長い時間が経っていた。あたりにはどんよりとした光が覆っていて、一日の終わりの夕暮れはやってこなかった。

 丘のふもとについた。丘全体が影に覆われているように黒く、その上の城壁にたくさんのカラスが並んで鳴き騒いでいる。壁の上から綱で何かがぶら下がっているのが、いくつも見えた。丘の坂を上るにつれてそれが何であるか見えてきた。腐り、崩れ、かろうじて形をとどめた人間のミイラだった。男か女かの区別もつかないようなミイラが幾体もぶら下がっているのだった。壁ぎわの地面にも落ちているものがある。仕立て屋は目を伏せ、できるだけ周りを見ないようにしながら道を上った。
黒い鉄の城門に着いた。夢に見た通りだった。ここが唯一の城内への通り道だった。門を押してみたがびくともしない。こぶしで何度もたたいてみた。門は重く、たたく音さえ響かない。仕立て屋は大声で叫んだ。
「開けろ、門を開けろ。」

 内側からずしんと響く重い音がした。仕立て屋は後ずさりした。扉はゆっくりと外に向かって動き出した。きしむ音があたりに響き渡る。カラスがいっせいに羽ばたいていく。門が開き切ると音は止み、空にカラスの鳴き声だけが聞こえている。門の中は石畳の中庭があり、その奥に窓のない建物があって入り口の扉だけ見える。人の姿はなかった。

 仕立て屋はこわごわ中庭を歩いた。隠れる場所はなく周りからは丸見えである。誰かに見られている感じが強くなった。注意してあたりを絶えず見回していたが、なにも起ることはなく、奥の建物の扉についた。この建物の奥に貴婦人が囚われているはずだった。
「開けろ」
今度は小声で仕立て屋は言った。入り口の扉が音もなく開いた。建物の中に入ると薄暗い広間になっていた。目が慣れてくるとその先から明かりが漏れてくる。仕立て屋はそちらにむかって歩いていった。

 白いクロスのかかった長いテーブルが置かれ、その上にいくつもの燭台があってろうそくの灯がついている。壁際には高価そうな家具が並び、いかにも座り心地のよさそうな椅子も見えた。テーブルの中央部に黒い何かの塊が見えるのに気が付いた。近づいてみるとそれは鍵の大きな束であった。大小さまざまな黒い鍵が、金属の丸い輪で束ねられていた。これは城にいくつもある部屋の鍵なのだろう。その中の一つが、貴婦人が囚われている部屋の鍵に違いなかった。

 仕立て屋は鍵束を握り持ち上げた。それは意外と重く、ぬらりとしていて濡れているようだった。鍵束があった白のテーブルクロスに黒い染みが広がっていく。自分の手を見ると鍵に触れた指にも黒いしみがついていた。驚いた仕立て屋は思わず鍵束を取り落した。鍵束はテーブルの上に落ち、意外と大きな音がした。ガシャンという鍵の落ちた音は城の石の壁を何度も反響しあいながら、奥へ、奥へと伝わっていった。

 いくつかの扉が開く音がした。ざわざわと幾人もの人の足音が聞こえだし、近づき、きちんと正装した下僕たちが部屋の中に現れた。無表情の男達が壁ぎわに並んで立ったのを、揺れるろうそくの炎が照らしている。最後に足音がひとつ残った。それはゆっくりとした重々しい足音だった。

 青ひげ公が現れた。全身を黒い服でおおい、手には剣を下げている。一部に白いものの混じる黒髪はきちんと手入れされ、唇には薄ら笑いを浮かべている。そして何の感情もない目で仕立て屋のほうをじっと見据えている。髭は青みがかった黒であった。

「待っていたぞ。」大きな声が響き渡った。仕立て屋は思わず首を縮め、小さくこたえた。
「青ひげ公、さまですね。」
「そうだ。意気地のないおまえが、よくぞここまで来られたものだ。」
「あの貴婦人を帰してあげてください。」
「貴婦人?はて、どの女のことかな。たくさんいるからな。」
「私と一緒に居た時に、あなたがかどわかした人です。」
「かどわかした?私はいつだって、御婦人には丁寧だ。とくにこの城にお連れする時はな。」
「帰してください、お願いします。」
「まあそうあわてるな。心から歓迎するよ、この見栄えのしない、貧弱な、くず同然の仕立て屋殿。どうしたわけか、お前がどんなにつまらない男であるか俺はよく知っているよ。すみずみまでな。とても他人とは思えんのだ。この俺の数少ない友人、というわけだ。」
「私は友人ではありません。」
「おまえは今、腹がすいているだろう。このところまともに食べていないからな。山のようなごちそうや、うまい葡萄酒が飲みたいだろう。もっと知っているぞ。おまえは金が欲しい。名声を得て、他の人たちに自分を認めてほしい。すべてを動かす権力がほしい。人の命さえも自由にしてみたい。なによりも女がほしいだろう。膨れ上がった欲望を満たすための女が、それもたくさん必要だ。でもどれにしても手が届かない。そのかけらさえ手に入れたことがない。みじめだな。余りにみじめだな。そんなおまえさんのために、人生の喜びがどのようなものかを、この青ひげ公が教えてやろう。友人殿。」
仕立て屋は答えなかった。実際に腹はだいぶすいていたし、確かにそんな欲望が自分の中にありそうな気がしてきた。

「俺はこれから旅行に出かける。しばらく帰ってこない。その間、おまえはこの城のなかを自由に使ってよい。この城には部屋がたくさんあって、それぞれにお前の喜ぶものが用意してある。鍵束を拾い上げろ。その鍵で好きな部屋の扉を開け、そこで存分に楽しむんだ。人生がいかに素晴らしいかを味わってみろ。」
仕立て屋は青ひげ公に反感を覚えつつ、嬉しい気持ちが湧き上がるのを抑えきれなかった。しかしその前に言うことがある。
「貴婦人はどこにいますか。この城の中にとらえられているはずです。」
「ははは、よくぞ思い出したな、仕立て屋殿。あなたのいうとおり、あなたの大好きな貴婦人もこの城の中にいる。逃げられないようにしばりつけてある。」
「すくになわをほどいて、解放してあげてください。」
「そうはいかない。せっかくとらえた美しい女だ。何の楽しみもせずに帰すわけにはいかんだろう。」
仕立て屋は真っ赤になって大声を出した。そんな自分にびっくりしたぐらいだ。
「あの人を解放しろ。すぐに自由にするんだ。」
「おや、これはめずらしい。おまえさんが怒るところを初めて見させてもらったよ。まあそうたけり狂うな、弱虫。ひとつおまえにチャンスをやろう。この鍵束の中の一つが、貴婦人の居る部屋の鍵だ。どうだ。面白そうだろう。おまえはうまくその鍵を見つけられるかな。どうか楽しんでくれ。友人殿。」

 青ひげ公は笑いながらその部屋を出て行った。下僕たちがその後をついていく。ろうそくの炎が揺れ、揺れるのがとまると、物音一つ聴こえないほど静かになった。仕立て屋は鍵束を拾い上げた。べとべとしているがしょうがない。ずっしりと重い鉄の鍵がジャラジャラと音を立てた。
これはたぶん罠だ。でもほかによい手立ても思いつかない。白いテーブルクロスで鍵の黒いべとべとをできるだけ拭い取った。仕立て屋は鍵束に長い通し紐がついているのに気が付いた。その紐で鍵束を首からぶら下げ、服の下に隠すことにした。気持ち悪いが歩くたびにぶらぶらして鍵が大きな音を立てるよりずっといい。

 食堂の先には長い廊下がある。薄暗くて奥がどうなっているのかはわからない。廊下にはたくさんの扉が並んでいた。扉はどれも同じように見えた。耳を澄ましてみたが夢の時とは違って泣き声は聞こえない。これでは貴婦人の部屋はすぐにはわからない。端の扉から一つ一つ確かめていくしかなかった。

 扉の取手の下に鍵穴がある。鍵束の中にこの鍵穴に合う鍵があるはずである。いくつもの鍵を順番にためすことにした。鍵穴に比べて大きすぎる鍵、小さすぎる鍵があわないことはすぐにわかる。それを除いても一見合いそうに見える鍵はたくさんある。順番に鍵穴に入れて格闘の末、一つの平凡な鍵に手ごたえがあり、鍵が回った。仕立て屋は第一の部屋に入った。

 そこは食べ物の香りで満ちていた。丸テーブルが並び、それぞれに幾皿もの色とりどりの料理が盛り付けてある。給仕がやってきて、仕立て屋を特別にあつらえた席へといざなった。目の前に古今東西のあらゆる珍味が運ばれてきた。仕立て屋は猛烈な食欲を覚えた。口に入れると、信じられないほど美味い。目の前に出される料理を次から次へと平らげた。いくら食べても、仕立て屋の食欲は尽きることがない。これまで我慢してきて蓄えられていた長年の食欲が、ここで一気に噴き出したかのようであった。
我を忘れて食べている最中に、何か大切なことを忘れている気がして、ふと食べるのを止めた。誰かが自分を呼んでいる。そうだ、貴婦人だ。貴婦人が城の中にとらえられているのだ。その部屋を探さなければならない。椅子を後ろに倒して立ち上がり、給仕たちが止めるのも聞かず、仕立て屋は廊下に飛び出した。

 次の部屋には金銀財宝がいくつも山積みになっていた。宝石のちりばめられた指輪、腕輪、首飾りなどはもちろん、つややかな模様の石や珊瑚、水晶や象牙などでできた人形や動物、人魚などの置物がある。高価そうな中国の巨大な陶器や、色彩に富んだペルシアのじゅうたん、技巧を凝らしたガラスや金の細工物があり、部屋の中はそれらの怪しい輝きに満ちていた。
仕立て屋は金貨を1枚手に取ってみた。これまで仕立て屋が手にすることがなかった、皇帝の横顔が彫り込まれた金貨である。仕立て屋は金貨の山に両手を入れて、すくい上げてみた。手のひらの上に盛り上がり、滑り落ちて、金貨が心地よい音を立てた。仕立て屋は何度もそれをくり返した。ポケットの中に金貨を入れてみた。ポケットは金貨で膨らみ、その重みでずっしりとした。そうなるともう止まらない。眼の色を変えて金貨をかき集め、宝石も集めだした。歓声をあげながらしばらくそうしていた時、仕立て屋の耳に再び声が聞こえた。貴婦人が呼んでいる。目が覚めたように仕立て屋は立ち上がり、金貨も宝石も捨て置いてその部屋を出た。

 そのようにして仕立て屋は城の中の部屋を次々と確かめていった。ある部屋では多くの徒弟たちを使った流行の仕立て屋の親方にもなったし、薄絹の娘たちと月明かりの一晩を踊りあかした森の部屋もあった。いずれも仕立て屋が現実の世界で望み、忘れようとした願いであり、欲望であった。しかしある部屋に入ってからは、仕立て屋の欲望はおさえがきかなくなっていった。

 多くの将兵が彼の到着を待っていた。彼は司令官として堂々と歩き、軍隊を指揮することになった。体に力がみなぎり、総攻撃を命じた。全軍は怒涛のような歓声を上げ、敵に攻撃を仕掛ける。彼もまた鬼のような形相で、剣をかかげて突撃した。並み居る敵を次々に血祭りに上げ、敵軍は総崩れとなった。

 その部屋を出たところで仕立て屋は気が付いた。先ほどの戦いで使った剣がまだ手に在り、黒い血がしたたり落ちている。彼にはゆるぎない自信があり、自分はどんなことでもできるという万能感が満ちていた。

 次の部屋では人とすれ違いざまにその剣をふるった。男は倒れ、黒い血を流して動かなくなった。仕立て屋は走り出し、あう人ごとに剣をふるっていく。おもしろがりながら逃げ惑う人々を追いかけた。棒や武器で抵抗してくるものもいても、彼の剣にはひとたまりもない。彼は最強の剣士だった。全身に黒い血をあびながら死体の山を築いていった。

 次の部屋には裸の女たちがいた。椅子にしばりつけられ、あちこちに転がされ、壁に標本のように貼り付けになっていた。彼の下半身に力がみなぎってきた。女たちの臭いをかぎ、体をなで、平手打ちをくらわした。そして欲望の限りをむさぼった。仕立て屋はやめることができなかった。次の女、次の女と移って行っても、彼の性欲は一向に衰えなかった。
 どれほどの時間が過ぎただろうか、耳の中にほとんど哀願するような貴婦人の声が聞こえた。彼は我にかえった。たくさんの女の死体が転がっているその部屋を、ふらつきながら出た。背中で壁に寄りかかり、息を切らして両手を見た。皮膚は血を吸って黒変し、醜く変形していた。犯罪者の手であった。

 新しい部屋に入るたびに新たな欲望が呼び起され、欲望は膨れ上がり、それをどうすることもできなかった。そして次第に罪に染まっていった。
唯一の希望はあの貴婦人の声だった。貴婦人の声がかろうじて自分というものを思い出させ、欲望の暴走をとめてくれるのだった。しかしそれも難しくなってきているのかもしれない。まだ城には数えきれないほどの部屋がある。すべての部屋を開けていたら、いずれけだものに成り果てて、貴婦人の声は聞こえなくなってしまうだろう。このままではだめだ。何か違った方法を見つけなければ。

 どの鍵が貴婦人の部屋に通じる鍵なのか これまで使った筈の鍵をより分け、一つ一つの鍵をじっくりと見ていった。
 文様の付いた鍵ばかりだった。まだ一部黒い血がついていて触るとぬるぬるとしていて冷たい。しかしその中に一つだけ、飾りがなく表面が滑らかな鍵があった。黒い汚れも少ないようにみえる。多分ほかの鍵の汚れがついただけなのだろう。これかもしれない。この鍵が貴婦人につながる鍵なのかもしれない。どうして今まで気が付かなかったのだろう。罪にけがれて初めて見分けがつくようになったのか。彼はその鍵を握り、廊下を見渡した。この鍵にふさわしい扉がどこかにあるはずだ。

 城の中の廊下を歩き回り、扉を一つ一つ注意深く見た。城の中は迷路のように入り組んでいて、とんでもないところで横道があったり、いつの間にか元いた場所に戻っていたりする。階段を登ったり、降りたり、ぐるぐる回るばかりで疲れ果て、仕立て屋は廊下の隅にしゃがみ込んだ。
ふと、目の前に一つの扉があった。飾り気のほとんどない扉だった。扉をさわると表面は滑らかで、鍵をさわった時の感じによく似ている。

 仕立て屋は鍵穴に鍵を差し入れ、ゆっくりと回した。ガチャリと手ごたえがあり、鍵は回転し、ドアが開いた。部屋の中には太く長いろうそくが何本も立っていて、炎が揺らめいた。そこに椅子に縛られた姿の、あの貴婦人がいた。青を基調としたドレスにカラフルな上着をはおっているのだが、口はタオルできつく縛られていて、声を出すことができない。肩と上腹部に縄がまかれ、胸が強調され、足は素足だった。仕立て屋を見て安堵の色が浮かんだ。何かを言おうとしているのだが、うめき声にしかなっていない。顔に殴られた跡は、なかった。

 仕立て屋は真っ赤になり、鼓動が早くなった。すぐにお助けしなければ、と思って手を貴婦人の方へ伸ばした。その瞬間、自分の手が眼にはいった。手は節くれだって異様に大きく 爪が伸び、泥や血にまみれているように汚れ、手の甲には黒い毛が密生していた。仕立て屋は自分の手にたじろぎ、これまでの部屋の中で行ってきた悪行の数々を思い出した。この手は欲望を満たしてきた手、罪を犯してきた手だ。そして下半身にむくむくと欲望が湧きあがってくるのを抑えられなかった。
貴婦人の眼に驚きと恐怖が浮かんだ。仕立て屋は手を伸ばし、貴婦人には決して触れないようにしながら、頬から首へ、次いで胸のふくらみの形を指でたどっていった。しかしそこで手をとめ、引っ込めた。下を向いて再び自分の両手をじっと見た。

「どうした仕立て屋、おじけづいたか。」
とどろくような声が響き渡り、仕立て屋は振り返った。青ひげ公が立っていた。腰に剣を下げ、口元に笑みを浮かべじっと仕立て屋を見ている。
「お前のために、この女は手つかずにしておいた。さあ、思い通りにしてしまえ。今なら好きにできるぞ。」
「そんなこと、するわけがない。」
大声を出すつもりが、仕立て屋の声は小さかった。
「これまでこの城の中で、何をしてきたのか思い出すんだ。欲望に素直に従うことは、気持ちが良かったろう。おまえは欲望のままに生きることを覚えた。さあ、この女もお前の好きにしてしまえ。欲望の餌食にしてしまえ。遠慮はするな。それとも俺が女のいたぶり方を教えてやろうか。」
「やめろ、この人にそんなことはさせないぞ。」
「ほう、少しは元気になったかな、股間の一物もな。おまえが本当は何をしたいのか、その一物がよく知っている。」
「そんなことがあるものか、僕はこの人を助けに来たんだ。」
「きれいごとを言っているのじゃない、自分の手をよく見てみろ。そして自分が何をしてきたのか、本当はどういう人間なのかを、考えろ。」
「やめてくれ、ちがう、それはちがう。」
「仕立て屋さんよ、自分の心に素直になれ。人間には欲望がある。誰にでもな。あんたにはこれまで欲望がなさ過ぎたんだ。欲望があればこそ、努力もする。欲望が昨日とは違う今日の自分を作っていく。人生が素晴らしいのはな、その根本に欲望があるからだ。欲望のないやつは進歩しない。努力しない。くだらないやつだ。今までのお前のようにな。欲望に素直になれ。そして一歩を踏み出すんだ。」
「ちがう、ちがう、そうじゃない。」
「さあ、その欲望にまみれた手で、女の体にさわってみろ。キスをしろ。服を切り裂け。女の肌は美しいぞ。いい匂いがするぞ。そうだろう?女を犯すことはすばらしい。首を絞めて断末魔を味わうのはもっと素晴らしい。それとも肌を切り裂いてその血をすすってみるのがお好みかな。さあお前は自由だ。何でも望みのままだ。」
「やめてくれ、そんな話はききたくない。」
仕立て屋は泣き出した。青ひげ公は呆れたように見下ろしている。
「愚か者、立ち上がるのだ。この俺がここまでおまえのことを気にかけるのも、おまえが他人とは思えないからだ。さあ立ち上がれ、くだらない自分など捨ててしまえ、一歩を踏み出すのだ。」
仕立て屋はよろよろと立ち上がった。涙にぬれた目で貴婦人を見つめ手を伸ばした。貴婦人の首元に両手をのばし、服をつかんだ。貴婦人は首を振った。
「よしいいぞ弱虫、力を込めて服をひき裂け。乳房をむき出しにしろ。」
仕立て屋はためらっていた。顔が次第に紅潮した。胸いっぱい吸い込んだ息をとめ、涙のたまった眼でじっと貴婦人を見た。貴婦人もまっすぐに仕立て屋の眼を見ている。仕立て屋はゆっくり息をはき、手を離した。そして貴婦人の背後に回り、口に巻いてあるタオルをゆるめた。
「おや仕立て屋。女の声が聞きたくなったのか。哀れに助けを求める声を。」
「そうじゃない、私はこの人を助けに来た。」
「なに寝言を言っている。たっぷりお楽しみができるのに。俺が言っていることがわからないのか。」
「この方を助ける。」そう言いながら、体を縛っていた縄もすべてほどいた。
「ほう、それはおもしろい。そんなことが、おまえにできるかな。」
腕をさすりながら立ち上がった貴婦人をかばうように、仕立て屋は青ひげ公の前に立った。青ひげ公の大きな体に比べれば、仕立て屋はまるで子供だった。青ひげ公はゆっくりと近づき、二人は後ろに下がった。瞬く間に壁ぎわに追い詰められた。
青ひげ公は仕立て屋の襟首をつかみ、力を込めて絞り上げた。仕立て屋のからだが宙に浮きあがろうとした。

 ところがその瞬間、どうしたわけか青ひげ公の腕がふるえだし、力が抜けた。2,3歩後ろに下がり苦しそうに自分の首筋をさわっている。
 あらためて仕立て屋を睨みつけ次いでその顔に平手打ちをくらわした。仕立て屋は頬をおさえながら床に倒れこんだ。すると平手打ちをくらわせたはずの青ひげもまたしゃがみこんで自分の顔を押さえている。
その間に貴婦人の両手は手袋をしたまま貴婦人から離れ、密かに青ひげの背後にかくれた。

 貴婦人は笑い出した。
「まだわかってないの、青ひげ、あなたがこんなに馬鹿だとは思わなかった。あなたにこの仕立て屋さんを傷つけることはできない。」
「何を言うか。こんな弱虫をひねりつぶすことなど造作もないこと。」
「あなた、そんなことをしたら自分がどうなると思っているの?」
「こいつはうっとうしい虫けらだ。それ以外の何ものでもない。」
「本当は気付いているでしょう。二人の関係がどういうことなのか。」
「黙っていろ。こいつとの関係は剣で決着をつけるまでよ。」
そして青ひげは腰に差した剣を抜こうとした。ところがさやに納まっているはずの剣が手にふれない。青ひげ公はあわてて自分の腰を見た。剣はなく、さやだけがあった。剣の方はというと貴婦人の手がつかを握って空中に浮かんでいる。急いで仕立て屋のところに持って行った。仕立て屋は剣を受け取った。へっぴり腰で両手で剣を握り、青ひげ公に向かって構えた。仕立て屋の体の震えが剣に伝わって、剣先もまたぶるぶる震えている。
青ひげ公はそれを見て大声で笑い出した。
「ハハハ、こいつはおもしろい、仕立て屋殿、そいつで俺と戦おうというのか。いいぞ、やってみろ、おまえにできるわけがない。」
そう言うと仕立て屋に向かって一歩一歩間合いを詰めた。仕立て屋は思い切って剣を青ひげに向かって突き出した。青ひげ公は難なくそれをかわした。
「どうした、それだけか。もっとやってみろ。」

 青ひげ公はにやにや笑いながらさらに間合いを詰めていく。宙に浮いた貴婦人の手が後ろから青ひげ公の眼を隠そうとしたが、掴まれそうになってあわてて逃げる。頭をたたいても腕を抑えようとしてもびくともしない。その間に仕立て屋が何度か剣をふるって抵抗を試みたが剣先が青ひげ公をかすめることもなかった。二人はしだいに部屋の隅へと追い詰められた。逃げ場はなくなった。仕立て屋の震えは止まらず、汗が流れる。いよいよおいつめられて絶体絶命になった時、仕立て屋は獣のようなうなり声をあげた。ウォーと叫ぶその声は初め小さかったが次第に大きくなり、ついには力いっぱい叫んでいた。青ひげ公は歩みを止めて、にやつきながら仕立て屋を見ていた。叫び声の終わった一瞬の後、仕立て屋は自らの首筋に剣をあて、思い切り強く引いた。
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・・・・・・・・・・
「起きて、仕立て屋さん、起きて、目を覚まして。」
遠くに貴婦人の声が聞こえ、仕立て屋はからだをゆすぶられていた。仕立て屋は目を覚ました。目の前には心配そうにのぞきこむ貴婦人の顔があった。
「やっと気が付いた。よかった。」
「あ、あ、あ。いったい僕はどうしたんだろう。」
「もう、あなたにはびっくりさせられたわ。あんなことをするなんて。」
「ここはどこ?青ひげ公は?」
「あなたのお部屋よ。あなたのベッドの上にいるわ。」
「いたたたた、首が痛い。」
「ちょっとじっとしていて。今抜いてあげる。」
貴婦人は仕立て屋の首から、仕立て用の小さな針を抜いた。
「ほら、これがあなたの縫い針、青ひげの剣よ。刺さっていたのは先っぽだけだから、たいした傷でもないわ。」
「青ひげ公は?」
「死んだわ。」
「なぜ?死んだのは僕だったはずなのに。」
「なぜだかわからない?あなたが青ひげ公だからなのよ。」
「まさか」
「そして青ひげ公はあなただった。二人は一心同体、カードの表と裏のようなものよ。」
「そんなはずはない、僕があんな極悪非道の男のはずはない。」
「あなたが最後に剣で自分の首を切ったでしょう?十分致命的な傷だった。それはあの男の首を切るのと同じことだったの。あの男はそれが元で死にました。」
「それではなぜ僕は死んでいないのだろう。僕にも十分致命的な傷だったはずなのに。」
「それはあなたの夢の世界で起きたことだったからなの。青ひげはあなたの夢が作り出した男だった。でもあの世界では、青ひげにとっては現実の世界なの、だから死んだ。」
「そうなのか。・・・どうもよくわからないが。」
「あなたをこちらの世界に連れてくるのは大変だったのよ。夢の世界とはいえ、そこで死んでしまったらどうなるか誰にも分からないから。あなたの意識が落ちてぼんやりしているうちに苦労してこちらの世界に連れてきたのよ。」
「それはどうも。ありがとう。」
「あなたにはとても感謝しているの。これで私たちの世界にはあの極悪非道な青ひげはいなくなった。あの黒い城も、青ひげが犯した罪の黒い跡も、みんなきれいになくなったの。昔のような、平和で明るい、色とりどりのおとぎ話の国にもどったわ。また、もしかしたら夢の中でお会いできるかもしれないわね。」
「なんでそんなことを言うの」
「私もまた、その夢の中の人間だからです。」
「そんなことがあっていいものか。あなたが夢のなかの人だなんて。そんなことは信じない。でもおかしいな、あなたがだんだん透けてきたみたいだ。」
「ごめんなさい、私は帰らなければならないの、これ以上こちらの世界にいることはできないのよ。」
「待って、消えて行かないで。一緒に連れて行って。」
「あなたはこちらの世界の住人よ。現実の世界の中で生きるべきよ。夢の中に逃げてはいけないの。」
「いやだ、どうか一緒に連れて行ってください。この現実の世界に私が生きている価値はないのです。あなたの居る世界で、私は生きていたいのです。」
「夢の世界に行ってしまえば、もう現実の中に戻ることができなくなるのよ。この世に別れを告げることになるの。」
「かまわない。この世には望みもなく、未練もありません。私はあなたの世界で、あなたと一緒に生きていきたい。」
「本気なのですか」
「ええ本気です。待って、待って、消えて行かないで。どうかいっしょにつれていってください。」
「仕方がありませんね。私の命の恩人なのですから。ではあなたのベッドに横になってください。」
仕立て屋は体を横たえた。その隣にほとんど透明になって向こうがすけてみえる貴婦人がすべりこんできた。
「後悔はしませんね。元には戻れませんよ。」
仕立て屋はうなづき、貴婦人の顔に手を触れた。仕立て屋はびっくりした声をあげた。
「ああ、手が、僕の手が元にもどっている。あなたの手は?」
「ええ、私の手も、元どおりよ。」

 そう言っている間に貴婦人の姿は消えた。仕立て屋は一人ベッドの上に残り、手を握り合うしぐさをした。じっと見つめあい、キスをし、しっかりと抱き合うしぐさをした。そのまま仕立て屋は目をつぶり、深い眠りへと落ちていった。次第に息が浅くなり、胸の動きが止まった。部屋の中は静かだった。

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・・・・・・・・

 朝が来た。男は目をひらいた。
「くだらない夢を見たな。」
そしてがばと体を起こし、立ちあがった。大きな体のまわりに巨大な影が広がった。
「仕立て屋だと?馬鹿な夢を長々と見たものだ。この俺様が、何で死ななければならんのだ。」
男は首筋に手を当てた。次いであごひげに手を当てた。髭は荒れてあちこちはね上がり、その色は青かった。
「何ともないじゃないか。この青ひげ公ともあろうものが、そう簡単にやられるはずはない。」
青ひげ公は大声で笑い出した。ひとしきり笑い終わると、言った。
「さてと、今日も狩りに出かけることにしよう。少し遠出をして、川向こうの村に行ってみるとするか。あそこには美しい姉妹がいたな。ちょうど年頃で、いい体になっているはずだ。フン、ぞくぞくするわ。」
そして青ひげは壁ぎわに立っている剣を腰におびた。そしてどなった。
「おおい、馬の用意をしろ。狩りに出かけるぞ。」


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この記事へのコメント

ユーーーカリ
2017年02月12日 22:10
結末に驚きと悲しみがありました。ハッピーエンドではなかったのですね。欲望を取り去ることは出来なかったのか…とは言え…私は音楽など芸術を楽しむ欲は、いつまでも持っていたいと思っています。
ロドルフォ管理人
2017年02月13日 19:59
拙い話を最後までお読みいただきありがとうございました。自分の中では「眠れる森の少年」「森の中の塔」の続きです。今最終話を書こうとしているのですが、欲を出したためかなかなかうまくいかず、困っています。

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