弱法師(よろぼし) 下村観山 (その4)

  (その3からの続き)

 梅の花は散り、私はその後毎日のように四天王寺の西門あたりに出かけ、弱法師の消息をたずね歩きましたが何の手がかりも得られませんでした。そう言えば最近見かけないねえ、どこかで死んだんじゃないの、と言われるのが関の山で、しばらくすると弱法師のことも忘れられてしまったようでした。息子を探し出す手立てはなくなったように思われました。

 それからひと月もすぎた頃でしょうか、私はあの日尋ねた僧坊の門前に人だかりがしているのに気が付きました。町の人たちが集まって何か興奮気に話し込んでいます。私はその中の一人をつかまえて話を聞きました。それによると、この僧坊に乞食の絵師が勝手に入り込んで、許可もなくふすまに絵を描いている。それはたとえようもないほど見事な絵なので、追い出そうにも追い出せないでいる。さらに不思議なことに、絵を描いているその絵師はどうやら目が見えていないらしい。 

 盲目の絵師と聞いて黙ってはいられません。私は野次馬の人だかりの間を無理にすり抜けて前に出て、案内を乞いました。人が入らないように見張っている寺の小僧達か、そしてどうかお帰りくださいと連呼はじめました。見れば門柱に「見物の方にはご遠慮いただいています」との大きな張り紙があります。それでも私はここの住職に会いたいと大声をあげました。盲目になった元絵師の私の息子が、ここで行方不明になった、そう住職に伝えてほしい、と。小僧は迷惑そうな顔をしていましたがどうにか一人奥に伝えに行ってくれました。すぐに住職が出てきました。丈のある体の大きな住職です。野次馬たちは静かになりました。
「どのお方かな」
小僧が私を指さしました。私は住職にむかって非礼をわび、自分の息子は盲目になった絵師で、先の日想観の日、夕日にむかってお題目を唱えている後、目が見えると言いだして歩き、この寺の中に入ったように思う、絵を描いている絵師は、私の息子かもしれない、と伝えました。住職は大きく目を見開き、私をまじまじと見ました。
「とにかく入られい。」
そして私を僧坊の中に案内してくれました。なりゆきを見守っていた野次馬たちはとたんに騒ぎ出し、無理やり一緒に入り込もうとするのを小僧たちが何人もあつまって押し戻していました。

 僧坊の入口は狭く、建物はこじんまりしているように見えました。建物のわきには大きな梅の木が葉を茂らせ、青い小さな実がたくさんなっています。玄関から上がって案内されると建物は意外と奥行きがありました。曲がりくねった廊下の先の、奥にある部屋の前で住職は立ち止まりました。住職は振り返り私にうなずいて見せました。それから静かに襖をあけたのです。

 それは広々とした部屋でした。三方は襖で、一面は障子で仕切られていて、障子を通して外の光が入ってきています。その中にぽつんと、襖に向かい絵を描いている者がいました。 淡く墨染めをしたこざっぱりした着物で、細い筆を使って絵を描いている。足元にはいくつかの小皿が並び、濃淡のある墨や緑や青などの顔料が入っています。
その絵を描いている男は、確かに晴徳のようでした。しかし晴徳に似ているようでありながら、全く違う人間に見えました。私が知っているのは、得意そうに絵を描く幼い晴徳であり、傲慢な態度で絵を描いてみせる泥酔した晴徳であり、盲目となり卑屈に涙を流す晴徳でした。そのいずれの晴徳とも違っていたのです。背をぴんと伸ばして居ずまいを正し、恐ろしく真剣な顔で筆先をひたすら注視しています。その視線の厳しさに私はたじろぎました。こちらにまでその張りつめた神経がぴりぴりと伝わってきて、とても声をかけられそうにありません。

 襖に描かれていたのは奥深い岩山でした。頂には雪が積もり、雲がわきだして山肌を降りてくる。部屋の中までそのひんやりとした空気が伝わってくるようで、寒気を覚えたほどです。それと同時に何かとても、なんとも言えない居心地の悪さを感じていました。誰かにじっと観察されているような、変に落ち着かない気分でした。

 私は住職を見ました。住職は私と目を合わせ、うなづくと立ち上がって部屋の外へと出ていきます。私もそれについていきました。
「あの絵師が誰だか知っていますか。」住職が尋ねます。
「私の息子です。晴徳という名前です。しかし以前とあまりに様子が違うので、本当に私の息子なのか自分でも信じられない気分です。」
「晴徳さんですか。はて、どこかで聞いたような。どんな絵師だったのですかな。」
そこで私は晴徳についての話をしました。幼いころから絵がうまく、修業をさせたところ瞬く間に上達し、一世を風靡するほどの絵師になったこと。しかし酒で身を持ち崩して失明し、行方不明となっていたところを先の日照観の日に再会したこと。しかし再び息子を見失い、今日まで捜し歩いていたことなどを順に話しました。
「息子の目が見えるようになって、こんなにうれしいことはありません。」私はそう話を締めくくりました。

 住職は私の話が終わってもしばらく黙っていました。そして言葉を選ぶように話しはじめました。
「先の日照観の次の日朝早くのこと、小僧の声で目を覚ましました。 誰か来てくれ、おかしな者が寺に上がり込んでいる、とね。あわてて起きだしてみると、あの部屋で、何者かが襖にむかって何かを描いていたのです。まだ夜が明けきっていない薄暗がりの中、ものの形もよく見えない時刻にです。
すぐに声を張り上げようとしたのですが、どうしたのでしょう、なにかちょっと憚れる気がしました。灯りを掲げてみると、ぼろぼろの服の、嫌な臭いのただよってくるような男です。しかし小僧達がいくら騒いでも眼中にない程の真剣さで襖に向かっていました。まるで武士が白刃を抜いて切り合いが始まる前の、そんな恐ろしいほどの張りつめた様子です。描いているその手元を灯りで照らしてみて、驚きました。真に迫った山の絵で、清涼な空気があたりに流れ出し、風の音まで聞こえてくるように思いました。ぞくぞくと寒気を覚え、しばらくは絵から目を離すことができませんでした。
とてつもない絵だ、と思いました。絵を描いているこの男はただものではない。わたしは小僧に言いつけました。この方の邪魔をせず、不自由がないようお世話をするように、と。小僧たちはあっけにとられておりましたが。 
 風呂を沸かし身なりを整えてもらい、食事をしていただきました。そこで小僧たちはあることに気が付いたのです。 」
住職は話を区切り、立ち上がりました。
「ちょっといらしてください。それをお見せしましょう。 」

 住職は晴徳が絵を描いているそばまでいきました。懐から紙を取り、2-3枚重ね、その紙を晴徳の顔と、描いている襖の絵との間にそっと差し出しました。視線をさえぎられ、描くにはとても邪魔なはずです。ところが、晴徳は何事もなかったかのように絵を描き続けています。目は開いています。しかし、差し込まれた紙は見えていないのです。紙を透して襖の絵を見ているとしかおもえませんでした。 

 私は驚きました。部屋の外に住職を連れ出して聞きました。
「いったいこれはどういうことなのですか。 」
「それがよくわからないのです。絵のほうは実に細かい筆遣いで克明に描かれています。見えていなければとてもできることではありません。しかしその一方で、その眼は見えていないのです。食事をさしあげてもどこに箸があり、椀があるのかがわかりません。御不浄に連れて行ってもそのたびに壁にぶつかり柱にぶつかりして、寺の造りも全く見えないのです。しかし描いている絵は見える。それにあの筆と絵具。実を言えばあれらは私どもが用意したものではありません。いつの間にか必要なものがあらわれて、それを使っておいでです。何か特別な術なり力が与えられているのに違いがないのです。」
「そう言えば、私が晴徳と再会した日照観の日にも、何か見えると言っておりました。たしか、童子様が見えると。」
「童子様、ですか」
「和尚には何か見えますか」
「いや何も」
「もしかしたらあの部屋にいるのかもしれません。我々には見えていないだけで。」
「まさか・・・」

 それから私のその僧坊通いが始まりました。 
晴徳はひたすら絵を描いていました。昼も夜もありません。明るいところで絵を描いていることもありますが、夜の暗闇の中でも描きつづけています。描き疲れると寝て、腹が減れば食べて、それから筆をとって描く。寝る、食べる、また筆をとる。ただそれだけの繰り返しを黙々と続けています。修行僧の厳しい勤行に向き合っているようで、とても声をかけられたものではありませんでした。

 ある時 私は食事中に思い切って、晴徳、と息子の名前を呼んでみました。晴徳、私だ、おまえの父だ。私がわかるか。晴徳は動かしていた箸を止め、顔が私の方角にわずかに動いたように見えました。しかしそれはほんの一瞬のことで、息子は何事もなかったように食事を続けました。私の声には気づいたのか気が付かなかったのか。きっと息子は絵のことに気をとられていたのだと思います。晴徳の心は、別の場所にあったのでしょう。私は目の前にいる息子が、実際には自分の手に届かないどこか遠くにいるのだと思いました。私の声も、息子を大切に思う気持ちも、この子に届くことは決してない。私は深い失望感にとらわれました。しかしすぐに私は思い直しました。ここには息子の描いている絵があります。これはとてつもない絵になるでしょう。息子がその絵を完成させるのを、私はどうしても見とどけなければなりません。
  
 住職は寺に物見遊山のよそ者が入るのを嫌い、噂を聞きつけて集まった町の人達に絵を見せようとはしませんでした。しかし広がっていく噂はどうすることもできません。ご友人であるお坊様たちがやってきます。絵を見せないわけにはいかないので案内します。そのお坊様が帰ってしばらくすると、話を聞いた人たちが連れだってやってきます。さらにその話を聞いた人たちが来ると言う按配で、四天王寺の偉いお坊様はじめ、町の有力な商人やどこかのお忍びのお武家さままでもやってきました。もうこうなるとどうすることもできません。住職はあきらめて、すぐに帰ってもらう約束で毎日一定の時間絵を公開することにしました。寺の前は朝夕問わず黒山の人だかりになりました。長い順番待ちの列ができ、絵を見るためには丸一日、もしくはそれ以上の時間を待たなければなりません。待たされて騒いでいた者たちは寺の中に入るとその静粛な雰囲気にのまれて静かになり、絵の前に通されるとそのあまりの見事さに唖然としました。そして見物がいることなどまったく意にしない絵師のただならぬ様子に度肝を抜かれ、帰りにはみな神妙な顔つきになっていました。絵を見ていたのはほんの短い時間であったはずなのに、とてつもなく長い時間が経ったようだと口々に言い合いました。

 晴徳が絵を描いている部屋はいつも閉めきられていました。白く飾り気のなかった三面の襖は次第に絵で埋め尽くされていき、外界とは無縁の独自の世界になっていました。外に面した障子から昼間の明かりが入ってきていましたが、それさえも決して開けられることはありませんでした。晴徳が一人絵に熱中している間に、外では季節が廻っていきました。春が過ぎて長雨となり、そして夏。暑さに耐えた後は木の葉が舞い落ち、冬には雪がちらついていました。

 ある時私は晴徳がお寺のような大きな建物を描きこんでいるのに気が付きました。絵の中ではそこは大きな山のふもとの林や野原が広がる山合いの地で、そこに五重塔、講堂をはじめとした伽藍が立ち並び、その周りを白壁が取り囲み、堂々たる門もあります。門から野原の中を参道が伸びていましたが、周りには家屋がいくつか並んでいるばかりです。まばらに見える梅の木にはちらほらと花が咲き始めていました。

 晴徳が事細かに描きこんていくにつれて、私はそれをどこかで見たような気がしてきました。さてそれがどこであったのかよく思い出せません。住職が顔を出ししばらく首をかしげていましたが、これはここ大阪四天王寺ではないだろうか、と言い出しました。そう言いわれれば、そのように見えてきます。門や、五重塔、講堂、それらの建物の配置はもちろん細かいところの様子までも、四天王寺を模したものであるようでした。ちょうど私たちがいるこの僧坊もそれらしく描きこまれています。しかしそれらは山の林の中に描きこまれていて、実際にあるような大阪の街中ではないのです。

 晴徳が絵を描きはじめてから1年が経とうとしていた頃であったと思います。私が絵の部屋に入ってみるとそれまで絵に張り付くように熱心に筆をとっていた晴徳が絵から離れ、じっと正座したまま絵を眺めています。筆は絵の具皿などの脇に置かれ、絵を描きだす様子はありませんでした。晴徳の後ろには住職が心を奪われたように絵に見入っていて、私が入って来たことにも気が付きません。寺の小僧たちもぽかんと絵に見とれています。私は晴徳のやや後ろに座り、絵を見ました。


絵は完成していました。
奥深い山々に朝の光がさしこみ、頂の残雪が輝いています。谷間から湧きあがる雲が風に乗り、 深い森のかなたや、はたまた山の頂へと舞い上がり、まるで生きている竜のように動めいています。山から流れ落ちた水は岩の間を急流となり滝となって、激しくしぶきをあげています。
眼をうつしていくと、川は穏やかになって湖へと至っています。湖畔には田舎びた村が見えます。あたりは生え初めたばかりの緑のやわらかい春で、梅や桃の花が咲き、馬に荷車を引かせている人や、牛を使って畑を耕している人がいます。また家の軒先に集まって談笑している村人たちがいます。鳥のさえずりや道ばたで遊んでいる子供たちの歓声が聞こえてくる、そんなのどかな春の風景でした。
寺の周りで季節が巡っていったように、晴徳の絵の中でも季節は移ろっていきます。湖から先に進んでいくと風が起こり雲は渦巻いて、夏前の雨の季節となりました。たたきつける雨のしぶきがあたりを覆い、川は荒れ狂った濁流となって轟音をたてています。縫うようにのびている小道には藁合羽をつけた旅人が身をかがめて先を急ぎ、周りの木々は嵐の中で波打ってうねっておりました。
いつしか雨は止み、川は次第に開けた土地へと入っていきます。川幅はひろがって大河となり、帆船もうかんでいます。夏の光でまぶしく光る田畑の拡がる農村地帯が、大きな町へと変わっていきました。次第に人の数が増え、たくさんの荷車が行き交ってはいますが、道ばたでひとやすみしている人も多くみかけます。多くの家が立ち並び、商店に品物があふれ、人々が集まってきておりますが、何せこの暑さです。仲間同士でやりとりして売り買いをしているのですが、どこかけだるそうです。木のうっそうと茂る町中の神社仏閣に集まってはすずみながら見物行楽にふける、そんな喧騒までも聞こえてきそうな町でした。夏の光に輝く港の上を、大きな入道雲が立ち上がっています。

 海の先には陸地があり、町があり、人々の生活がありました。その先にはまた海。いくつもの帆船がゆれる穏やかな海もあれば、雲と稲妻が渦巻く嵐の海もありました。そしてまた人々の住む土地があり、町があります。それは大きな人間の世界をあらわしているものでした。人が生まれ育ち、働いて連れ合いを持ち、子孫をなして死んでいく、そうした人間の生きている世界が描かれているのでした。ですから絵を見ていくことは人の一生を経験していくのと同じことで、いくら長い時間をかけても見切ることが出来ない、そんな絵でございました。
 秋が過ぎて凍てつくような冬が大きな岩山をおおっていました。いくつもの岩山を超えた向こう、ようやく春のきざしがみえてきた山の裾野の小高い丘の上に、晴徳が最後に描いた寺がありました。この大阪の四天王寺を模して、精緻に描かれていました。その丘を下った先には海が描かれています。


 一同が魂を吸い取られたかのように絵に見入っていた時、にわかに部屋の中の明るさが増してきました。気がつけば外に面した障子に太陽の光が当たっています。夕刻に西に落ちる太陽からの光が直接障子紙にあたっている、そんな光です。おや、と私は思いました。ここは大阪の町中です。僧坊の周りには建物がひしめいていて陰になってしまうので、西日が直接障子にあたることはありません。こんな光はこれまで一度も見たことがありませんでした。

 住職は私と顔を合わせるとたちあがり、部屋を横切って陽の当たる障子の前で仁王立ちし、両手で障子をあけ放ちました。一瞬のうちに襖絵の描かれた部屋のすみずみにまで太陽からの直接の光が届きました。私の眼はまぶしい光に射られて何も見えなくなってしまい、そのまま視力を失うのではないかと思ったほどです。目を細め、手を光にかざしながらようやくの思いで住職のそばに行きました。しだいにまぶしさにも慣れて、だんだんものの形が見えるようになっていきました。縁側の先の小庭には大きな梅の老木があって、左右に大きくのばした枝の先々にまで、たくさんの白い花をみごとにつけていました。あたりには梅の香りが漂い、花弁がはらはらと散ってきます。梅の木の先は下にくだる斜面になっていて、打ち捨てられた古い墓石などがあり、さらにその先の坂を下ったはるか先には海が大きく広がっていました。その海の上には赤みがかった大きな太陽があって、水平の彼方へ沈んでいくところでした。圧倒的な太陽の光があたりを包んでいて、ただ動くものと言えば遠くの海に夕陽の光が反射してきらめいているばかりでした。
はじめて見る風景でした。それでいて昔どこかで見たことがあるような、懐かしい風景のような気がしました。私はたと思いつきました。これは難波の海だ、難波の海が一望のもとに見えているのだ。・・・

「これはいったい、どうなっているんだ。」
「ごらんなさい、あれは淡路絵島、むこうに見えるのは須磨明石」
「おおなるほど、ではあちらが紀の浦ということか。」
私たちは呆然としていました。一体どうしてこのようなことになってしまったのか、わけがわかりませんでした。

 突然後ろから声をかけられました。 
「いかがですか。」 
おどろいて振り向くと、そこにいたのは晴徳でした。晴徳は落ち着いた様子でまっすぐに私を見ています。思わず私は声をあげました
「晴徳、おまえの目、見えているのか。」
その目には自信が満ち溢れ、口元には不敵な笑みが浮かんでいます。一年前の、ぼろをまとった晴徳とはまるで別人です。
「これが私の見た世界なのです。ご案内しましょう。履物の用意をしてください。」
晴徳の背後の部屋の中では襖に陽が当たり、晴徳の絵が光り輝いて見えていました。

 しっかりとした足取りで、晴徳は小庭に降り、梅の木の下に立ち、ふり仰いで手を伸ばし、花が見事に付いた小枝を折り取りました。そしてその小枝を手にしたまま、庭から続く小道を歩いていきます。まるでこのあたりの道を、昔からよく知っていて通いなれたかのような足どりでした。私はあわてて後を追いました。住職はしがみついている小僧達と寺に残りました。私のほうは足元がおぼつかなくて、木の根にぶつかったり石につまずいたり転びそうになりながら、晴徳の後を危なっかしくついていきました。

 少し先に寺の門があらわれました。よく見慣れている四天王寺の西門でした。しかしいつもなら人々が集いごった返している門のまわりには、田舎じみた服をきた人が少しばかり行き交っているだけです。建物が立て込んでいた門のまわりも数えるほどの人家があるだけで、あとはただ野原が広がっていました。門から西の方角は下り坂になっていて、はるか眼下には海がみえました。参道を振り返れば四天王寺の大きな金堂の建物と五重の塔が見えました。
 道のわきに、小さな茶屋が一軒建っています。たぶん「お酒」と書いてあるのぼりが力なく垂れています。通りゆく人が休めるように長椅子が出してありました。

「ここにはいりましょう」
そう言うなり晴徳は店の中に入っていきます。そして入り口近くの卓にさっと座りました。他に客はいません。こぎれいな着物をきた女将が出てきて、いらっしゃいませと深々とあいさつしました。この女将にも、どこかで会っていたような気がします。気が利いてよく働く美しい女将でした。梅の枝を瓶にさして卓上に飾り、注文された料理をまたたくまに卓の上にならべていきました。
そんなふうに息子と二人で差向いに座った記憶はありませんでした。酒を酌み交わし、皿の上の料理をつつきながら、私は晴徳に話しかけました。目が見えるようになって父親の私も大変うれしいということ、晴徳の絵は大阪中で評判になっていること、母親は追い出してしまったこと、でもお店の方は大丈夫なのだ、などと話して聞かせました。おまえは幸せではなかった。子供のころからずっとつらい思いをさせてきた。でもこれからは幸せになることができる。これからしばらくは親子で暮した方がいい。少し体を休めれば、おまえにもまた新たな人生を切り開く力が出てくるだろう。・・・

 飾った梅の枝から花弁が一枚、また一枚と散って料理の器に落ちかかります。わたしは花弁とともに食べ物を口に運びました。梅のよい香りがして食がすすみます。気がつけば話しているのは私ばかりでした。晴徳は時々うなずくだけで、酒をあおってばかりいます。次々に銚子が空になり、たびたび女将をよびつけました。いつの間にか日も暮れ、あたりに夕闇が落ちてきました。暗くてほとんど手元が見えなくなってきています。 
私は女将に言いました。
「明かりを持ってきてくれ」 
「はい何でございましょう」 
「あかりだよ。ろうそくでも行燈でも、なんでもいい。」
「いったい何のことでございますか。」
「わからないのか、こんなに暗くては何も見えないでしょう、明るくする物なら何でもいい。」
女将は困った顔をして黙ってしまいました。突然晴徳が笑い出しました。すっかり酔いが回っています。
「おとう、ここに明かりなんかないよ。」
「ないわけがないだろう。ろうそくでも油でも、ふつう何かあるだろう。」
「無理ですね。」
「なぜだ 」
「私が明かりを描いていないから。」
晴徳は吹きだすように笑い出しました。笑い声は次第に大きくなり、まるで痙攣しているかのように腹をよじって笑っています。私はあぜんとしました。
晴徳は指で涙を拭きながら女将に言いつけました。
「おい、紙があるだろう。それに筆と硯だ。ここに持ってきてくれ。朱も忘れないでくれ。」
女将は奥から紙と硯を持ってきました。卓の隅を片付けて紙を広げ薄暗がりの中でろうそくを描きました。そして朱でろうそくに炎を描きました。するとそこに明かりのともったろうそくが立ちあがり、あたりは明るくなりました。

「どう、わかったでしょう。ここに見えるものは、すべて私が作りだしたものです。わたしたちは今、あの寺の、襖の上に描いた絵の中にいるのですよ、お父上。どうです、驚いたでしょう?」
そういって再び馬鹿にしたように笑い出しました。私は愕然としました。絵の中にいる、と言った息子が話した内容よりも、息子の態度がすっかり変わっていたのに驚いたからです。目が異様な光を帯び、しきりに手酌してあおるように酒を飲んでいます。それは昔、絵の師匠の元を飛び出した後、独立して絵を書き散らし、それが一世を風靡していたころの晴徳を思い出させる態度でした。
「ここでは私は物が見える。実によく見えるんですよ。そしてやろうと思えばなんでもやれる。できない事はないもない。なぜなら私がこの世界のぬしであり、神だからだ。誰も私の意向に逆らうことはできない。」
「お前、何を言っている、一年前まではおまえは目が見えず、乞食同然で、人に情けにすがって生きていただろう。その時のことを忘れたのか。」
「それは昔のことだ。ばかばかしい。いまやこの晴徳は力を持ったのだ。この世界の者たちを生かすも殺すも、私次第だ。私の前に人々は平伏し、尊敬の念でもって私をむかえてくれる。あなたとかその辺の、くだらない者たちとはわけが違うのだ。・・・」
「この世界がおまえの作り物だというのなら、本当の現世ではやっぱりお前はめくらのままだろう。なぜおまえの目が見えなくなったのか思い出してみろ、わすれたとは言わせんぞ。なあ晴徳、帰ろう、我が家に。暖かい我が家で、しばらく休むのだ。そうすればまた以前のような生きる力が戻ってくるだろう。」
「馬鹿なことを言っているのは父上の方でしょう。おーい、暗いぞ、もっと紙を持ってこい。いくらでもあかりを描いてやる。なんなら太陽を描いてやろう。昼間のように明るくなるぞ。」
そう言いつけると女将が持ってきた紙に次々にろうそくや行燈などを描いていきます。そして次々に朱で明かりをえがき、茶屋の中は明るさ増していきました。その合間にも、酒を飲むのは止めません。
 
 晴徳の絵は次第に雑になり、手元が狂いだしました。燭台や行燈の形はゆがんでいびつになり、炎を描こうとした筆先から朱がぼたぼたと紙の上に垂れ落ちました。 

 初めは単に朱が紙の上に散っただけに見えました。その朱の上にゆらりと小さな炎が立ち上がりました。朱色のしま模様のある美しい炎でした。朱が落ちていた紙は次第に黒ずんでいき、炎は大きくなっていきます。晴徳は驚いた顔をしています。筆を炎になすりつけて火を消そうとしました。しかし、筆にも炎が取りつき、燃え始めました。晴徳は筆を放り出しました。
 私はあわてました。酒を炎の上にかけて消そうとしましが、いっこうに火は消えません。手元にある食器で炎を覆いました。一瞬火は消えたように見えましたが、食器の底が一点黒く変色し、そこを突き抜けて再び炎が立ち上がってきます。卓にも炎が付きました。 晴徳はあきらめたように時折杯に口をつけてながめているだけです。
「おい、水を持って来い、水だ、火がついたぞ。」私が言う間もなく店の者が水を桶に入れて持ってきました。私は卓の上で燃え上がる炎に、大量の水をざっとかけました。しかし炎は少し揺れただけで全く消える気配はありません。卓全体が炎で包まれ、真っ黒に変色していきました。天井や床にも火が飛び散って炎となりました。 
「晴徳、おまえ、なんとかしろ、おまえは何でもできるのだろう。早く火を消さないか。」
「・・・無駄だ。」
「ここはおまえが描いた絵の世界なのだろう。どうやってこの火を消したらいいのだ?」
「わからない。」
「何を言っている、おまえにしかわからないことなのに。」
「わからない。どうしようもない。」
そう言って息子は薄ら笑いを浮かべています。これではらちがあきません。私は女将と一緒に足元の定まらない息子を支えて、引きずるように茶屋の外に連れ出しました。その間にも火事は勢いを増してどんどん広がっていきます。この世界にはこの炎を消す手段がもはやないのかもしれない。私はそこではたと思いつきました。寺の襖の絵はどうなっているのだろう、絵にも火がついているのなら、それをなんとかすればよいのではないか。そこで息子を道ばたに座らせて、元の寺に向かって走り出しました。

 すでに茶屋から大きな炎が立ち上り、火の粉が飛び散って周りの木々へと燃え広がっています。あたりは明るくなりそのために足元がよく見えました。先ほど来た道をふり仰ぐと、闇の中に僧坊の部屋が炎のためか明るく光っているのが見えました。私は急いで坂道を駆け昇り、炎の見える部屋の中に上がりました。

 襖絵から炎が上がり部屋を明るく照らしていました。絵の中ではすでに茶屋は焼け落ち、その周りの野原や森に燃え広がっています。しかしその炎は作り物のようで、本物の炎には見えませんでした。朱や赤を使って筆で描かれた炎がゆっくり揺れているのです。炎に手をかざしましたが熱さを感じません。さらにさわってもみましたが、ただ襖の紙の感じがあるばかりで、指は何ともありませんでした。それでいて炎は絵の中で勢いよく燃え広がっているのでした。 
 住職や小僧たちも絵のまえで右往左往しています。桶に水を持ってきた者がいたので、水をすくって絵にかけて見ました。 水はただ絵の表面を流れ落ちただけで、炎はなにごともなかったように燃えています。何度水をかけてみても同じことでした。燃え尽きて黒くなった部分は水とともに煤がすじになって流れ落ちましたが、その下地の襖は白く、燃えてしまった筈なのに襖紙に穴は開いていませんでした。炎は紙の表面の絵だけを焼いていたのでした。

 これでは何ともなりません。このままでは絵の中で私の息子は焼け死んでしまいます。助け出してこの寺のなかへ連れ戻さなくては。私は寺を飛び出しました。寺の外はきな臭いにおいと煙が漂い、炎はすでに巨大な火柱になっていて、森も山も、空でさえもが燃えています。世界の終わりの光景を見ているようでした。叫び声をあげ、炎から逃げ出そうとする人々が行き交う中、私は息子を探し回りました。ようやく道にしゃがみ込んで呆然としている息子を見つけました。 
「戻ろう、寺に戻ろう、寺のなかならたぶん安全だ、おまえが描いた絵も燃えているが、襖は燃えていないんだ。炎は絵の具で描かれているだけだ。たぶんおまえなら消すことが出来る。だから戻ろう、寺のなかへ。」
「いやだ、ここは俺の世界、この世界の中でなら俺の目は見える。いくらでも絵が描けるんだ。寺に帰れば元のめくらになってしまう。」
「何を言っているんだ、絵なんか何度でも描きなおせばいい。またやり直したらいいじゃないか。」
「この火は俺が描いたものじゃない。どうすることもできないんだ。だから帰らない。」 
なだめすかしてみましたが、息子はびくとも動きません。火は林から森へ、燃えるはずのない石や地面にまで広がって、次第に足元へと近づいてきています。
住職や小僧たちが走ってやってきました。 
「ここはもう危ない、すぐに寺に戻りましょう、寺のなかなら大丈夫かもしれません。」
晴徳を数人がかりで立たせてみようとしましたが、晴徳は踏ん張って一歩たりとも動かすことはできませんでした。
「だめだ、帰り道にもう火が回るぞ、あんただけでも戻るんだ。」
私は小僧達に引きずられるようにして、泣く泣く寺に戻る道を歩き出しました。足元に火が迫り恐ろしい熱さです。振り返れば白い煙の漂う中、炎に明々と照らしだされた息子の顔が見えました。私は力いっぱい息子の名を呼びましたが、息子は動こうとしませんでした。

 私達は寺に戻りました。一同は襖絵のある部屋に行きました。襖絵全体は炎で埋め尽くされておりましたが、炎は絵の中だけでうごめいていて、襖のさんはもちろん鴨居や柱も、焼けた様子はありませんでした。 
部屋のなかはもやが充満し、炎で明るく照らされていました。わたしはそのもやの奥に誰か見知らぬ人が座っているのに気が付きました。子供のように小柄で、髪を団子のようにいくつもの固まりに結い、肩に天衣を掛け腰布を巻いただけで、あらわな肌はみたこともないほどの赤い色です。私はとっさに童子様ではないか、と思いました。盲目のはずの晴徳が見えたと言った童子様です。閉じていた童子様の眼が見開かれると恐ろしい憤怒の形相になり、赤い顔がさらに赤くなりました。手にしていた棒を立てて立ち上がり、私たちも目の前を、私たちに一瞥することもなく歩いていきます。そしてそのまま炎の燃えさかる寺の外へと出ていきました。 私たちは茫然と見送っていましたが、迫りくる炎をなんとがくい止めようと、障子を閉めました。

 夜が明けると、息子の絵が描かれてあった襖はすべて真っ黒な煤で覆われていました。触れると簡単に煤が指に付き、元の襖の白い紙があらわれます。小僧たちが集まってきて掃除を始めました。硬く絞った雑巾を襖に当ててさっと拭くと、煤がとれて白い襖の地が見えます。どんどん煤は拭きとられ、いくつも用意した雑巾はまたたくまに真っ黒になりました。ほんのひと時で掃除は終わってしまい、あとは白い襖があるだけです。 息子の描いたあのすばらしい絵は、跡形もなく消えてしまいました。

 寺の外はもとの大阪の街になっていました。にぎやかな、いつもの見慣れた大坂の町です。 私はふらつきながらも、その町中を歩いて私の店へと帰りました。その後も私は息子を探し続けましたが、息子の消息も弱法師の名前も、もはや聞くことはありませんでした。それきり行方知れずになってしまったのでございます。今では私は思います。息子はあの絵の中で火にまかれて死んだのだろうか。それともあの絵のふちから外側へと逃げて、山の奥にでも行ったのではなかろうか。そしてどこかであの絵の続きを描いているのではないのだろうか。そんなふうに思うのでございます。 

 おやあなた、まだ聞いていらしたのですか。つまらない話でしたのに、本当にあなたは根気があって暇なお方だ。私はついつい自分の話に夢中になってしまいました。聞いている人がいることなどすっかり忘れておりましたよ。ありがたいことです。なんとも妙な気分ですな。 

   (おしまい)

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この記事へのコメント

ユーーーカリ
2017年04月22日 10:30
洗い終わった洗濯物を忘れたまま読んでしまいました。大変面白かったです!晴徳が身を滅ぼしていく様子は、親子の道はどこで間違ったのだろうという悲しみがありました。これから洗濯物をほします…
管理人
2017年04月29日 17:38
コメントありがとうございました。自分でも面白がりなりながら書いていました。暗い結末は私の趣味ですので、ご容赦ください。
ユーーーカリ
2017年04月30日 12:50
今後も楽しみに読ませていただきますm(_ _)m!

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