仕立て屋と青ひげ  その1

               仕立屋と青ひげ (その1)

 昔、ある町に仕立屋が住んでいた。長い年月を、死んだ父親から譲り受けたちっぽけな店ですごし、なじみ客相手に仕立ての仕事をしていた。古くなった看板は傾いて色が剥げ、入り口扉はがたつき、壁には長年の汚れが模様を作っていた。店の中には一人にしては広すぎる作業台、雑然と物が詰まった埃だらけの棚、それに古いベッドがあって、仕立て屋はそこで寝起きしていた。大人となった今では小さすぎて手足を縮みこませなければ眠ることができなかったし、あちこちきしんで音をたてたのだが、幼いころからなじんだベッドなので他で眠ることなどはできなかった。

 たまに貧しい身なりの老人が、擦り切れて穴が開いたような服を持ち込んでくる。すでに修繕を繰り返して継ぎはぎだらけになっていて、汚れで元の服地の色もわからないような服だった。修繕する部分にしても、針を入れたら裂けてしまうほど生地が薄くなっていたり、あいている穴にしても1か所とは限らない。服というよりは、いろいろな種類の布きれを張り合わせた雑巾に近い、といったような代物だった。

 どんな服でも仕立て屋は時間をかけてすみずみまで調べた。簡単に修繕できる部分は糸を何回か往復させて縫い寄せたし、どうしても無理ならば店のどこかに突っ込んである古い布きれの束を掘り出し、適当に選んだ布をあてがって縫い付けた。ぼろ服に色違いの布が新たに1枚張り付くことになるのだが、いずれは汚れと埃で服になじんでいく。だからそれで特に問題がない筈なのだが、たいていの客はしあがった服を袖を通した後、一くさり文句をつけた。そしてきまって料金を値切ってくる。小心な仕立て屋は反論もできずにおとなしくそれを聞いた後、ようやく差し出した手のひらにお金を受け取った。それはたいてい最初の打ち合わせより少ない金額だった。

 そんなことではやっていけなくなることは目に見えていたのだが、かといって新たな仕事をして頑張ろうという気持ちもない。天気が良ければ通りから少し奥まった入り口扉の前に椅子を出して座り、ひがな一日夢想にふけっていた。そこは陽あたりがよくて風も当らないお気に入りの場所だった。貧しい人々が住む町はずれの古い通りには、戸や窓がガタガタして冬の隙間風の寒いような家屋が、ちぐはぐに並んでいた。ロバの引く荷車が通り、荷物を肩に担いだ男が通る。買い物かごを持った女たちがおしゃべりしながら通り過ぎた後を、風にあおられたごみがころがっていく。道路は掃除することもなく塵芥が放置されて、異臭が漂っていた。しかし彼はたいていのことは気にならず、ひたすら自分の夢想の中に浸っていた。たまにみすぼらしい身なりの近所の人が、暇そうな彼に世間話をしかけてくる。夢想を中断された仕立て屋は気のない返事を二言三言し、ようやくその人が立ち去ると再び夢想におちこんで、ぼんやりとした目つきになるのだった。

 夢想にふける力は人一倍あった。それは遠い国の話であったり、幾世代も前の過去の話であったりした。そこでは化け物が王女を助け、3人兄弟の馬鹿な末弟が成功し、最後に怠け者が大金持ちになった。なかでもお転婆で可愛いブリュネットの女の子が、動物達の力を借りて空を飛び海を渡り、悪い人達をやっつけながら世界を旅する話が大好きだった。夢想は次から次へと湧いてきて、一日中尽きることはなかった。しかしそんな夢想がいくら豊かであっても、彼の実生活ではまるで何の役にも立たなかった。

 仕立て屋は腹を空かせていることが多かった。先代の父親の残した財産を小出しにして使い、さらには家財道具などを少しずつ売り払って、何とかここまで食いつないできた。そのたくわえもあとわずかになってきている。そのうちどうにもならなくなりそうなのだが、仕立て屋は先のことはできるだけ考えないようにしていた。空腹でも夢想していられれば彼は幸せだった。お金を稼ぐ方法を考えることなどまっぴらだった。

 朝の光とともに起き、棚の中で干からびて硬くなったパンを水でのどに流し込む。もし仕事があればそれに十分時間をかけ、残りの長い一日を夢想の中で過ごす。お金がなくて一日まともに食べられないこともあるけれど、そんな生活にとりたてて不満を持つこともない。親しい友人がいるわけでもなく、仕立て屋仲間の集まりにでかけることもない。たまに修繕仕事の報酬を手にすると近くの食堂に出かけ、まともな夕食を久しぶりに食べた。魚料理、豆のスープ、それに安ワインが少々つけば、仕立て屋にとって大変豪華な晩餐なのであった。

 日曜日には世間一般の人のように、一張羅を着て教会へ行った。一張羅といっても他の服より少しはましな程度の、継ぎはぎのある古い服である。彼は背を曲げて下を向いて小刻みに歩いた。まだ若いのに教会に一緒に出掛ける近所のご老人たちの中にいても目立たなかった。教会では昔と少しも変わることのない説教を神妙に聴き、型通りにお祈りをした。神父が信者達に祝福を与えたころには、自分もまた神に認められたまともな人間であるように思えて、すっかり満足して帰るのだった。

 親方であった父親が生きていた頃はこんなにおちぶれてはいなかった。店にはいつでも二、三人位の職人がいて、親方の指示に従って忙しく働いていた。この地方の荒野の開墾が進み人口が増えていた頃で、他に服を仕立てる所はなく、お客はいくらでもやってきた。服の修繕はもちろん、新調の注文も次から次へと舞い込んだ。いつでも仕事に追われていて、注文を受けた衣類の山が減ることはなかった。その代り身入りもたくさんあって、祭りだことの集会だことの、人が集まるところには他の徒弟たちと着飾って出かけたものだった。

 彼は背格好が小さく、若くから禿げていて、声は妙に甲高かった。言うことといったら神父の真似事のような辛気臭い話ばかりで、気の利いたことなど言えたためしがない。新しくしつらえた服を着てみてもみばえがせず、女性の関心の対象にはまずならなかったのだが、それでも若さゆえ思い切って女性をダンスに誘ってみたことがある。謝肉祭の、町中が浮かれていた晩のことだった。町中の若者が集まって飲み食いし、踊り狂っていた。華やかな歌声と楽器の音に興奮し、壁ぎわを離れ彼は思い切ってある娘を踊りに誘ってみた。髪の色が彼の大好きなブリュネットの娘だった。まさかうなずくとは思っていなかったので、彼はすっかりのぼせ上がってしまった。珍奇なカップルに周りの人たちは好奇の眼を向け口笛を吹き、わざわざ踊る場所をあけてくれた。顔は火が出そうなほど真っ赤になり、音楽のリズムもわからず、手足の動きもバラバラで、何をやっているのかわからない。あちこちから失笑が漏れ、あわてた彼が娘の足を踏みつけたものだから、思い切りつきとばされてしまった。壁に嫌と言うほど頭を打ち付けて目をまわし、おまけに棚にあった酒瓶がたおれて彼はびしょ濡れになった。周りの人たちはみな大笑いした。特に女性たちは手をたたき、涙を流しての笑いがいつまでたっても止まらない。のちのちにまで話の種にされたこの出来事で彼はすっかりしょげてしまい、こと女性についてはすっかりあきらめてしまった。


 親方でもあった父親が急死すると、一緒に働いていた仲間は店を出ていった。中には町の中心地に店を構えたやり手もいた。当世風の粋な流行を取り入れて大きな店になり、町の有力者がお得意さんの人気の店になっていた。初めは昔のよしみで挨拶していた彼らも、今ではみすぼらしい彼を見て見ぬふりをする。

 一方彼の方にも、最初の頃は服の新調する仕事があった。しかし彼はチャンスを無駄にした。注文を受けている間も夢想している時のようにぼんやりとしていて、出来上がった服は昔ながらの不格好だった。着心地も少々悪いとくれば、新調の仕事がなくなるのも当然だった。今ではただ破れかかった服の修繕をするばかりで、まっさらな布地にはさみ入れるような新調の仕事は、そのやり方さえも忘れてしまったのだった。

 ある日のことだった。久しぶりに服の修繕仕事が入り、大きな作業台の前に陣取って作業していた時に、ひどい眠気が押し寄せてきた。なぜ急に眠くなったのかよくわからない。糸を通した縫い針を手にもち、もう片方の手に修繕服を持ったまま、まぶたは重くなりいつのまにか閉じてしまっていた。

 仕立て屋は夢を見た。

 足もとは朱や黄や紫など、鮮やかな色によって彩られた地面であった。色の形は丸や四角に近いものから細長いものまで様々で、微妙な土地の高低や道や木立ちなどによって区切られている。見渡すかぎりのかなたまで、まるで色付の地面を切り貼りしたかのようなパッチワークの大地が続いていた。淡黄から濃緑の木々が立ち茂り、思い思いに好きな色を塗ったような人家がぽつぽつ見えた。そのむこう遥か彼方の地平線には、真っ黒い丘が見えた。丘の上に建物のシルエットらしい影がある。色とりどりの風景の中でそこだけ色を失って、漆黒の闇のようにみえた。

 空は青く明るかった。よく見るとその空に、細長くてきらきら光るものが浮かんでいる。仕立て屋が普段使っている縫い針のようにも見えた。どうやら空の高いところから落ちてきているようで、見ているとだんだん大きくはっきり見えるようになってきた。空気を切る音が聞こえ、ドスッという音とともに黒い砂塵があがった。目の前に1本の白銀の剣が突き刺さっている。立派な剣だった。つかが十字の形になっていて、細かな装飾が施されていた。

 剣の向こう側に見知らぬ男が立っていた。影絵のようにみえる大きな男であった。剣を見据える眼があり、青い髭があった。剣の方へ歩み寄り、大きな手を伸ばして剣のつかを握り、地面から抜きはなった。男は剣の刃をくまなく調べるようにして見ている。仕立て屋もまた眼前で白銀がきらめき、手に剣の重さがあるのを感じていた。

 眠っていた仕立て屋の指の間から何かがすべり落ちた。仕立て屋ははっと目をさました。いつもの部屋の中であった。自分の手を見た。修繕中の服はあったのだが、持っていたはずの縫い針はなく、指には糸だけが残っている。彼はあわてて床の上を探した。掃除のゆきとどかない床はほこりや泥で汚れていたものの、金属で光る針は目立つはずである。しかしいくら探しても見つからない。自分の衣服はもちろん机や椅子の上、部屋のすみずみまで探したのだが、針はどこにもなかった。仕立て屋は舌打ちした。あれはおやじの形見の針だった。長さもしなり具合もちょうど手になじんで使いやすかった。まあ仕方がない。まさか夢の中になくしたわけでもあるまいし、そのうち出てくるに違いない。とりあえず代わりの針で仕事を済ましてしまわなければ。

 その日の夜、仕立て屋はなかなか眠ることができず、二転三転しながらベッドの中でうとうとしていた。そしてまた夢を見た。昼に見たのと同じ、色とりどりの土地であった。道で幾人かの色が付いた影が動いている。姿はぼんやりし、声もくぐもっていてよく聞き取れない。話し声はしだいに言い争いのようになり、怒鳴り声となって、いきなり白銀の剣が振り下ろされた。うめき声があがり、色彩が倒れた。剣を握る男が見えてきた。黒い影であった。男の足元で一つの色彩が動かなくなった。色の中心から真っ黒な染みが噴き出して広がってくる。ほかの色彩の人影は散らすように逃げてしまった。仕立て屋の手に何かが伝わってきた。それは体験したことの無い、ねばりつくような手ごたえであった。

 仕立て屋は目を覚まして起き上がった。脈は早く打ち、体が震えている。まだ真夜中の暗闇で部屋の中も見えない。その中で自分の手の指を広げてみた。見えないけれども、指に何かがへばりついているような感覚がある。あわてて両手をこすり合わせると、その感覚は薄れて消えた。頬に触ってみてもなんともない。まだ夜は長い。そのまま眠ろうとベッドの中にもぐりこみ、うとうととした。

 朝となって起きだしてみればいつもの日と変わりはない。干からびたパンを食べ、甕の中の水を飲み、失くした針の変わりを選んで服の修繕をした。手になじまない針は扱いにくかったがそれでも仕事を終え、いつものように表でひなたぼっこをした。服を届けて小銭が手に入ると、めずらしく近所の食堂に食べに行った。久しぶりのまともな食事とワインですっかりご機嫌になった仕立て屋は、夢のことなどはすっかり忘れてしまっていた。
 陽が暮れて夜になった。いつも通り簡単なお祈りをし、仕立て屋はベットにもぐりこんだ。アルコールの余韻でここち良く、すぐに眠りについた。いつもならすべてを忘れた深い眠りになるはずであった。

 しかし夢はやって来た。男が見えた。黒いマントをはおり、人の集まっている部屋の中を歩いている。剣を握る大きな手はごつごつとして醜く、男の眼はぞっとするほど暗い。いくつかの丸いテーブルがあり、そこに色とりどりの服を着た人たちが座っている。男の視線に射すくめられ、凍り付いたように動けないでいる。誰かが椅子を振りかざし、叫び声をあげて向かってきた。椅子やテーブルが倒れ、皿やコップの割れる音がし、酒瓶が落ちて床に砕け散った。男が手にしていた剣をふるうと叫びは悲鳴に変わった。仕立て屋の手に、びしっと肉に食い込む重い感覚が伝わってくる。そして何かしぶきのようなものを浴びた。長くのばされた悲鳴はしだいに弱まっていく。夢の最後の瞬間、床に倒れた犠牲者の顔が見えた。眼を開き苦痛にゆがんだその顔の真ん中から、黒い血が噴き出していた。

 仕立て屋は息を弾ませてベッドから飛び出した。冷たい汗が体中から流れ落ちている。手指はぬめぬめと濡れ、ねばりついている。暗いので何も見えない。においを嗅いでみた。血のにおいがする。仕立て屋は奇声をあげて両手をこすり合わせた。人を殺したのだろうか。いや、これは夢だ、単なる夢なのだと自分に言い聞かせても、胸の鼓動は止まらない。部屋の出入り口を開けて通りにとびだした。月のきれいな晩であった。その光の中に手のひらを広げ、くまなく調べてみた。何もついていない。こんな夢を見た後では恐ろしくはあったのだが、仕立て屋はベッドに戻り、ひたすら縮こまって目をつぶっていた。

 朝になれば何事も変わっていない。いつもと同じ、判を押したような一日だった。しかし違和感があった。手にいつもと違う感覚があるのだが、いくらよく見ても変わったところはない。鏡の中にはいつもの自分の顔がある。だが、鏡の向こう側に誰かがいる気がする。鏡を伏せてもどこからか、誰かに見られている気がする。あの黒い男だろうか。いや、そんなはずはない。気にしすぎだ、つかれているんだ、と自分に言い聞かせた。心配になってベッドの寝具や部屋の中に血痕がないかを探しまわった。しかし何もない。久しぶりに寝具を片付け、部屋の掃除をした。失くした縫い針は出てこなかった。

 その日は一日夢のことが思い出された。戸口に座って通りを見ていても、気晴らしに外を歩いてみても、夢の光景がありありとあらわれてくる。人が死んだような気がして来る。そのたびに仕立て屋は自分の手を見た。手は腫れぼったく感じるのだが、見た目は変わりない。誰かに見張られている気もする。仕立て屋は首を振った。たち現れる夢のイメージに、すっかり圧倒されてしまった。気持ちが落ち着かず、いつもの夢想などとても楽しめそうにない。

 どのように一日を過ごしても、必ず夜は訪れる。ベッドをていねいに整え、いつもならすぐにもぐりこむ毛布を見おろしながら、しばし考えた。またあの夢を見るのだろうか。また見たらどうしようか。しかし、神様なら自分を守ってくれるはずだ。自分は悪いことを何もしていないのだから。仕立て屋はいつにもまして真剣にお祈りをした。

  天にまします我らが父よ、
  あなたの祝福が豊かでありますように、
  御名がますます栄えますように
  そしてわれらに安らかな眠りをお授けください。
  アーメン

 仕立て屋はお祈りを納得するまで幾度も繰り返した。もうこれで大丈夫だろう。仕立て屋の気持ちはようやく落ち着いた。ほほえみながら眠りについた。しかしそれもつかの間のことであった。再び仕立て屋の眠りは黒い夢の中へ落ち込んでいった。

 あの男、黒い鉄の胸当てをつけ、腰には剣を下げ、大きな黒馬の手綱を操りながら荒野を駆けていく。鞍には見事な金髪の娘をうつ伏せに乗せている。気を失っているのか、両手が力なく垂れ下がっている。モザイクの色の土地を過ぎ、立ち枯れた木のある灰色の土地に入る。カラスが群れてきて鳴きながら追ってくる。馬の走る道の先に真っ黒な丘があり、その上に城が見えてきた。城は大きく、闇のように黒い。大男は坂を登り切ったところで馬を止めた。娘が気が付いて暴れ出すとなぐりつけ、ぐったりしたところを担いで城に入っていった。

 男は娘を壁に縛ってはり付けた。娘は恐怖に目をみひらいている。男は黒い毛におおわれた醜悪な手で、娘の色とりどりの服をひき裂き、やわらかい肌を露出させた。そして男は悪行の限りをはじめた。女の叫び声を聞きながら、男は時間をかけてたっぷりと快楽をむさぼっていく。黒い血が男の手からしたたり落ち、床に広がっていく。悪行は夢の中の男がやった筈なのに、夢を見ている仕立て屋の手にもまたその感覚があった。


 夜が明けてから自分の手を見て、仕立て屋はぎょっとした。いつもの自分の手とは違う。悪行のなごりの感覚のある手は、指がすこし太くなったように見える。触ってみるとざらざらして皮膚が厚くなったようだ。昼になっても夜になっても、手の様子は変わらない。また一晩黒い夢を見た次の日の朝、手はさらに節くれだって大きくなっている。その日から一晩過ぎるたび、次仕立て屋の手は次第に大きくなり、指はごつごつと変形していった。手の甲から指先まで黒く太い毛が生え、皮膚が硬く青黒く変色していく。幾晩か過ぎると、どう見ても自分の手でではなくなった。けだものの手だ。毛むくじゃらの、生き血を吸ったけだものの手だ。人間の手であったとはとても思えない。

 仕立て屋は店の戸口で夢想にふけることが無くなり閉じこもるようになった。他人に手を見られないように、誰かが来るとあわてて隠し、どうしても手を使う時には背を向けて自分の身体で隠した。修繕の客にはちょっと手を怪我した、と言いつくろった。いえ、仕事には差し支えないんですよ、と。もし見られたら悪いうわさが立つだろう。たちまち騒ぎになり、仕事を失うどころか、もっとひどいことが起きる。悪魔の手とでも言われたら、何をされるかわかったものではない。

 しかも、その手がする服の修繕仕事は、雑で不正確になった。仕上がりは荒れて、とんでもない縫い違いがあり、約束の納期にも遅れるようになった。手が醜くなるにつれ出来上がった衣服も醜く歪み、とても着られるものではない。トラブルになり、客は怒って服をひったくるようにして帰っていく。仕立て屋は困ってしまった。服の修繕が出来上がっていないかと来る客に、なんとか言い訳をして納期を伸ばしてもらうことにした。収入はなくなった。こんなことはかつてないことだった。

 仕立て屋は食料を得ることもできなくなった。さんざん悩んだ末、教会に相談に行ってみることにした。神父様なら、これからどうしたらよいのか教えてくれるにちがいない。罪深い夢を見てはいるのだが、所詮それは夢にしか過ぎない。非難されるようなことなど何もない。仕立て屋は手をぼろ布に包み、上着の下に隠すようにして神父を訪ねた。

「どうした、仕立て屋、おまえさんが来るとはめずらしい。どうされたのかな。何か罪ぶかいことでもしたのかね。」
「いえ、べつに、罪などは犯していません。」
「お前のやったことが神の御心に反する罪であることかどうかは、私が決める。おまえがとやかく言うことじゃない。まあよい、何があったのか言ってみなさい。つい食べ物を盗んでしまったとか。女に対する欲情を抑えられなかった、とか。」
「いえ、そうではありません。」
「では金だ。おまえは金に困っているだろう?おまえは金をごまかしたんだな。それとも仕立てた服のほうをごまかしているのかな」
「そうでもありません。仕事はきちんとしております、ただ最近うまくいかなくて。」
「何かに気をとられておるのだろう。女だな。図星かな。」
「とんでもない。そうではありません。」
「ではなんだ」
「神父様、この部屋にはほかにだれもいませんか」
「何を言い出すのだ。あたりまえだ。」
「誰かがのぞいていたり、聞き耳を立ててはいませんか。」
「おまえは私を侮辱したいのか。」
「いえ、とんでもないです。このところ、誰かにずっと見張られている気がして。」
「そんなわけがないだろう。さあ、話してみなさい。」
「・・・夢のことです。」
「夢?変なことを言い出すな。おまえが夢を持っているのか。仕立て屋を大きくしたいとか。似つかわしくないな。」
「いえ、夜見る夢のことです、神父様、毎晩変な夢を見るのです。怖いのです。」
「怖い?夢が怖いのか。」
「とても怖いのです。恐ろしいです。」
「どう恐ろしいのじゃ。それじゃさっぱりわからん。」
「よく覚えていないんです。誰かが、女をつかまえてきて。」
「ほう、夢で女をたらしこんだのか。」
「何かするのです。なにかをして、手が血に染まります。私の手も・・・」
「何を言っておる。何の話かさっぱり分からない。」
「手に血がつくのです。べっとりと。」
仕立て屋はほとんど泣きべそをかきながらぼろ布を解き、隠していた両手を出した。
神父はその手を見て、ぎょっとした。そこには不釣り合いに大きな、醜い毛むくじゃらの手があった。

「・・・お前、その手はどうした。」
「わかりません。夢から覚めるたびに変わっていって、とうとうこんなになりました。自分でもどうしてなのかわかりません。」
「いったい、何をしたのだ。おまえは何をした。」
「何もしていません、神父様、夢の話です、はっきり覚えているわけがございません。」
「その手は罪を犯した手だ。人殺しの手だ。そうでなければそんな手になるはずがない。人を殺したのだな。」
「とんでもありません、人殺しなど、この私がするはずがありません。」
「ではなぜ、おまえの手が罪びとの手になるのだ。」
「夢なんです。夢だから、しかたがないんです。」
「いや、そんなはずはない。その手が何よりの証拠だ。おまえは罪を犯した。いずれ逮捕され、裁判にかけられるだろう。」
「お許しください神父様、どうかお許しください。すべては私が見た夢にしかすぎません。夢を見て、夢が恐ろしくてそれで相談に参ったのでございます。実際に私が罪を犯したわけではございません。」
「いや、おまえはその手によって裁かれることになろう。死刑はまぬがれんぞ。さて、どんな刑が待っているかな。車裂きか、火あぶりか。まずその悪魔の手は切り落とされるだろうな。」
「そんな、お許しください神父様、どうかあわれとおもって私をお助け下さい。」
「そうじゃな、なんとかならんかな。うむ、方法が一つだけあるな。助かる方法が。どうだ、聞きたいか。」
「お願いします、神父様」
「免罪符を買いなさい。」
「免罪符、・・・ですか。」
「そうだ。ただし、買うにはおまえの持っているすべての財産が必要だ。この世に財産を持っていて、罪を許されるはずはない。でも、免罪符さえあれば、罪深いおまえにも天国が約束される。免罪符を買いなさい。」

 仕立て屋は家に帰るとあちこちを引っ掻き回し、ようやく父親の残した最後の財産である小銭やら指輪やら彫刻のきれいな小箱やらを見つけた。それらをまとめて教会に持っていくと、神父様はだいぶ渋ったものの、ようやく1枚の免罪符ととりかえてくれた。聖人様と、何やらありがたげな文字がたくさん印刷してある紙片であった。
 その夜、仕立て屋はベッドに横になると免罪符を胸の上に置いた。しばらく撫でているとようやく気持ちも落ち着き、仕立て屋はうとうとと眠りにつくことができた。

 しかし、夢はやって来た。あの男だった。あばれるブリュネットの娘を大きな醜い手で軽々と肩の上に抱え、黒い城門の中に入っていく。抱え上げられた娘は男の頭をさんざん殴りつけているが、びくともしない。城の広間に椅子が一脚ある。そこに娘を投げおろし、両腕を椅子に縛り付けた。波打つブリュネットの髪が顔にかかっている、眼は男をにらみ続けている。美しい娘であった。男が胸元に手をのばそうとした。娘はその手を思いっきり足でけり上げ、立ち上がって暴れると縄が緩んで抜けた。椅子を振り回して男に抵抗しようとした。男は難なく椅子を奪い、その毛むくじゃらの大きな手で女の腕をつかんだ。両手をテーブルに押し付け、剣を抜いた。そして刃を娘の両手首に当て、ゆっくりと押し切りはじめた。

 すさまじい叫び声で仕立て屋は目を覚ました。叫んだのはブリュネットの娘なのか自分なのかもわからない。体の震えはとまらず、冷たい汗がとめどなく吹き出し、ひどいめまいと吐き気がした。なんということだ。免罪符など何の役にもたたない。神様は私を見捨てたのだろうか。

 もはや仕立て屋に平安はなくなった。連日の寝不足でうとうととすると恐ろしい夢がやってきた。黒い石の積みあがった城の中は冷え冷えとして複雑に入り組み、その奥で悪行の限りが尽くされていた。悪をなしている大男の手の感覚が仕立て屋にそのまま伝わり、目が覚めてもありありと残っている。まるで悪をなしたのが自分であるかのような錯覚さえ覚えるのだった。昼間、疲れきった仕立て屋は布地と針を持ったままうつらうつらしていた。いつでもぼんやりしていてうつつと眠りの間を行き来し、まるで夜と昼が互いに流れ込みまじりあっているかのようであった。


 どうしようもない居眠りをしていたそんなある日、仕立て屋は手に何か新しい感覚があるのに気づいた。布を持っている自分の指が、小刻みに引っ張られている。ぼんやりと濁っていた意識がすこし澄んできた。そして頭を動かさないようにしながら、薄目を開けて見てみた。

 布の向こう端で、白い手指が動いている。ほっそりとしていて女性の手のように見える。その手首から先だけが空中に浮かんでいた。片手で布をつかみ、片手で針糸を握って、しきりに縫っている。しかし、その手首につながっているはずの、人の姿はどこにも見えなかった。

 仕立て屋はあっと大声をあげた。同時に手の方も驚いたように針糸と布を放り出し、隠れて見えなくなった。仕立て屋はしばらく唖然としていた。恐る恐る立ち上がり、部屋の中を調べた。誰もいないし白い手などはどこにも見あたらない。椅子に戻った。そして考えた。疲れているな。今度は手の幻覚か。あまり眠れていないし、まともに食事もしていないせいだ。本当にどうかしている。仕立て屋はふたたび縫物をはじめようとした。周りに絶えず注意し、時々顔をあげてまわりをうかがった。しかし緊張は長続きしなかった。縫物を手にしたまま、ふたたびうとうとと始めた。

 またひょっこり白い手が現れた。縫い針に糸を通し、また先ほどの修繕の縫物をはじめた。仕立て屋が気付いて目をあけると、手首は消えている。そんなことを何回か繰り返しているうち、仕立て屋は自分の仕事が、いつのまにかはかどっていることに気が付いた。仕上がりも自分がするよりはるかによい。その日のうちに一着が仕上がってしまった。

 その日からというもの、仕立て屋の仕事は順調に進むようになった。納期に遅れていた服は仕上がり、代金が手に入った。人によっては代金の代わりにパンなどの食料を持ってくる。買い物に出かけなくてすむので、その方が都合がよかった。仕立て屋はそれで一息ついた。今回の出来上がりが気に入ったお客が次の修繕を頼みにくることさえあった。

 空中に浮かんだ手は気味悪く、悪魔の手なのではないかと思うこともあった。しかしその手は美しかった。きっと高貴な生まれの若い女性の手なのだろう。自分の手とはだいぶ違う。仕立て屋はだんだんその手が気に入り、声をかけるなどしながら一緒に共同作業をするようになった。といっても武骨な彼の手は服地を押さえているだけで、実際の縫物をするのはほっそりとしたほうの手だった。縫物をするその手の動きは優雅だった。柔らかな曲線を描きながら縫い、時には軽いステップを踏みながら舞うように見えた。それでいなから縫い目は正確だったので、仕立て屋はすっかり見とれていた。愛しいとさえ思うようになった。

 しかし、この手が自分以外の人間に見られたら大変である。修繕を依頼する客が来ると、仕立て屋はあわててその美しい手を物陰に隠し、自分の醜い手も布などの下に潜らせた。それで客の対応をしていたのだが、その美しい手はどうやらいたずら好きでもあるようだった。慣れてくると隠れていた場所から這い出して来て、客には見えないよう背後にまわり、両手で踊りを踊ってみせ、打つそぶりなどで客にいたずらをしかけようとした。仕立て屋はお客の顔を見ながら、今に気づかれるのではないかとはらはらした。


 ある日、仕事が済んで仕立て屋がうとうとしてた時のことであった。いつのまにか部屋の中に誰かがいるような気配がする。衣擦れの音に気付いて仕立て屋が眼を開けてみると、つば広の白い帽子の下に豊かなブリュネットの髪をたばね、マフに手を入れて上品に着飾った美しい貴婦人が立っていた。仕立て屋はびっくりして立ち上がった。普段店に来るのは汚いかっこうをした農民や職人ばかりだったから、ここでこんなにきれいな人を見るのは初めてだった。しかしどこかでこの人を見た気もする。仕立て屋は直立不動の姿勢になり、うやうやしく尋ねた。

「何か御用がおありでしょうか。お店を間違われたのではないでしょうか。」
「手袋がほしいのです。肘まである長い手袋が。」
「あの、あなた様が使われる手袋でしょうか。あいにくですが、私の店では貴婦人がた用の手袋は作っておりません。」
「わざわざこちらまで、頼みに来たのです。」
「ごらんのように場末の貧しい仕立て屋でございます。ご身分の高い方の来るところではございません。他によい職人がたくさんおられるでしょう。」
「いいえ、おまえでなければ私の手袋を作ることができないのです。」
「無理でございます。百姓の使うような粗いものならまだしも、貴婦人がたの上等の手袋などとてもできません。」
「報酬は十分に支払いましょう。」
「そう言われましても、できないものはできません。なにせ、作ったことがないのですから。」
「たぶん、おまえには仕事を手伝う助手がいるはずです。」
「・・・いったいなにをおっしゃっているのですか。」
「なかなかできる手ですよ。共同ですればできるでしょう。ひきうけてくれますか。」
「・・・あの宙に浮いた手のことを御存知で?」
「すでにあなたのお仕事をかなり手伝った筈です。」
「ええ、そこまでおっしゃるのなら、やってみましょう。あの手は幻なのかと思っていました。」
「引き受けてくれるのですね。ああよかった。お前が仕立てることが、大切なのです。」
「幻ではなかったのですね。では、私のことをずっと監視していたのはあなたですね。」
「それはちがいます。別の男です。」
「いったい誰ですか。」
「しっ、注意して。今はそれ以上聞かない方がいいでしょう。」
「わかりました。まずは寸法とりから始めるのだと思います。手を見せてくださいますか。」

 貴婦人はマフから手を出して前へ差し出した。仕立て屋はあっと息をのみ、へたり込んだ。貴婦人の手は手首から先が断ち切られたようになくなっている。あるべきはずの手指がなく、手首で皮膚が丸く終わっている。その先には何もなかった。あまりのことに仕立て屋は口をぱくぱくさせるばかりで、声が出てこなかった。

「どこの寸法をとればよいのか、あなたにならわかるでしょう。手袋をつくるための布地は持ってきました。こちらの世界の布地では、私の手袋を作ることはできません。さあ、私の手よ、出ておいで。用意をしておくれ。」
貴婦人の目の前に、手が浮かび上がっていた。しおらしくかしこまっていて、礼儀正しく両手を重ねたように見える。
「それでは、手よ、取り出しておくれ。手袋を作るための、特別な布地を。おまえは持ってきているでしょう?」
手は空中に浮かんだまま、手を開いて見せ、反転して甲を見せ、左右が別々にぐるぐる回した。そしてまるで手品をしているように、指の間からするすると光沢のある絹地を取り出してみせた。ついで針と糸も器用に取り出した。貴婦人は思わず笑い出した。
「魔術師の真似事などしなくて良いのに。私から離れて、のびのびとふるまっているようね。仕立て屋さん、準備はできました。お気づきでしょう。これは私の手です。元の姿に戻るためには、あなたの仕立てた手袋が必要なのです。お願いします。あなただけが頼りなのです。きっとこの手はよく働くでしょう。」


 仕立て屋は目を覚ました。いつの間にかテーブルに伏せて眠っていたらしい。見回しても貴婦人の姿はない。しかし、テーブルの上には見たことのない布がある。触ってみるとそれは滑らかで、きめ細かくて光沢のある最高級の絹地である。普段扱っている布きれなどとはくらべものにならない。

 貴婦人はどこに行ったのだろう。仕立て屋は戸口へと行き、慎重に手に布地をかぶせて隠してから扉を開けてみた。首を伸ばして通りの左右を見通してみても、いつもの町が見えているだけで、貴婦人の姿はどこにもない。
戻ってくるとテーブルの絹地のそばに、いつのまにか美しい手が控えている。彼を待っているように見えた。彼はちらちらと手を見ながら椅子に座った。そして独り言のように言った。
「さてと。はじめるとしましょうか。まずはどうしたらいいのかな」

 テーブルの上に片手が横たわった。もう片方の手が手招きし、指で盛んに指の先や根元を指示している。
「ここの長さをはかればいいんだね。」

 それから手袋作りが始まった。手のあちこちの寸法を測るために指を一本一本立てて見たり、手のひらをみせたりした。手はおとなしく言うがままにされていた。きれいでしなやかな指だった 白くて、ほっそりとしていて、きめの細かい肌だった。きっとあの貴婦人は心の優しい人なのだろう。
サイズをはかり終わると、布に印をつけなければならない。しかし仕立て屋の手の指は思うように動かない。うまくいかずに四苦八苦していると、そこに貴婦人の手が手の甲の側からそっと仕立て屋の手に添えられ、仕立て屋ははっとした。気付けば手から無駄な力が抜けて指がうまく動いてくれる。仕立て屋は貴婦人の手になされるがままに作業をすすめた。印をつけ、はさみで切り、細い糸で縫った。こまかい作業だった。貴婦人の手は粘り強く仕立て屋を導いた。むずかしいところでは励まし、うまくいった時には褒めてくれた。しかし自らハサミを持つことや針を持つことは決してなかった。仕立て屋が自分で手袋を作ること、誰の手も借りずに、初めから最後まで、自分の手で作ること、それが大切なことであるらしかった。

 かいがいしく手伝ってくれる貴婦人の手はとても美しく優しいので、仕立て屋はすっかり心を奪われてしまった。手を休めてしまうと婦人の手が優しく作業を促してくれる。その手を自分の指や手のひらで触れてみたいと思い、仕立て屋が少し手をずらしたりすると、察したかのように貴婦人の手は蝶のように舞い上がってしまう。仕立て屋は空しくその後を目で追った。自分の指は動かなくなっているし、その手が戻ってくるまでじっと待っているよりほかはなかった。

 幾日かがすぎ、手袋は出来上がった。仕立て屋は店内で一番きれいなクッションの上に2つの手袋を並べた。手指さきから肘にまで届く、アームロングの手袋だった。白くて光沢があって、よく見ると虹色が混ざって輝いていた。しばらく見入ってから仕立て屋は独り言を言った。
「これでようやくできあがった。でもどうやってこれをあの方に届けたらよいのだろう?」

「とうとうできたのですね。」
女性の声が聞こえ、仕立て屋は椅子から飛び上がらんほど驚いた。いつの間に入ってきたのか、あの貴婦人が部屋の中に立って、にこやかにほほえんでいた。
「いつ入って来られたのですか。ちっとも気が付かなかった。」
「仕上がりを見せていただけますか。」
「どうぞ。これです。」
「はじめてにしてはすばらしい出来栄えです。慣れない作業で大変だったでしょう。私の手は少しは役に立ちましたか。」
「ええもちろん、楽しく作業をさせていただきました。」
「ごくろうさまでした。さあ、私の手よ、出てきておくれ。いよいよ手袋をはめてみましょう。」

 作業台の陰に隠れていた2本の手が、おずおずと姿を現した。できるだけ貴婦人のそばにいたくないような、すぐにでも逃げ出すようなしぐさであった。
「さあ仕立て屋さん、その手をつかまえてちょうだい。手袋に入れて、それを私の手首につなげてくださいな。」
そして貴婦人は両手首から先のない腕を差し出した。貴婦人の顔を見るといたずらっぽく笑っている。仕立て屋はあわてて立ち上がり、空中に浮いた手を彼のごつごつの手でつかまえようとした。しかし貴婦人の手の方はさらりと逃げる。見失ったと思うと、違う場所にいる。追いかけても、するりと逃げてまた別の場所に行ってしまう。
「困った私の手だこと。お転婆なのはもうおしまいにしてよ。この仕立て屋さんの手が怖いからといって、困らせないでちょうだい。」

 その声掛けで、宙に浮いた手はまるでうなだれたように見えた。そして貴婦人の手らしく行儀よくその場から動かなくなった。仕立て屋はその手をそっと握り、そばに引き寄せた。思った通り、それはやわらかく、可愛らしい手だった。そして片手ずつ、自由のきかない手で苦労しながら長手袋の奥へとはめこんでいった。ついで手袋の残りの部分を、貴婦人の肘にまではめていった。仕立て屋の顔は赤く上気し、少し震えながらも両方の手袋をつけ終わった。貴婦人はその手指をしげしげとみた。1本1本指を動かしてみる。指は思うがままに動いているようであった。貴婦人の顔に笑みが広がった。

「ありがとう、仕立て屋さん。これで私の手は元通りになりました。うれしくて感謝の言葉もありません。お礼のしようもありません。」
「いえ、ご満足いただけて光栄至極です。」

 その時であった。はにかむような仕立て屋の笑みが、急にこわばった。あっと小さな声をあげ、貴婦人から目をそらし、壁の向こうの一点をじっと見つめている。
「どうしましたか。」
「いましがた、誰かが、眠りから覚めて眼をあけ、こちらを見たように思ったのです。私たちは見られています。いえ、私達は最初からずっと見られていたのかもしれません。」
「本当ですか」
「立ち上がりました。歩いています。こちらにやってくるつもりです。夢で見た黒い男です。いやな予感がします。」
「とうとう見つかってしまったのですね。しかたのないことなのだけれど。」
「どうしてしかたがないのですか。一体この男は何ものですか。」
「このあたりを支配する領主です。青ひげ公と呼ばれています。」
「青ひげ?聞いたことがないな。どうしてその男が私に見えるのだろう。」
「理由は、今にわかります。」
「ああ、近づいてきます。黒い馬に乗っています。」
「ここに来るのは時間の問題ね。」
「逃げましょう、良くないことが起きる気がします。」
「ええ、良くない事が起こります。とても良くないことが。ここから逃げましょう。無駄になるに違いないのだけれど。」
  
                    (仕立て屋と青ひげ その2へ続く)

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