森の中の塔

 果てしなく続く深い森があった。木々は節くれだち、ねじれ曲がって、互いに絡み合った枝には緑の葉が密にかさなりあっていた。さえぎられた陽の光は弱まり、森の底に着くころは真昼でもうす暗かった。空気は湿り気を帯び、霧がたちこめてくれば何も見えず、ただ梢から落ちてくる水滴の音だけが聞こえていた。
 年老いた木が命尽きて闇の中へ倒れると、森のあちこちから白アリや木食い虫が集まってきて、その体を食い荒らした。キノコが無数に生え、苔が厚く覆い、その上に落ち葉が果てることなく舞い落ちた。木が倒れたあとの森の底には、明るい陽の光が届くようになる。種から芽吹いたばかりの若木は光に照らされて、ずんずんと空へ向かって伸びだした。そして森の穴は新たな緑によって埋められるのだった。
 森のなかではときおり鳥や獣の鳴き声が聞こえた。人の気配はなく、たとえ村人が迷い込むことがあっても、彷徨の果てのその足音が消えてしまえば、また元の静けさが戻ってくるのだった。


 森の奥に古い城の跡があった。崩れて低くなった城壁のそばまで森が押し寄せ、今にも城をおおいつくそうとするほどであったのだが、何かの力で押し戻されたかのようにそこで森の樹木は途切れていた。城壁の中は背の低い草で覆われ、小さな花が咲き、太陽の光がその上に暖かく降り注いでいた。森の上を渡ってきた風は城のなかに舞い降りて、しばらく草花を揺らして遊んでいた。崩れた石垣の隙間には小鳥が巣を作り、動物の親子がのんびりと日向ぼっこをしていた。
 城の建物はそのほとんどが崩れて瓦礫となり、元の姿をとどめていなかった。しかし、その中に塔が一本だけ、倒れることなく立っていた。蔦が塔全体をおおいつくし、入り口がどこにあるのかもわからなかった。ただ、高いところに一か所だけ、蔦の葉のとぎれた場所があった。そこは塔に開いたただ一つの窓であった。ぽかりと開いた窓は、森の遠くからでも見ることが出来た。

 その窓辺には、時折人の姿が見られることがあった。ぼろ布をまとった肌はうす汚れ、長い金髪はほつれ放題であったのだが、バラのような頬に赤い唇、眼はきらきらと輝いて、よくみれば美しい娘だった。澄んだ声でほがらかに歌を口ずさんでいるのだが、それは単純に引き延ばされた声で、歌が言葉として聞かれることはなかった。長い間一人塔の中に閉じ込められていたために、言葉はもちろん、自分の名前も、自分がどこから来たのかも知らないのだった。持ち物と言えば身にまきつけている色あせた布が一枚あるきりだった。でもそれで十分だった。その布きれを身にまといさえすれば凍えることはなく、落ち着いて幸せな気持ちになることが出来るのだった。
 娘は毎日窓から空や森を眺めていた。そこには鳥たちが食べられそうな木の実などを運んで集まってきて、歌で娘とおしゃべりをした。ついでリスやサルなどの動物たちがやってきた。動物たちもまた果物や若葉、豆などを窓辺に置くと、うれしそうに娘の顔を見た。娘はにっこり微笑み返して、それらを指でつまんでおいしそうに食べた。おなかがいっぱいになると娘はその動物たちと疲れて眠くなるまで遊んだ。みなとても仲良しだった。にぎやかな笑い声が森の中に響いていた。

 陽が照り、雨が降り、降った後にまた陽がさして、森はみずみずしく輝いていた。考えごとをしたり、悩んだりすることは何もなく、娘は毎日を満ち足りて過ごしていた。世界には神様のご加護が満ちていた。だから外の世界には何があるのか、娘は知りたいとも思わなかった。


 そのまま永遠の時が過ぎるかと思われた頃のことだった。いつのまにか森に雨が降らなくなった。晴れて暑い日が続き、青い空に雲があらわれる気配は一向になかった。容赦なく太陽は照りつけ、次第に森は水気を失って、木々は枯れていった。緑の葉は色あせて縮こまり、枝を離れて次々と地面に落ちた。森の底が分厚い落ち葉で覆われ、森の木からすべての葉がなくなってしまうと、森の中は明るくなり、幹の間から森の奥が遠くまで見通せるようになった。太陽の光が届いて足元が明るくなると、それまで森を恐れていた人々は森の奥ふかくまで入り込んでくるようになった。
 娘は多くの人たちを見かけるようになった。初めは遠くでちらちら見えていただけであったのが、だんだん近くではっきりと見えるようになった。貧しい木こり、荷物を運ぶ商人、狩りをする貴族の豪華な一行。枯葉や枝を踏みしだくたくさんの足音やにぎやかな話し声。はじめて見る人間というものに娘は夢中になった。毎日毎日窓にへばりついて外を見ていた。塔の下のほんのすぐそばを通り過ぎる人もいたのだが、誰も塔の窓から眺めている娘の姿に気が付かなかった。娘はどうにかしてその人たちと知り合いになりたかった。でも言葉を知らなかったので、どう声を掛けたらよいのかわからなかった。


 上質で立派な服を着た男が塔の下へやって来た。男は塔を見上げ、窓から下を見ている娘をみつけると、にっこりとほほ笑んだ。娘は喜んでとびあがって手をたたき、男にむかって盛んに言葉にならない声を出した。男は一見優しそうな笑顔をしていたのだが、眼は笑っていなかった。男は悪魔だった。悪魔が若く美しい男の姿をして娘の元へやってきたのだった。

 「娘よ、おまえはなぜそんなところに閉じこもっているのだ? おまえは自分が美しいことに気がついていないな。そんなところで一人年老いてしまってよいのか?・・・と、いくら言ってもわからないだろう。おまえには言葉が理解できないのだからな。」

悪魔は塔に絡み付いていた蔦を両手でつかみ、左右に払いのけた。蔦は分断されて飛び散り、そこに塔の外階段が現れた。悪魔は階段を上り、その頂上にある塔の入り口の扉をつかんだ。悪魔はうんと力を込めた。ぎしぎしと崩れた錆を落としながら、扉はゆっくりと開いた。悪魔は塔の中に入ってきた。
 娘は塔の内階段をゆっくりと登ってくる足音を聞いた。足音は次第に近づき、部屋の前で止まった。扉の閂がはずれ、これまで開くのを見たことがなかった扉がゆっくり開いた。そこには立派な身なりの男が立っていた。


 「美しい娘よ。私はおまえを救いに来た。私の言うこときけば、いいことがあるだろう。手始めにおまえに言葉をやろう。そら、話してごらん。」
そして悪魔は娘の頭に手を置いた。すると娘は言葉を得た。
「あなたが何を言っているのか、私にはわからないわ。」 そう言ったとたん娘は目を丸くして息を止め、手を口に当てた。
「ほほう、驚いたか。それが言葉だ。これでお前は返事をすることが出来るようになった。」
「いったい、私はどうしたのかしら」
「驚くのも無理はない。この世のすべてを、言葉で表わすことができるようになったのだからな。いや、まだ言葉で表すことが出来ないものがあった。おまえだ。お前に名前をつけてやろう。そうだな。ラプル。おまえの名前はラプル。さあ私の言った通りに言ってごらん。私の名前は、ラプル。」
「私の名前は、・・・ラプル。」
「そうだ、ラプル、いい名前だろう。それがお前の名前だ。」
「あなたのお名前は?」
「私は悪魔だ。おまえを幸せにするために来た。」
「あなたの名前は、・・・悪魔。いいお名前ね。」
「そうだとも、世界で一番よい名前だ。世界一のこの私が、おまえをここから連れ出してやろう。こんな古ぼけた塔にはさっさとおさらばして、大きくて豪華な館にいくのだ。新しい生活はすばらしいぞ。楽しいことがいっぱいあるぞ。」
「まあ、私はどうしたらよいのでしょう。」
「それは私が決めてやろう。おまえが何をしたいのか、何をすべきなのか、この私が一番よく知っている。お前はただ言われたことに従っていればいい。ただそれだけのことだ。考えたり決めたりしなくてよいことは、とても幸せなことだ。」
「私は聞いて、従う。そして幸せになる。」
「そうだ、そのとおりだ。お前はのみこみがはやい。では順番にいこう。まずはおまえの体に巻きついているその汚らしい布だ。それを何とかしてもらわなければならん。」

 ラプルははっと顔をあげた。悪魔はにやにや笑い、パン、パンと手をたたいた。扉があいて女が二人、真っ白な衣装をささげて現れた。簡素な服の、表情のない侍女たちであった。
「それが、これからおまえが着る服だ。そのみにくいぼろ布を捨てて、このきれいな服を着なさい。」
ラプルは首を振ってゆっくりと後ずさりした。脱がせようと侍女達がラプルの肩にふれようとすると、両手で胸を抱き体をねじって逃げた。
「やめて、私に触らないで。」
「心配しなくても大丈夫だ。どうすればお前が美しくなれるのか、私にはよくわかっている。安心しなさい。」
「いやよ、わたしはこのままがいい。」
悪魔は笑った。
「は、は、は、いつまでもそんな恰好でよいのかな。そのままお婆さんになってしまって、それから後悔しても遅いぞ。ほら、この白い服を見てごらん。これはただの白い布地ではない。なめらかで、繊細で、光沢があって、かなり上等な生地だ。それにきれいな模様が入っている。見事な刺繍だ。わかるか?」
「・・・ほんとうね、とてもきれい。」
「さわってごらん。さ、遠慮なしに。どうだ、いいさわり心地だろう。おまえの体に巻いてあるそのざらざらで、うすよごれていて、みっともない布と比べてごらん。どちらがよいのか、言うまでもないだろう。」
侍女たちが差し出したその白い服をさわりながら、しだいにラプルの顔に笑みがあらわれてきた。
「すてきね、私これ着てみたい。」
「そうだろう、ようやくわかってきたようだ。さあ、そのぼろ布を脱いで新しい服に着替えなさい。女どもが手伝ってくれるだろう。」
侍女達はラプルの体から灰色の布を巻き取っていき、床に落とした。悪魔がじっと見ている前で、ラプルの美しい裸身があらわれた。恥じらうこともなく立っているラプルに、侍女たちは白い服を手際よく着せていった。悪魔は笑いながら言った。
「ほほう、本当にお前は何も知らないな。すばらしい。けがれを知らないということが、おまえをとほうもなく価値あるものにしている。めったにあることではない。ラプルよ、おまえは完璧だ。これからが実に楽しみだ。」
ラプルは服を着終わるとうれしそうに飛び跳ねた。白い服はラプルの体の周りで羽のように舞いおどった。
「本当にすてきな服ね、なんだかこれから楽しいことが始まりそう。」
「落ち着け、落ち着け。ラプル、ここから出ていくぞ。お前のために新しい館を建ててやろう。」
古い布きれを床に放り出したまま、悪魔とラプルと侍女たちは塔の階段を降りていった。

 外に出ると、あたりはすでに夕暮れだった。くずれた城壁の内側の草原がぼんやりと見えていた。一行は前へ進み、かつて城の建物があった瓦礫の中へと足をふみ入れた。悪魔が進み出てさっと両手を前へ伸ばすと、草はばさばさと刈り取られ、瓦礫は左右にしりぞいて大理石の輝く床が現れた。悪魔はできたばかりの床の上を歩きながら、両手を左右で下から上に仰ぐように盛んに動かした。ごつごつと大きな音を立てながら壁の石が空に向かって積み直され、さらには屋根が広がって空が閉じられていった。
 できたばかりの天井から、いくつものシャンデリアが降りてきた。たくさんのろうそくに火が入ると、大広間が明るく照らしだされた。壁には大きなペストリーや風景画がかざられ、甲冑の鎧が鈍く光っている。多くの使用人たちがあちらこちらでいそがしそうに動き回っている。テーブルや椅子を整え、調度品をしつらえ、掃除して磨き立てる。真っ白なテーブルクロスの上に銀食器がきれいにならべられ、ろうそくの光でグラスがきらめいて見えた。

 あっけにとられて眺めているラプルに、悪魔が言った。
「さあ、ぼんやりしている暇はないぞ。こいつらが夜会の準備をしている間に、おまえを一流のレディに仕立てなければならん。まず、私の前を、ゆっくり歩いてごらん。」
ラプルがおずおずと歩くと、悪魔は笑い出した。
「なんだその格好は。まるで猿が歩いているようだ。もっと背を伸ばしなさい、足元を見るな、視線をあげて、もっと遠くを見るようにして。そうだ・・・」
悪魔はラプルに優雅に歩くことを教え、あいさつの仕方、人の心をひきつける話し方を教えた。魅力的な手や指のしぐさ、そして男を虜にしてしまう瞳の力を教えた。ひと段落したところで悪魔は言った。

「さあ、今日はこれくらいでいいだろう。夜会の準備も大詰めだ。おまえも準備するのだ。今夜がおまえにとっての初めての舞踏会になる。」
悪魔はパン、パンと手をたたいた。多くの侍女たちが集まってきて膝を曲げての軽い会釈をした。
「さあ、この姫君に身支度をさせてこい。髪を結って化粧をし、豪華なドレスを着せるのだ。宝石をふんだんにちりばめて、世界一美しく輝く姫君にするのだ。世の中のすべての男どもが、このラプル姫を愛するように。」
侍女達が再び会釈し、ラプルを連れて大広間から出ていった。


 しばらくするとバタバタ走ってくる足音と笑い声が聞こえる。お待ちください、と侍女たちが騒いでいる。何事かと振り返った悪魔にラプルが勢いよく抱きついてきた。豪華な衣装に宝石をちりばめた髪飾りをつけ、輝くような肌の色、燃えるような唇、そしてその眼はいたずらっぽく笑っている。ラプルは悪魔の手を握ってそのまわりをくるくる回りだした。
 悪魔は振り回されながら言った。
「これは驚いた。これがラプルか。先ほどとは大違いだ。お前は本当に美しい。悪魔である私でさえため息が出る。こら、どこへ行く。」
ラプルは悪魔の手を離すと今度は大広間の中を走り出した。テーブルの間を縫いながら走り、忙しく働く召使たちの邪魔をしては驚かせた。

「おまえは今自分がどんなに魅力的なのか、わかっていないな。」
悪魔はそばにいる召使いにむかって言った。
「おい、鏡を持って来い、すぐにだ。何を驚いている、私が使うわけではない。」
鏡が用意された。悪魔はラプルを追いかけて苦労してつかまえた。大笑いして息を弾ませているラプルを、鏡の前に連れて行った。
「おまえは鏡というものを見たことがないだろう。見てごらん、これがお前自身の姿だ。自分がどんなふうに見えるかな。」
ラプルは鏡をみて、目を丸くした。
「まあ、なんてかわいい女の子なの。すてきね。」
「それがおまえなのだ。」
しばらくラプルはそのまま自分の姿にみとれ、振り返って悪魔に笑いかけた。そしてまた鏡を見て、次に振り返った時には驚いた顔になっていた。
「おや、私が鏡に映っていないのに気が付いたかな。そんなことはどうでもよろしい。それよりも、これからおまえが何をしたらよいのか、それをこれから教えてやろう。」

 悪魔はラプルを、広間の奥の一段高くなっている場所へと案内した。そこにはゆったりとした大きな椅子があった。悪魔はラプルをそこに腰かけさせた。
「ここがお前の席だ。ここで男たちを待つのだ。おまえは蜘蛛の巣を見たことがあるな。この館はいわばあの蜘蛛の巣で、おまえはその巣の主だ。威厳を持って、ほこりたかく待っているだけでよい。そこへ馬鹿な男どもが勝手にとびこんでくる。にやついた顔に下心をかくしながらな。おまえはその者達を歓迎するのだ。話をし、腹がすいている者には食事を与え、けがをしている者には治療を、疲れている者には休息を与えるのだ。」
「何のために?」
「蜘蛛が糸を吐いて餌をつかまえるのは見たことがあるかな。」
「あるわ。そうして餌を動けなくしてしまうの。」
「おまえもおなじだ。そうやって見えない糸で男どもを絡め取って、男を逃げられないようにする。」
「それでその男の人を食べてしまうのね。」
「そうじゃない、そうじゃないだろう。そのようにして、男の心を虜にする、ということだ。」
「それからどうするの?」
「男はおまえの言葉に逆らえない。愛の言葉を告白するだろう。男は糸でがんじがらめにされた餌、抵抗することはできない。そうしてゆっくり、そいつの魂をいただくのだ。」
「魂を食べるのね。」
「まあ、そういうことだ。」
「それで、その男の人はどうなるの。」
「私が男のまぶたを閉じてやる。それでその男はお終いなのだ。」
「ふーん。どうしてそんなことをするの。」
「面白いからだ。人を破滅させるのは面白いぞ。嬉しそうな男、いやらしい男、高慢な男が最後には泣きべそをかく。毎日毎日が愉快でたまらなくなるだろう。」
「本当?それ、おもしろそう。なんだかわくわくしてきた。」


 その夜からラプルの舞踏会が始まった。大広間のシャンデリアは燦然と輝き、楽団は音途切れることなく音楽を奏で、豪華な料理が次々と運び込まれてテーブルの上にならべられていった。ワインの準備が出来上がる頃広間の入口が開き、最初の客がやって来た。みすぼらしい身なりの若者で、かついでいた枝の束を床に置き、びっくりした顔できょろきょろ見回した。召使がワインを勧め、それをおいしそうに飲み干すころ、次の客が現れた。館の明かりに誘われてきた農夫だった。こうしてぽつぽつと客はやって来た。身なりはみすぼらしく、広間のあまりの豪華さに気押されてそそくさと帰る者も多かったが、食事に手を付けて長く居座ろうとする者もいた。しだいに噂を聞きつけた町の若者達がやってくるようになった。しゃれた服でやってきて、飲んで騒いで館は大きな飲み屋の様相を呈した。その後立派な馬車で乗り付ける身分の高い子弟が集まるようになると、騒いでいた者たちは従者たちによって追い払われて、ようやく館は一流貴族のサロンのようになった。

 館の豪華な玄関のまえには緑の芝生の中庭が広がり、古い城壁の跡にできた品の良い低い塀によって囲まれていた。玄関からのまっすぐな道がそこを貫き、立派な館の門が館の外との境界になっていた。その先には広くて白い道がどこまでもまっすぐに伸びていて、毎晩次々と馬車がやって来た。

 ラプルは美しく着飾って待ちかまえていて、最高の笑顔で男達を歓迎した。自分の席から立ち上がり、ワインや食事を勧めてまわり、音楽を聴きながら話をし、踊りに誘った。楽しく過ごした夜が明けるころには男たちはラプルの魅力にすっかり参っていた。そしてところかまわずラプルの前にひざまずいて、愛の言葉を口にするのだった。するとラプルは男の手をとり、意味ありげなほほえみを浮かべて館の奥へと導きいれる。男は期待に満ちてその後をついていく。ほの暗い部屋に通され、男がベッドに横たわって興奮の絶頂に達したころ、ラプルは奥に引っ込み、入れ替わりに悪魔があらわれた。ぬらぬらしたうろこにおおわれた皮膚、とげの生えた尻尾、頭にはそりかえった角、汚れて悪臭を放つ口、赤く血走った残忍な目。男は驚愕し逃げようとするが、金縛りにあったように体を動かすことができない。悪魔は長い爪の水かきのある指を大きく広げ、恐怖に震えて何かを叫ぼうと口をぱくぱく動かしている男の顔の上に、その手をゆっくりあてていく。男の震えが止まり、眼はうつろになり、体は全く動かなくなる。こうして男の魂はぬきとられ、悪魔のものになった。魂を抜き取られたあとの男の体は虫けらの姿になって、どこかへと這い出していった。ラプルは意地悪そうな笑みを浮かべて、一部始終を悪魔の後ろから見ていた。

 下心を持ち、期待に鼻の穴を膨らませた男たちがやってきては次々に犠牲になった。身分の高い人、お金持ち、太った人、やせた人、背の高い人、低い人、傲慢な人、やさしい人。いろいろな人がいて、いろいろなしぐさや話し方をしていたが、最後には皆同じようにラプルへの愛の言葉を語り、ラプルの後をついてきては魂を抜き取られた。そして奇妙なことに、いなくなった男のことを思い出す人は誰もいなかった。


 最初はおもしろがっていたラプルも、時がたつにつれ次第につまらなくなってきた。結末がいつも同じではどうにも飽きがくる。少しもうれしくない。それどころか何かいやな気分が残る。何かが間違っているのではないか。そう思い出すともうだめだった。悪魔の言うことはおかしい。人を破滅させることはよいことではない。私はちっとも幸福になれない。ラプルから快活さが消え、考えこむようになった。
 むしょうに自分が幼いころから育った塔の中の、あのみすぼらしい部屋が懐かしかった。むき出しの石の床、何の飾りもない壁、広くて青い空が見える窓。体に巻いていたあの布はまだ床の上に放りだされたままだろうか。あの布はとても暖かくて、不思議と心が休まった。華やかな大広間でたくさんの男たちと話し、次々に相手を変えながら踊っていても、ふとあの布きれのことを思い出す。するとラプルは踊りをやめて男の手を離す。もうこの男たちが魂を奪われるのを見たくない。疲れたと言って自分の椅子に戻ってみても、ラプルはどうしたらよいのかはわからなかった。


 ある日、その日の男を悪魔に渡してから、ラプルは逃げるように大広間を抜け出して、裏の扉を開けて外にでた。満天の星空に月がかかり、枯れた森が照らされてぼんやりと見えた。塔は黒々としたシルエットで立っていた。ラプルはまっすぐ塔に向かって歩いた。外階段を上って塔の中に入り、手探りで塔の中の階段を上って部屋の中に入っていった。
 窓から月の光が入り、床の上を照らしていた。そこにはあの布が出た時のまま放り出されていた。ラプルは布を拾い上げた。顔に当て、その場に座り込んで泣いた。涙がとめどもなく落ちた。そして布を抱きしめたまま床に身を横たえて眠ってしまった。


「どこに行ったのかと思えば、やはりここか。」
怒気を含んだ悪魔の声で娘は目を覚ました。すでに明るい陽の光が部屋の中に満ちていた。
「どうだ、それで気がすんだか。お前はやるべきことをやれ。そんなところで怠けているのではない。」
ラプルは悪魔の顔を見たが動こうとはしなかった。
「言うことを聞け、すぐに立ち上がるのだ。」
悪魔はラプルの髪の毛を引きつかみ、引きずるようにして立たせた。
「言うことを聞くのだ。同じことを言わせるな。その布を捨てろ。お前には感じることは必要ない。考えてもいけない。ただ従っていればいい。間違いなど起こりようがないのだ。」
 ラプルは布を床に捨て、力なく歩いて塔を降りた。侍女たちが彼女の身づくろいをするのに任せた。何も考えず、ただじっと遠くを見ていた。
 そしていつもと同じ夜がめぐってきた。たくさんの馬車が列をなし、たくさんの男たちがおりたった。皆同じように着飾って、同じように愛想笑いを浮かべ、美辞麗句も同じだった。ラプルは適当に聞き流し、何も考えず食事や踊りに身をゆだねた。



 宴もたけなわの頃、馬に乗って、ほこりまみれた服装の旅の若者が一人やってきた。館の前で馬を降りて手綱を召使に渡すと、荷物袋を肩にかけ、無精髭の生えた顎をさすりながら若者は館の中に入った。珍しそうににぎやかな館の中を見回し、めだたない広間の片隅に椅子を見つけると、荷物を放り出してそこに座った。ラプルはそれにすぐに気が付いた。館の召使いたちはそんな貧相な男のことは相手にしていない様子だった。ラプルが若者に近づいていくと若者は立ち上がって一礼し、非礼をわびた。道を間違えて迷い込んでしまった、こんな汚い身なりで申し訳ない、と。ラプルはゆっくりしていくようにと答え、召し使いに食事の用意を命じた。

 ラプルは舞踏会に集まった身なりの良い人たちの相手をしながら、その旅の若者が気になってしかたがなかった。若者は音楽や踊りにはほとんど興味がない様子で、食事を簡単に終えると袋から本を取り出して静かに読み始めた。今まで見てきた男達とは様子が違っていた。その髭面の若者の横顔をきれいだと、ラプルは思った。

ラプルはその若者から目を離すことができなかった。ついに踊りを途中で放り出すと若者に近づいてそばに腰かけた。
「いったい何をなさっているのですか。」
「本を読んでいるのです。」
「そこに何が書いてあるのですか」
「見たことのない広い世界のことが書いてあります。」
「見たことのない広い世界・・・ここはいかがですか。ここも十分広いと思いますが。」
「ええ、この館は広くて大きい。でももちろん外の世界とは比べものになりません。」
「何かお話してくださらないかしら。私はこの館の外に出たことがなくて、何も知らないものですから。」

 若者は驚いた顔をしながらもこれまで経験してきた話を始めた。花の咲き乱れる野原。見渡す限りの麦畑。それよりもはるかに広い海。海の見える丘にある町。その町にある荘厳な教会。夏のかわいた道を歩いた末にたどり着いた泉。野盗に追われて逃げ隠れした廃墟の町。誤解から争いごとになり、困り果てた時に助けてくれた人の情け。どれもこれもラプルが聞いたこともない、おもしろい外の世界の話だった。

 ラプルの心に不思議なことがおきてきた。この人の話をずっと聞いていたい、この人の顔をずっと見ていたい、この人のそばにずっといたい。そんな、今まで感じたことのない気持ちだった。ほかの男のことはもちろん、館のこと、舞踏会のことなど考えることはできなくなっていた。そして不意に、ラプルの頬に涙が流れた。
「いったいどうしたのですか、私の話が悲しかったですか。」
「いいえ、あなたの話は楽しいの、とても楽しいの。でも自分のことを考えたら、急に涙が出てきた。こんなことは今までなかった。これはいったい何なのでしょう。急に涙が出てくるなんて。」
「あなたは幸せそうには見えません。それはたぶん、悲しいという気持ちです。悲しみが、涙を流させたのです。」
「そう、これが悲しみなのね。こういうことを、悲しいっていうのね。」そして涙を拭いて、まっすぐ若者を見つめていった。
「あなたは他の誰とも違う。はじめてよ、こんな気持ちになったのは。お願いがあるの。私を連れていって。どこか遠くへ、今すぐに。私耐えられない、ここにいることには耐えられない。」
こうしてラプルは若者の手をとった。若者は驚いていたが、次第にラプルを愛しいと思う気持ちが湧き上がってきて、それに打ち勝つことはできなかった。
若者はラプルの手を握ったままひざまずいた。
「ええ、あなたが望むなら、私はどこへでも行きましょう 私があなたを広い世界に案内してさしあげましょう。私はあなたの事をあいして・・・」
ラプルはあわてて若者のことばをさえぎった。
「その言葉を言ってはだめ、愛の言葉はだめ。ここでその言葉を口にしたら、あなたはおしまいよ。」
「でも・・・」
ラプルは若者を立ちあがらせた。
「みなに気づかれないようここを抜け出しましょう。身支度をするから少し時間をください。」
「私は馬を用意しておきましょう。ここに来るまでに乗ってきた馬だ。うまくつれ出せるといいのだが。」

 ラプルは奥で質素な服に着替えると館の外に抜け出した。月明りに照らされた塔に忍んで行き、階段を急いで上がってあの古い布きれを探した。それはすぐに見つかった。服を脱ぎ、体にその布を巻きつけた。布はラプルの肌にぴたりとはりついた。ラプルの顔に笑みが浮かんだ。急いでその上に服を着直すと、塔の階段を駆け下りた。門の方へ向かおうとするラプルの前を立ちふさぐように、月光に照らされた影が立っていた。悪魔だった。ラプルはその場に凍りついた。
「どこへ行く。」
「いえ、その・・・」
「あの若造とここから出ていくつもりだろう。」
「いいえ、・・・そうです。悪魔さん、私を行かせてください。お願いです。」
「何が不満だと言うのだ?なにひとつ不自由なことはないだろうに。おまえはここにいるのだ。」
「ここはいや、どうしてもいや、私耐えられません。私を行かせてください。」
「それはできない。おまえはここで生まれ、ここで育ち、そして何をやった?ここから出ていくことなどできるわけがないだろう。」
つかまえようとする悪魔の手をラプルは振りほどき、走り出した。門の所で馬に乗った若者が待っていた。ラプルは若者の手に引きあげられ、その後ろに乗って背中にしがみついた。
「はやく出て。すぐに。」
「誰かあそこにいるのか。」
「いいからはやく出て。」
馬は速足で駆けだした。追いかける者は誰もいなかった。しばらくしてラプルがちらりと振り返ると、はるか遠くの門にたたずむ小さな影が見えた。とたんに悪魔の声が耳の中に響き渡った。
「逃げられはしないぞ。いつかおまえのところに行く。その時にはおまえの一番大切な者の魂をいただく。その時までゆっくり待っていろ。」
ぞっとするような笑い声が続き、ラプルは両手で耳を抑えた。
「どうしましたか、なにがあったのですか。」
「はやく、はやく、館から離れて、できるだけ遠くに。」
「急ぎましょう。」

 枯れた森を出る頃には夜明けになった。朝の太陽の光が緑で覆われた大地を照らしだした。空気は湿り気を帯びて気持ちよく、ここかしこで花が咲き、鳥は歌い、遠くには雪を頂いた青い山々が見えた。馬を止め、二人はうっとりとあたりを眺めた。ついで二人は見詰め合った。そして本当の言葉をささやき合った。
「あなたのことを、愛しています。」
「あなたのことを、愛しています。」

 二人は世界を旅し、多くのものを見た。青い空の下に広がる麦畑、ぶどうの収穫祭に沸く村。乗合馬車を何回も乗り継いで険しい山脈をこえれば、その先の町へと行きつく。たくさんの建物が果てしなく並び、人々は聞いたことのない言葉を話している。謝肉祭で通りにはたくさんの人が踊り狂い、大きな教会では厳かにミサが行われていた。二人は幾日もかけて港町に出た。そこから大きな船で幾日もかけて海を越えていった。


 そして若者の生まれ故郷である、はるか遠い国の、海が近い丘にある小さな村にたどりついた。あたりにはオレンジ畑が広がり、緑の木々に黄色の実が豊かに実っていた。丘の中腹にある村の家は皆、壁が白く屋根は朱色で、窓は鉢植えの花で色とりどりだった。久しぶりに帰ってきた若者のところへ村人たちが集まってきた。挨拶もそこそこに、彼の連れてきたラプルの美しさに皆が感嘆の声をあげた。丘のひときわ高いところにある若者の生家に着く頃にはちょっとした騒ぎになっていた。若者の年老いた両親や兄弟たちが両手を広げて出てきて、ラプルはあたたかな抱擁で迎えられた。

 ラプルはそこで花嫁になった。村人達はもちろん、近隣の人々、遠くからの親戚も集まってきた。花嫁衣装で着飾ったラプルが現れると、人々は思わずどよめいた。ため息をつき、こんなに美しい人は見たことがないとささやき合った。二人は皆に祝福され、花嫁を連れてきた若者は友人達にもみくちゃにされた。お祝いに出された食事は、悪魔の館の豪華な食事とは比べものにならないほど簡素だが、はるかに心のこもった手料理であった。ワインがふるまわれ、音楽や歌が始まり、村の男女がペアになって踊り始めた。男たちがかわるがわるやってきては、ラプルに踊りを申し込んだのだが、花婿である若者はラプルの手を離そうとはしなかった。ラプルは幸福だった。涙にうるむ眼で遠く見渡すと、オレンジ畑の向こうに海が太陽の光を反射して、きらきら輝いて見えた。

 ラプルは若者の家族と一緒に住むようになった。家のなかの仕事はすぐに覚え、オレンジ畑の手入れを手伝うようになった。しだいに持ち前の快活さを取り戻していった。おしゃべりが好きでよく笑い、誰とでも仲良しになった。村の坂道を走るように上り下りし、村人への笑顔の挨拶を忘れなかった。
 夫婦の部屋は家の二階にあった。窓からは海が見えた。風が波の音を窓辺まで運んできた。波の音を聞きながら食べ、飲み、話し、笑い、眠った。波の音を聞きながら愛することを知り、かけがえのない命を得た。波の音を聞きながら女の子を産み、乳を含ませた。波の音を聞きながら幸福とは何かを知り、一つ一つの年を重ねようと思った。異国の地で、このまま静かな一生を終えたい、それがラプルの願いだった。
 しかしラプルの幸福には影があった。その服の下にはあの古い布をまとったままで、どんなに月日が経とうともその布を手放そうとはしなかった。


 或る日、偶然が重なって家のものがすべて外出し、留守番をしていた時であった。ラプルは赤ん坊を寝かしつけ、テーブルの上に布地を積み上げて繕いものに精を出していた。家の中はひっそりと静かであった。ふとラプルは顔をあげた。明るかった外がいつのまにか薄暗くなっていて、いつもならあたりまえのように響いていた海の波の音が聞こえなくなっている。ラプルは不安になり、窓をあけて外を見た。空全体を覆った灰色の雲がじっと動かずたれこめている。風はなく、凪になった海に波はほとんどたたなかった。空を飛ぶ鳥さえ一羽もいない。こんな静かな海は今まで見たことがなかった。不安になりつつも、これは何でもない事と自らに言い聞かせながら、ラプルは繕いものに没頭し、家の人たちの帰りを待っていた。

 かすかな音が聞こえてきた。どこかで水滴がゆっくり垂れているような、そんな規則的な音であった。ラプルは身を固くした。どこかで聞いたことがあるような気がする。音は次第に大きく、はっきりしてきた。そうだ、思い出した。これは足音だ。あの崩れかかった塔の中で聞いた、階段を上ってくる足音と同じ音だ。

 ラプルは飛ぶように走って赤ん坊を抱き抱えた。その足音はいまやあたりに響きわたり、赤ん坊が泣きだした。どんなにあやしても赤ん坊は泣きやまなかった。階下の扉が乱暴に開いた。足音は家の中に入り、階段を上ってくる。家全体が一足ごとに振動した。部屋の扉の前まできてそれは止まった。そして静かに扉があいた。悪魔が立っていた。初めに見たときと同じようなりりしい男の姿をしていたのだが、その顔には笑顔が貼り付けてあった。

「久しぶりだな。ほほう、おまえは少し太ったようだ。顔色もいい。ここでお前は幸せな母親になった、というわけだな。だが、それも今日でおしまいだ。約束通り、おまえの一番大切な魂をもらいに来た。その赤ん坊をよこしなさい。」
「いやよ、絶対いや。」
「ではあの若者の魂にするか。今ではおまえの良い人のようだが。」
「だめ、だめよ、あの人には手を出さないで。」
「欲張ってはいけないね。よく思い出して見なさい。おまえはかつて何をやってきたのか。それをなかったことにして、幸せに生きていけるとでも思っているのかね。」
「でも私は何も知らなかった。本当に何もわからなかったのだから。」
「だからなにをしてもよい。何をしても許されるはずだ。と、そう言いたいのだな。」
「卑怯よ、私をいいように利用して、あなたは卑怯よ。」
「おやおや、この私に口答えをするとはね。まあいい。ひとつお前に決めてもらおう。赤ん坊の魂、夫の魂、今回はどちらか一つで我慢してやる。さあ、どちらにするか。決めなさい。」
「いやよ、そんなことできっこない。」
「魂を一つ助けてやろう、というわけじゃないか。悪魔としては最大限の譲歩をしたつもりなのだがね。」
「だめ、だめ、どちらかを選ぶなんて、私にはできない。」
「私は長い間おまえの帰りを待っていたんだ。あの館で。さびしかったぞ。帰ってこないから、わざわざこうやって迎えに来た。手ぶらで帰るわけになどいかないじゃないか。」
ラプルは涙ぐんで口をつぐみ、じっと悪魔をにらみつけた。
「おとなしく言うことを聞けば、これまでのことをとがめたりはしない。さあ、さっさと仕事を済ませて、一緒に館に帰ろう。いくら待っていても、誰も助けに来ないぞ。」
悪魔はそう言って笑い、ゆっくりとラプルに近づいてきた。ラプルはとっさにテーブルの上の服やら布やらをつかんで悪魔に投げつけた。悪魔が一瞬ひるんだすきに子供を抱いて部屋の外へと駆け出していった。そのまま建物の外へ、門の外へと駆け出していった。

 風はなく、空には灰色の雲がじっとたちこめ、海は鏡のように静まり返っていた。助けを求めようとしてもあたりに人の気配はなく、村の家々の窓は黒々と開いているばかりで、まるで髑髏の眼窩のように見えた。ラプルは泣いている赤ん坊を抱えて村の外へと走った。行くあてはなかった。できるだけ離れたい、とその一心だった。走る足音があたりに響いた。あたりのオレンジの木は鉛のように色をなくしていた。
めくらめっぽう走ってゆくと、行く手の雲はきれて青空がひろがり、まっすぐに伸びる道になった。その先に古い塔のある大きな館が見えた。あたりは立ち枯れた木々の森になっている。ラプルははっと立ち止まった。見覚えのある塔と館。悪魔の館だ。ラプルは踵を返し元の道を戻っていくと、今度は遠くに悪魔が見えた。ラプルはあわててわき道にそれた。赤ん坊は泣きやまない。ラプルも泣きそうになりながら走っていく。その先も雲が晴れ、まっすぐに伸びる道になって塔と館が見える。また引き返して違う道にはいっても、どの道を選んでも、ことごとく悪魔の館に至る道になっているのだった。

 悪魔の笑い声が聞こえた。ふりかえると遠くに見える悪魔の声が耳元ではっきりと聞き取れた。
「わかったか。おまえの逃げる場所はどこにもない。館に帰るのだ。」
ラプルは一瞬考えた後、意を決して館に向かってはしりだした。顔見知りの門番はラプルの姿を見ると扉を開けた。ラプルは館の中庭に走り込み、塔へと向かった。渾身の力を込めて扉を開け、暗い階段を一気にかけあがり、かつて生まれ育った部屋へと入った。赤ん坊は激しく鳴いている。息を切らしながらラプルは泣き出した。
そこへ足音が聞こえてきた。すでに塔の中に踏み込んできている。時間はなかった。
ラプルは祈った。

 かみさま、私の願いを聞いてください、私はけがれた女です。私の命はどうなろうとかまいません、でもこの子と、あの人には何の罪もありません。どうか二人の魂を、悪魔からお守りください。

 ラプルは急いで服を脱ぎ、その下のこれまで決して離そうとしなかった古い布を体からはずして裸になった。そしてまだ自分の体温のぬくもりのあるその布で赤ん坊をぐるぐる巻いてやった。

 赤ん坊は泣きやんで笑顔になった。ラプルの顔にも微笑みが浮かんだ。悪魔の足音は階段を上り、すでに部屋の前まで上がって来ている。ラプルは赤ん坊を床に置き、裸の体に太陽の光を浴びて窓際に立った。
 扉の閂がゆっくりと動き、扉があいた。悪魔はその本性を現していた。うろこの皮膚で角や尻尾のある醜い姿であった。
「これはこれは、全裸でのお迎えか。すばらしい。今度は私を誘惑しようというわけだな。いいだろう。そっちがその気なら、その誘惑に乗ってやろうじゃないか。」
「あっちへ行って。こっちへ来ないで。」
「おや、何を言っている?無駄だ。悪魔の館は、いつだってお前のそばにあった。おまえの逃げる場所はどこにもないのだ。」
遠くから馬を飛ばして走る音が聞こえてきた。窓で振り返って見ると遠くに小さく馬に乗って走ってくるものがいる。ラプルの夫であった。
「こないで、こっちに来ないで。」
娘は窓からあらんかぎりの大声で叫んだが夫に気づく様子はない。
「ほら、おまえの夫が迎えに来たぞ。おまえはあの男を私に渡すのだ。かつておまえがやってきたように。」
「いやよ。彼は私の命より大切な人、あなたに渡したりするものですか」
「嫌と言うなら、どうせ同じこと。まずはおまえをいただいてからにしよう。子供を産んでいても、おまえは十分魅力的だ。さあ、これから私の言うとおりにするのだ。私の女になるのだ。」
外からラプルの名前を叫んでいる夫の声が聞こえてきた。
「ちょうどいい。おまえの良い人に、これからどうなるのか見せつけてやろう。」
そう言うと悪魔はゆっくりとラプルの方に近づき、水かきの付いた醜い手を伸ばしてきた。
ラプルは叫んだ。
「私はあなたの言いなりにはならない。私を自由にすることなど、あなたにはできない。」

そのとたんだった。ラプルは窓枠に手をかけ、伸び上がるようにしてそのまま頭から窓の外へと飛び出していった。ラプルの姿が消えた一瞬の後、下の方で割れるような鈍い音が響いた。あたりの鳥が羽ばたいて飛び立った。
「愚か者め。」
悪魔は窓際まで行って見下ろし、にがにがしげにそうつぶやいた。


 居なくなった妻を探して馬に乗ってやって来た夫は手綱を引いて馬を止めた。塔の高い窓に女の背中が見えた。次いでそれがのけぞって窓から空中へと飛び出した。まっさかさまに落ちていく裸の女を見て夫ははっとした。白くなめらかな肌は陽の光で輝き、金色の長い髪の毛がなびいている。ラプルだった。二人の視線があった。限りない思いをこめてラプルは両手を広げ、そのまま落ちた。
 まるで陶器の人形が砕けるように、ラプルの体は地面にたたきつけられて粉々に飛び散った。体はこまかい破片になってあたり一面に広がり、夫の馬の足元にもその一つがころがった。地面に落ちたその白い破片からは真っ赤な血が流れ出し、地面はそれをゆっくり吸い込んだ。破片はだんだん小さくなってしだいに消えてしまった。
夫はしばらくあたりをうろうろしていたが、目をつぶって首を振り、踵を返して元来た道を戻っていった。


「そうだ、あいつは確か子供を連れてきたはずだ。子供はどこにいる?」
窓からラプルの夫が帰るのを見ていた悪魔は、急に思い出したかのように部屋の中を見回した。殺風景ななにもない石の部屋にぽつねんと布を巻かれた赤ん坊が、すやすやと眠っている。しかし、神様のご加護があって、悪魔は目の前のその子供に気が付かなかった。


「いったい子供はどこだ、どこに隠した?」
いらいらと叫びながら、悪魔は部屋の隅々まで見てまわった。怒りのためほとんど狂乱しながら、壁や床などあちこちを乱暴にたたいている。
「どこだ、どこに隠したのだ、どこにもいないぞ、けがれのない魂は、それは価値があるものなのに。」

部屋の中央では、布にくるまれた赤ん坊が幸せそうに笑顔で眠っていた。


 砕け散ったラプルの破片から出た血がすべて地面にしみこんでしまうと、晴れ渡っていた空の一角に雲が現れた。雲はどんどん広がって空を覆っていき、あたりは暗くなった。風が吹き、稲妻が光り、大粒の雨が降りだした。それは瞬く間に嵐になった。激しい雨と跳ね上がった水しぶきで視界はさえぎられ、地面をたたきつける激しい雨の音のほかは何も聞こえなくなった。乾ききった大地は雨水を貪欲に吸い込み、しみこみ切れなかった水は小さな流れを作り、あちこちに大きな水たまりを作った。

 すると濡れた大地のあちこちが小さくひび割れて盛り上がり、一斉に草や木の芽が顔を出した。それは緑の葉を広げ、みるみる茎を伸ばしていく。枯れていた木はよみがえって芽を吹き、次々に葉を広げた。まるで緑の波をうつように、森が新たな命を得て大地から立ち上がっていった。

 閃光とともに地響きのような耳をつんざく音がした。かすかに塔が揺れ、下から多くの悲鳴が上がってきた。
「くそう、館に雷が落ちたな。」
悪魔は塔の階段を駆け下りて、篠突く雨の中庭に出た。悪魔の足元には緑の草が生き物のようにうごめき、館の壁にはみるみる大きな裂け目が入って割れた窓ガラスや壁の一部が落ちてくる。館の中は大騒ぎだった。火事が起きているらしく、窓には紅に揺れる影が見え、叫び声や怒鳴り声が聞こえてくる。扉を開けて興奮した召使たちがいっせいに城の外にとびだしてきた。
ずぶ濡れの悪魔は、逃げようとしている召使たちをなぐりつけ、館の中に押し戻しながら叫んだ。
「あわてるな、馬鹿者ども、持ち場に戻るのだ。」
叫びながら戸口で押し合いへし合いしている召使たちを突き飛ばして、悪魔は館の中に入った。壁の絵や騎士の鎧は倒れ、落ちたシャンデリアの下敷きになっている者がいる。建物は揺れ、壁や天井の石が落ちて大きな穴が開き、館の中にも雨が降りこんできた。床は波打って裂け、その隙間からいろいろな種類の草がするすると生えてきている。

「なんだ、これしきのこと」
そう言うと悪魔は手の平を下にして腕を前に突きだした。そうしてゆっくりと歩き出した。悪魔が通りすぎたあとは、波打っていた床はおさまって平らになり、くずれた壁は元通りに修復された。しかしそれはほんのひと時のことだった。再び建物は揺れだし、大きな音がしてあちこち崩れてきた。壁にはさらに大きな穴が開き、波打った床の隙間からものすごい勢いで草が生えてくる。悪魔がいくら修復しようとしても、崩れゆく館をどうすることもできなかった。

「そうか、そういうことか、それではしかたがない。」
悪魔は薄笑いを浮かべてそう言うと、ゆっくりと館の外へと出ていき、去っていった。召使たちも一斉に外へ出た。外に出たとたん召使はそれぞれが小さな虫になり、森の中へと散らばっていった。



 嵐が過ぎ去って空が晴れ、柔らかい太陽の光がさしこんでくると、館はもとの廃墟になっていた。その周りには生き生きとした緑をよみがえらせた森が、はてしなく広がっていた。
塔の部屋の中で赤ん坊が泣きだした。泣き声を聞きつけた動物たちがやってきて塔の窓に心配そうに顔を出した。赤ん坊がもぞもぞ動いて、巻かれた布の間から小さな手を伸ばしている。子を背負った母猿が部屋の中に降り立ち、赤ん坊を抱きかかえると乳をふくませた。鳥たちは木の実や柔らかくて苦くない木の芽を運んできた。小さな獣たちは赤ん坊が寒がらないようにかわりがわりに添い寝をした。
森の生き物たちは次々にやって来た。小さな赤ん坊は守られながら健やかに成長していった。そして美しい娘になった。体には布を巻きつけて、美しい金髪を梳きながら塔の窓辺で言葉のない歌を歌っていた。森は静かにそれを聞いていた。何の不足もない、満ち足りた世界であった。

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