立原道造 萱草(わすれぐさ)に寄す  その3

    またある夜に      立原道造

  私らはたたずむであらう 霧のなかに
  霧は山の沖にながれ 月のおもを
  投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう
  灰の帷のやうに

  私らは別れるであらう 知ることもなしに
  知られることもなく あの出會った
  雲のやうに 私らは忘れるであらう
  水脈のやうに

  その道は銀の道 私らは行くであらう
  ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
  夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

  私らは二たび逢わぬであらう 昔おもふ
  月のかがみはあのよるをうつしてゐると
  私らはただそれをくりかへすであらう


 その人の名前はSさんと言った。70歳は過ぎてはいたが姿勢がよく、上品な感じの女性だった。もう十数年以上前の、私がまだ総合病院の内科に勤めていた頃のことだ。名前を呼ばれて初めて私の診察室に入って来た彼女は不安げに私を見て立ち止まってしまった。椅子をすすめるとようやくおずおずと座った。どうなさいましたかという問いかけに彼女は眉間にしわを寄せて、このところ咳が止まらす、眠れない、食欲がなくて痩せてくるし、すぐ息切れがするようになったなど、言いはじめたら止まらなくなった。
 とどまることのない訴えが続く中、私はSさんのカルテをめくってみた。病院の外来カルテは全科共通になっていたから、他科でも記録を見ることが出来る。その中の心療内科の分がとても厚いのに気が付いた。そこには彼女のいろいろな訴えが、ほとんど脈絡もなく延々と書いてあった。どうやら独身で一人暮らしをしているらしい。ああなるほど、これは老人の不定愁訴というやつか。若いころは元気で頑張れたことが加齢とともにできなくなっていくと、とたんに孤独感をおぼえ不安定になる人は多いものだ。この人もそれで訴えが多いのかな、と私は推測した。
いつまでも終わらない話を聞き流していても仕方がないので、しゃべり続ける彼女の息継ぎの瞬間を狙って私は質問を挟み込んでいった。とりあえずは問題になりそうな呼吸の症状について話を整理した。昔結核にかかり、長い間療養していたこと。ストマイを打ち、さらに大きな手術をして何とか命はとりとめたこと。2年ほど前より空咳が始まり、最近息切れが出だしたこと。私は肺結核の再発だったらまずいなと思いつつ診察をはじめた。

 Sさんは素直な人だった。ぴたりと話をやめて診察に協力してくれた。最近の女性は胸部の診察に非協力的で、タートルネックなのに服を持ち上げるしぐさすらしない人もいて、聴診器を服の上からあてるわけにもいかず困ってしまうこともあるのだが、その点Sさんは古風な方だった。聴診を始めようとすると、素直に服をたくし上げ下着をはずして肌をあらわにした。聴診器を当てようとして私はちょっと驚いた。お年寄りにしては白くてきめ細かい肌で、小ぶりながらも美しい形をした乳房があったからだ。しかし聴診を始めるとすぐおかしなことに気づいて、聴診器から聞こえてくる音に集中した。心音は問題がなかったが、呼吸音の方には雑音が混じっている。肺の音をよく聞くために、こんどは後ろを向いてもらう。華奢な背中の右側に、昔の結核の手術跡が斜めに付いていた。聴診器を当て大きく息を吸ってもらうと、パリパリパリパリというマジックテープをはがすときによく似た音が聞こえた。聴診器の当てる場所を変えてみてもあちこちからその音を聞き取ることが出来た。正常ではありえない、いやな音だった。

 私は胸部レントゲン写真のオーダーを出し、すぐに現像してもらった。それをSさんと一緒に見た。若い時の胸郭形成術のため、右肺の上半分がひしゃげたようにつぶれている。それとは別に、肺の下半分に霞がかかった部分があって、下肺の容積が縮んでいるように見えた。これは肺結核の再発とは異なる所見だった。いやな予感がした。進行する咳と息切れ、聴診、このレントゲン写真、併せて考えればある病気の名前が浮かんでくる。しかし似たように見える疾患なら他にいくらだってあのだから、これで悪い病気だと決まったわけじゃない。さらなる検査として痰の検査、肺の輪切りである胸部CT写真、呼吸機能、特殊な採血などのオーダーを次々に出した。私の表情を見て不安が募るSさんに、まずは結核ではなさそうですよ、人にうつすものではないと思います、とかなんとか言ってとりあえず安心させるような話をしたと思う。

 日数が経ち検査の結果がそろった頃、予約の時間通りにSさんはやって来た。彼女は今度も一人だった。その後も彼女が誰かと一緒に居るところを見たことがない。この人には病気の話を一緒に聞いてくれるような親しい人はいないのかと思った。彼女の青春は戦争の時代と重なっていたから、結婚相手世代の男性の人数が少なくて相手が見つからなかったのだろうと、ふと思った。
CT写真を見ながら、私はしばらく考えた。手術した結核の跡はきれいに治癒しているようだった。問題は下肺野の、 横隔膜に近づくほど強くなる病変だった。細かく見ていくと、病変領域の肺のなかにも正常な部分があり、その隣にはスリガラス状に雲った所がある。さらにその隣に蜂巣肺という肺組織が破壊された部分があった。それらがモザイク状に混在して病変を形成していた。これはある病気の典型的な画像だった。他の検査を確認していくと、痰の検査では結核菌はじめ有意な菌はなく、癌細胞も出ていなかった。採血結果は肺の線維化を示す特殊なマーカーだけが高値で、他にはさしたる異常もなかった。私はSさんにこれまでの生活歴や環境要因その他の質問をしつこくしたのだが、原因となるものを何一つ聞き出すことはできなかった。昔のレントゲン写真を取り寄せていたので、現在のものと比較もした。時間経過とともに病気が進行してきたことは明らかだった。間質性肺炎、その中でも原因不明で予後の特に悪いもの。特発性間質性肺炎の疑いがきわめて強い。その悪夢のような病名を私はカルテに書き込んだ。

「私の病気は何なのでしょう。」しばらくの沈黙の後、Sさんが不安げに尋ねた。
「ああ、これはたぶん間質性肺炎と言う病気ですね。」私はにこやかに答えた。そして間質性の意味や、次第に肺が硬くなっていくことや、その原因が今のところはっきりしないことを告げた。たいていの患者さんは医者の話の半分も覚えていないのが普通だ。彼女が私の話をどれだけ理解できていたのか、私にはわからない。
「癌ではなかったのね。」
「ええ、癌ではありません。」
「ああよかった。」
彼女は安どの声を上げ、ほっとした表情をみせた。でも私は言えなかった。ええ、たしかに癌ではありませんが、癌と同じくらい、場合によってはもっと悪いともいえるのです、などということは。

 この病気は進行するにつれ、CTで正常に見えていた部分も、いずれスリガラス状に雲が入る。雲が入った肺はいずれ破壊されて、がちがちの蜂巣肺へと置き換わっていく。病変は正常に呼吸している肺を少しずつ破壊しながら、肺の底部から上方に向かって容赦なく這い上がっていく。それはたとえばやわらかで上質なスポンジが、硬いヘチマのたわしに変わっていくのに似ている。つぶれて硬くなった肺は広がることが出来ないので、いくら息を吸おうとしても胸に空気は入らない。患者さんはゆっくりと、ごくゆっくりと窒息していく。すぐに死ぬわけではない、長い間苦しまなければならない病気。根本的な治療の手立ては、当時は皆無に等しかった。現在では一部原因究明もされ、治療もある程度できるようになってきているようなのだが。
 むろんそんなことをSさんに言えるわけがなかった。もう長くは生きられないことを話してなんになろう。不安が強く、身寄りのほとんどない一人暮らしのお年寄りの心にとどめを刺すような話は出来るわけがなかった。病気の経過で、いずれは悟ってもらう日が来るだろう。そんなふうに思った。

 それから、Sさんと定期的に外来で話をする日々が始まった。治療は対症療法で、咳止め、去痰薬などの処方や、やせないようによく食べてね、風邪には気をつけてね、などとアドバイスするくらいだった。

 ある日の診察の時、彼女が「立原道造記念館」と印刷された薄い冊子を手にしているのに私は気が付いた。
「あれ、それは立原道造ではないですか。」
「先生、立原道造を御存知なの?」
Sさんは目を輝かせて私の顔を見た。声のトーンが高くなった。
「ええ、僕も読んでいましたよ。夢はいつも帰っていった。さびしい村に。・・・えっと、その続きは何でしたっけね。」
「あら、先生は立原道造の詩がお好きなのね。」
すっかり喜んでしまったSさんは、私を立原道造の大ファンであると決めつけてしまった。私はしいて否定はせずに彼女の話に合わせていた。
「これは届いたばかりの会報なのよ。」
Sさんはその小冊子を私に渡して話を続けた。そこには昭和初期に生きた立原道造の、友人らによる思い出などが書いてあるのだという。しかし私はすでに立原道造に興味はなく、記念館というものがあることすら知らなかった。(現在は閉館) 若いころ親しんだ立原道造詩集も、その後何十年も手に取ったことはなかったのだ。だから私の手の中にあったその小冊子は、平成時代の病院のあわただしい診察室の中ではいかにも場違いに見えた。

 Sさんは立原道造の熱心な読者なのだという。すでに読むだけでは飽き足らなくなっていて、記念館のイベントには必ず出席するし、命日はもちろん気が向けばお花を持って谷中の立原道造のお墓に行き、手を合わせてくるのだという。聞いていてこちらがあきれてしまうほどの熱の入れようだった。若ければそんなふうに熱中することもできるかもしれないが、それに心酔したまま年を取ることなど普通はできない。実際に苦労して働いている人にとっては、立原の詩は青二才の甘っちょろい感傷にしか見えないのではないか。Sさんの実際の人生にしても、詩の世界とは全く違ったものであったろうに。70歳を過ぎてまで、会ったこともないような人のお墓に頻繁に花束をかかえて出かけるなんて、私には信じられなかったが、そんなことは言わないことにした。彼女は辞退する私に、その小冊子をくれた。もう読み終わったからいらないのだという。

 Sさんの診察が終わり、私はカルテや書類の山を気にしながら、次の人、また次の人と診療に熱中していた。それらの患者さんが切れた合間を狙って、診察室のドアを少し開けてSさんが顔を出た。ドアのところまで行くとSさんは私に紙を手渡しただけでドアを閉じて帰っていった。それには手書きで詩が書きつけてあった。立原道造の「のちのおもひに」だった。私はあっけにとられながらも何十年ぶりかでその詩句に目を通した。そのとたん、診療のことでいっぱいになっていた私の頭の中は静まりかえり、病院の喧騒の中からはるか遠い青春時代の追分や軽井沢といった風景の中へと、私は連れ去られてしまっていた。
≪僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、
不意に何ものともわからないしらべとなって・・・≫            
まさにそれははるか昔、詩人がこの詩の中にひそませた仕掛けの中に、私がおちいった瞬間であった。


    のちのおもひに           立原道造

  夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
  水引草に風が立ち
  草ひばりのうたひやまない
  しづまりかへつた午さがりの林道を

  うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
  ――そして私は
  見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
  だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

  夢は そのさきには もうゆかない
  なにもかも 忘れ果てようとおもひ
  忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには

  夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
  そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
  星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう


 それからSさんが診察にやってくると、病気以外のいろいろな話をするようになった。病状や薬の話が終わると、たとえ外来がどんなに混んでいても、彼女は興味のあることなどをすこしずつ話していくのだった。それは私の趣味と重なっているところが多かったから、私もSさんの話を聞くのが楽しみになっていた。いつしか彼女の顔からいらいらした神経質そうな表情が消え、穏やかな笑顔が見られるようになっていった。

 Sさんは私と同じように、絵を見たり音楽を聴いたりするのが好きな人だった。生まれ育った家は当時珍しい洋館で、大学教授だった父親の書斎には立派な皮の背表紙の本がぎっしり並んでいた。子供のころはその書斎にいるのが好きで、本を眺めたりその背表紙を触ったり、字が読めるようになってからは窓辺の明るいところに椅子を引っ張っていき、そこに腰かけておとなしく本を読んでいた。レコードプレーヤーも備えてあって、父親はたまに気が向くと音楽を聴かせてくれたのだという。戦争がはげしくなるとSさんは疎開に出されたが、ある晩の空襲でその洋館の家は焼けてしまった。まだ読んでいない本がたくさんあっていくらでも読むことが出来たのに、暗闇の中で燃え上がって、みんな灰になってしまった、とSさんは言った。

 若いころから立原道造の詩が好きで、立原道造記念館によくいき、会合では館長の堀多恵子さんをはじめ立原を直接知る人たちの話を聞いてくるのだという。立原道造記念館の小冊子は送られてくるたびに私のところに持ってきて、私の手元に残されるようになった。あるときは雑誌四季の復刻版立原道造追悼号をくれた。これはあなたの大切にしている本なのではないですかと聞いたのだが、Sさんはいいのだという。立原道造のファンである先生は当然興味を持つはずだ、というのが彼女の言い分だった。私のほうといえば、さすがに捨てはしなかったが、さっと目を走らせただけで自分の机の中にしまい込んでしまった。

 ある時はNHKテレビのスペイン語講座の冊子を持っていた。最近スペイン語の勉強を始めたのだと言う。ヨーロッパにはあこがれていて、中でもスペインには行ってみたい。エル・グレコ、ガウディ、フラメンコ、それにあの工事中の変な形の教会。でもこれまで海外旅行をしたことがない。いつか行けないかしら。その話を聞きながら私は思った。この人は息が苦しくなっているのを自覚して、長く生きられないことをうすうす感じているだろうに、希望を失わず、70歳を過ぎた今から語学を始めようとしている。もう人生が終わるという所から、新しいことを始めようなんて、普通は誰も考えないのに。何事にも遅すぎるということはありませんよ、とSさんに教えられた気がして、私は深く動かされた。

 画家で好きなのはフェルメール。物思いにふけっている女性たちが好き。いつか見に行きたいと思っているのよ。でもまだフェルメールは1枚も見たことがない。そう言って彼女は私に「真珠の耳飾りの少女」の絵が表紙になっている小説をくれた。それは鋭敏な色彩感覚が気に入られてフェルメール家に雇われた少女の物語で、女中の仕事をこなしながら画家の助手も務め、やがては画家の絵のモデルになる話だった。

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≪「今まで何をしていたのかね、フリートや?」
「野菜を刻んでいました。スープを作ります。」
「スープに入れる順に並べてあるのかな?」
「いいえ、ちがいます」
「白いのは別にしてあるね」「それから、橙色と紫色も一緒にしていない。どうしてなんだろう」
「隣合わせにすると、色が諍いを起こします」・・・・・(トレイシー・シャヴァリエ『真珠の耳飾りの少女』木下哲夫訳 白水社から引用:地の文は省略)≫

 貰ってばかりいる私は、お返しにスペインの詩人ヒメネスの書いた「プラテーロと僕」と言う本をあげた。岩波少年文庫のその本をSさんはまだ読んだことがなかったらしい。大変喜んでくれた。こちらの本は、心を病んだ若き詩人ヒメネスが、アンダルシアの田舎町で銀色の毛並みのロバを飼う所からはじまる。

≪プラテーロはまだ小さいが、毛並みが濃くてなめらか。外がわははとてもふんわりしているので、からだ全体が綿でできていて、中に骨が入っていない、といわれそうなほど。ただ鏡のような黒い瞳だけが、二匹の黒水晶のかぶと虫みたいに固く光る。
 手綱をはなしてやる。すると草原へゆき、ばら色、空いろ、こがね色の小さな花々に、鼻づらをかすかにふれさせ、生暖かな息をそっと吹きかける…… わたしがやさしく「プラテーロ?」とよぶと、うれしそうに駆けてくる――笑いさざめくような軽い足どりで、妙なる鈴の音をひびかせながら……(J.R.ヒメーネス『プラテーロとわたし』長南実訳 岩波文庫)≫

 彼女はクラシック音楽をよく聞くという。いつもはどんな曲を聴いているのですか、という私の質問に対し、Sさんは躊躇することなく答えた。
 「メンデルスゾーンです。メンデルスゾーンが大好きです。バイオリン協奏曲、イタリア交響曲、真夏の夜の夢。でも一番好きなのは無言歌。メンデルスゾーンのピアノが好き。あそこには人生のすべてがあるのよ。」
 私は意外だった。メンデルスゾーンと言えば、ロマン主義全盛の時代に古典的なお行儀のよい曲を書いていた人。大銀行家の坊ちゃんで何不自由なく育ち、才能も名誉もきれいな奥さんもすべてを手に入れた人。その音楽は素直で明るく、他のロマン派の大家シューマン、ショパン、ブラームスなどに比べるといささか深みに欠ける音楽家。メンデルスゾーンなんて、いったいどこが面白いのだろう。そんなふうに当時は思っていた。それは単なる私の理解不足にすぎなかったことを後で知ることになるのだけれど。

 その頃私のほうで人生に大きな変化があった。病院をやめて自分の診療所を開くことにしたのだ。場所は働いていた病院の診療圏にあるので、患者さんの中には病院通いをやめて私の診療所に来てくれる人もいた。Sさんもその中の一人だった。ただ彼女の住所はかなり遠く、バスを乗り継がなければ来られない距離にあった。それでも途中休みながら、時間をかけて私の診療所に通ってきてくれるのだった。ようやっと来てくれたSさんに、私はやせないように、とか、風邪に注意するようにとかいうばかりでたいしたことはできなかった。わずかに試した肺の治療も何の効果もなく、病状が進行していくのをただ手をこまねいて見ているばかりだった。

 あるとき彼女は、短編小説を書いた、と言ってワープロで打った文章を持ってきたので、私はびっくりした。今回家の中からようやくそれを探し出した。2枚の紙に印刷されていた。

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   少年と海と私と……

春も浅いどこからか梅の香りがほのかに漂ってくるような日の昼下がり
私と少年は海辺の駅に降り立った。
海へゆく道の両側にはみやげ物屋がならんでいたが、季節がまだその時ではないので殆どの店が閉められたまゝだった。
車がスピードをあげて行き交う白い道の向こうに砂浜と海がひろがっていた。目立たないような歩行者の信号が青になるのを待って私と少年は海の方へ渡り歩いて行った。
風は冷たいけれど明るい春の陽ざしが降りそゝぎ海は陽光にキラキラと輝いていた。
待ちきれないように、少年はかけだして、カモシカのように軽い足どりで波うち際までとんで行った。靴も靴下も脱いで、まだまだ冷たそうな、波と嬉々として、たわむれている。足もとに寄せては返す波の間に貝がらを見つけては嬉しそうに拾っている。
そんな少年の姿を目で追いながら私は静かに海を眺めている。子供の頃に家族で遊んだ大洗の海、館山の海岸、おとなになって、今ははるか遠い国へ逝ってしまったひととシークレットで歩いた鎌倉の由比ヶ浜、そして、ひとりで眺めた寒かった材木座の海……
そんな思いからふっと、今に戻ると少年は少し前とおなじようにたのしそうに波打ち際で波とたわむれていた。

私と少年は海辺の小さなレストランの窓辺の席に対い合ってすわる。他に客はなく静かな店の中、赤と白のギンガムチェックのテーブルクロースのかゝったテーブルが明るく華やいだ気分にさせてくれる。
窓のレースのカーテン越しに広々と蒼い海が見えた。
カレーライスと、少年はチョコレートパフェ、私はバニラアイスクリームを頼む。
少年は目を輝かせて、学校のこと、友達のこと、可愛い弟と妹の話をきかせてくれる。
思い出したようにポケットから取り出した貝がら、白い砂がはらはらと、こぼれる。いくつもいくつも、小さな貝がらはポケットから出てきた。きっと、おうちで待っている弟と妹への海のおみやげにするのだろう。ティッシュにていねに包んで、又そっとポケットにしまった。
よその人が見たら祖母と孫のほほえましい風景に見えたかもしれない。私は、今までに味わえなかったような至福の時をもつ。
 やがて、陽が翳りはじめてきたので楽しかった一日と別れを告げる時も近くなった。海辺の近くの小さなケーキ屋さんでおみやげのケーキを買って、私鉄とJRを乗り継いで帰途につく。電車はすいていた。二人ならんで腰かけて、今日一日の楽しかったことを話しながら帰る。
 少年の降りる駅についた。私は改札口まで送りながら、今度は小さい人達も一緒にきましょうねと話す、少年は嬉しそうにうなづいた。
改札口で手を振って別れた少年の後姿が見えなくなるまで、私は立ちつくしていた。ふっと、我にかえり、ふたたび電車に乗り家路につく。
何としあわせな一日だったことだろう。
このしあわせを、きれいな箱につめて、又、きれいなリボンで結んでしまっておきたいような海辺での一日、私の目に波とたわむれる少年の姿と、キラキラ陽の光の中で輝いていた早春の海が甦りなつかしさで胸がいっぱいになった。

 夢のような、このおはなし、私は今、病気でベットのあき待ちの生活だけれど、それを忘れさせてくれるような、この間のお手紙、
 早く元気になってください、と、心をこめて書いて下さったあの少年のお手紙がどんなに嬉しかったか、今も心が熱くなる。
叶わぬ夢と知りながら、喜びと感謝をこめて、たのしい夢物語を綴ってみた。
窓から早春の午後の陽ざしがやわらかく、そそいでいる。

          平成13年2月17日、   E.S.。


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 他愛もない話だった。かわいい甥が遊びに来て、一人身の老嬢をつれだして海で楽しく遊ぶことなどは、とてもありえない事のように思えた。たぶんこれはすべてSさんの願望で、少年は彼女が想像した彼女自身の子供であったのだと思う。このような経験は子持ちの親にはよくあることであるが、彼女には手の届かない夢であった。彼女は誰かにその夢をきいてほしくて、自分の部屋で一人この夢を書き綴ったのだろう。彼女は女性にとって一番美しかった時期を、戦争戦後の苦しい時代に飲み込まれ、結核で長い療養をし、体にメスを入れてようやく命を取り留めた。そんなことをしているうちに、女性としての幸せを手にする機会を失ってしまったのだろう。

 Sさんの病状はゆっくりと、しかし容赦なく進行した。息切れがひどくなり、食欲もなくみるみる痩せていった。彼女のあのひどい肺雑音はさらに悪くなり、美しかった乳房は栄養失調のために張りを失ってすっかりしなびてしまった。いつのまにか通ってきてくれている患者さんのなかで一番の重症となってしまい、私は彼女が来院すると待たせることなく診察するようにした。そしてビタミン入りの点滴をするためにしばらくベッドに横になって休んでもらった。院内に流れていたBGMは彼女の好きなメンデルスゾーンにかえた。バイオリン協奏曲、交響曲イタリア、真夏の夜の夢、そしてピアノの無言歌集。音楽を聴くと彼女の顔から苦しみの表情が消え、眼が輝いてにっこりした。


 彼女の最後の日々は悲惨だった。血液中の酸素が足りなくなり、みっともないからいやだと駄々をこねる彼女を説得して在宅酸素療法を導入した。最初はごく少量の酸素流量で十分で、それもしばしばはずしていた彼女が、しだいに酸素を手放せなくなり、酸素のダイヤルを高流量へと合わせるようになった。酸素ボンベのカートにすがりつくようにして歩き、立ち止まっては苦しそうに息を整えていた。バスにも乗れなくなり、タクシーを自宅から医院にまで乗り付けて、しかも運転手さんが心配して付き添ってくれるほどだった。Sさんはそんなになっても入院するのは嫌だと言い、定期的に私の診療所に来ては点滴を受け、メンデルスゾーンを聴いた。入院してどうにかなるものではないことはわかっていた。私はしばしば彼女のそばにいっては話を聞いた。新しく届いた立原道造記念館の会報を、Sさんは相変わらず持ってきてくれた。私はそれにゆっくり目を通した。

 今年は立原道造の命日にもお墓のお参りに行けそうにないです。ある時Sさんはそんなことを言った。
「なぜ、それほど熱心に立原道造の墓にお参りするのですか。」
私のその問いにしばらく沈黙の後、Sさんは話し出した。一言一言確かめるように話したのは、単に息切れのためだけではなかったのだと思う。

 「・・・私は昔、シークレットな、恋をしていました。ずっと、長い間。その人には、奥さんがいたから、一緒に外を歩くこともできなかった。毎週毎週、いつもの待ち合わせのお店で、欠かさず会っていました。あるとき、何の連絡もなく、彼は来なかった。約束の時間はとうに過ぎて、それでもずっと待っていたのに、とうとう彼は来なかった。あきらめきれず、それから後も、いつもの時間にお店に行って、私は待ち続けたけれど、二度と会えなかった。彼の家に、訪ねて行くわけにもいかず、月日ばかりが経って。・・・ある時、風のうわさで、彼は死んだ、って聞いたの。心筋梗塞だって。お葬式も納骨も済んだんだって。・・・わざと何気ない顔をして、そんなことを聞いて。・・・私は知らなかった。彼はとうに死んでいて、お葬式も終わって、この世からいなくなっていたのに、死んだなんて思ってもいなかった。私は、来るはずがない人を、ずっと待っていたのよね、今か、今かって待っていたのよね。・・・せめて彼のお墓参りだけでも、したかった。奥さんにお墓のある場所を聞きたくて、はじめて彼の家の前まで、行ってみた。でも、私にはできなかった、そんなことを、彼の奥さんに聞くなんて。だから私、彼のお墓に、お参りしたことがない。お墓がどこにあるのかも、知らないのよ。・・・」
そう言ってSさんは涙を流した。

 そうだったのか。私はこのとき初めて理解した。あれほどまでにSさんが立原道造の墓に花を抱えてお参りに行っていたのは、単に立原道造の詩が好きだからという理由だけではなかったのだ。彼女の愛した人が死んだあと、ぽっかりあいた心の穴をどうすることもできなくて、せめて愛する人のお墓参りをする代わりとして、彼女は立原の墓の前で手を合わせていたのだ。立原の墓の前で彼女が祈ったのは、彼女が愛した人の魂の平安のためだったのだ。私は驚いてしまい、Sさんにどんな言葉をかけてよいのかもわからなかった。

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なぜ、あなたはきてくれなかったの。私は待っていたのよ、いつものあの場所で、私はずっと待っていた。でもあなたは来なかった。どのくらい時間が経ったのか、そこに私の居場所はなくなってしまい、私は立ち上がって歩き出さなければならなかった。まわりには白い霧がたちこめて、見るもの、聞こえるもの、何事もぼんやりとしてしまった。そこを歩いていたのは私の影よ。本当の私をあの場所に置き去りにして、私の影が、暗くかすんだ霧の中を歩いていったのよ。遠い道のりを。一人ぼっちで。

いつのまにか霧が晴れてあたりは明るくなり、気渡す限りの草原の中を、私は歩いていました。そこは日の光に満ちたゆるやかな斜面で、ぽかぽかと暖かく、穏やかに風は吹き、草原の向こうの浅間山は静かに噴煙を上げていました。ときおりひばりが高く舞い上がって盛んに歌い、青い空にはぽっかり浮かんだ雲がゆっくり流れていきました。

草原の中に寝転んでいる人がいます。両手を頭の後ろの手枕にして、目をつぶってじっとしています。私が近づくと、その人は目を大きく開けて、びっくりしたように私を見ました。
「ああ、やっときてくれた。待っていたよ。」

それは彼でした。私があれほどまで探し求め、夢にまで見た彼がそこにいるのでした。私は驚いてしまい、声も出ません。彼は組んでいた手をほどいて立ち上がりました。背は高くやせてひょろっとしたからだつき。あの頃のままです。
「僕はずっとここにいたんだ。流れる雲や夕暮れや、夜には満天の星くずを眺めてね。ご覧、ユウスゲの花が咲いてくれた。」
気がつけば草原のあちこちにユリによく似たレモン色の花が咲いています。彼は身をかがめて花を摘み、私にくれました。私は手の中の花を見ながら、ああ、これがユウスゲの花なのかと思いました。
「幾度かは浅間が噴火して灰が降った。でも僕はここから動かなかった。おまえが来てくれることを信じてたから。」
私は泣き出してしまいました。彼は歩み寄ってきて私の肩をやさしく抱いてくれました。
「もう泣かなくていい。これからは一緒にいられるよ。さあ歩こう。おまえに見せたいものがある。」

そういうと彼は私の手をとって歩き出しました。ふわふわと舞い上がるような懐かしい歩き方です。道は緩やかな斜面を下っていきます。しばらくすると白樺の林とその手前に小さな池が見えてきました。池のほとりには小さな家が一軒建っています。
「みてごらん、おまえが来るまでの間、少しずつ建てていたんだ。ようやく出来上がったんだよ。」
そう言うと、彼はその建物を指さしました。
私はその家をどこかで見たことがある気がしました。彼のあとをしばらくはついていっていたのですが、はたと私は立ちすくみました。彼は私をおいて、坂道をどんどんおりて行ってしまいます。
「どうしたの、早くおいでよ」
彼は振り返り大きな声で言いました。

私にはわかっていました。ここは私のいるべき場所ではありません。私には安らぐ場所がどこにもないのです。
「この家は見たことがあるわ。ヒヤシンスハウスでしょう、設計図や完成予想図を記念館で見たことがあるの。わかっているわ。あなたが待っていたのはわたしじゃない、アサイさんという人でしょう。あなたが愛したのはアサイさん。わたしじゃない。わたしとは単なる遊びだったのよ。」

彼は目を大きく開けて驚いたように私を見ていましたが、やがて視線を横にそらしました。低くうなるような地響きがあり、浅間山の噴煙がひときわ高く上がりました。しだいに空は白く霞んできます。池の向こうの白樺林の木の枝が不規則に揺れだし、ざわざわと音がして木の葉が白く裏返り、池にはさざなみが広がってきました。足元の草がなびいて、ユウスゲの花があちらこちらへ揺れはじめると、私は風を感じました。風はしばらく私たち二人に吹いてから、やがて静かになりました。

「アサイさんと言う人は知らないよ。ヒヤシンスハウスなんて聞いたこともない。」
彼の声に私ははっとしました。この人は立原道造ではありません。かつて私が愛したその人です。
「みんな忘れてしまった。憶えていたのは、おまえのことだけだったんだ。」
私もまた、多くのことを忘れはじめていました。つらかった日々のことも、おぼろげにしか思い出せません。私は気が付きました。彼からもらったこのユウスゲの花、花の別名はわすれぐさ。彼はわすれぐさの咲くこの草原で、一番大切だったこと以外はすべて忘れてしまったのでしょう。私は坂を駆け下りて、彼のそばにいきました。

「本当に?本当にほかのことはみんな、忘れてしまったの?」
「ああ、本当だ。」
私は彼の胸に顔をうずめました。彼はわたしを抱いて、耳元でそっとささやきました。
「ずっとつらい思いをしてきたんだね。」
私は彼の胸で、何度も
「もう、どこにもいかないで。」
と、繰り返していました。涙が流れました。
「おまえは相変わらずの泣き虫さんだね。さあ、僕たちの家に入ろう。また火山灰が降りだしたよ。」
彼は私の手をとって家へと導き、戸口をあけました。私は敷居の所で立ち止まり、振り返りました。草原の風景の中に、私が歩いてきた道がどこまでも見えています。そこにはかすかな音を立てて、火の山の灰が静かに降っているのでした。

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 Sさんの病気はすでに末期になっていた。呼吸は浅く頻回になり、酸素の流量をいくらあげてももはや彼女の苦しみを取ることはできなかった。もうろうとして幻覚が見えるほどになり、入院はしたくないと言っていたSさんも、あまりの苦しさについに入院に同意した。これが最後の入院になることはわかっていただろう。私の診療所で点滴をうけながら最後のメンデルスゾーンを聞き、私に別れを告げて、手配した救急車で入院先の病院に搬送されていった。

 数日後私はその病院にSさんのお見舞いに行った。彼女は個室のベッドの上で横たわっていた。酸素マスクが音を立て、心電図モニターに規則的な波形がうつり、点滴がを入れるポンプが点滅していた。ここでもSさんは一人きりだった。
「どうですか、気分はいかがですか」
私はSさんの耳元で大きな声で話しかけたのだが、多分苦しみを取るための鎮静剤か麻薬かが入っていたのだろう、彼女は酸素マスクの下で喘ぎながら、うつろな目をあたりにさ迷わすばかりで、私が来たことすらわからない様子だった。私は、
「今が一番つらいところですよ、これから少しずつ楽になりますよ」
などと、なぐさめにもなっていないことを話しかけることしかできなかった。

 Sさんが亡くなったとの連絡を病院から受けたのは、それから1週間もしないうちだった。

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 それから10年以上の時間が経ってからのこと、上野の美術館でフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の展覧会があった。マスコミの宣伝が派手だったせいか、ニュースになるほどの混雑ぶりだった。人ごみの中で絵を見るのは気がすすまなかったのだが、絵の好きな私としてはやっぱり見に行っておくことにした。

 美術館の外にまで延々と続く長い行列に私はしかたなく並んでかなり待つことになった。会場に入ってもどの部屋も人が多くて落ち着かなかったが、17世紀のオランダ絵画の展示はなかなか見ごたえがあった。混雑はフェルメールの部屋でピークに達していた。館内にはフェルメールの絵を最前列で見るためだけの行列というのがあって、かなり手前の方からこれもまたうんざりするほどの長さになっていた。私は好きなだけ絵を見ていたい性質なので、遠くから見ることで我慢することにして、列には並ばずフェルメールの展示室へと入っていった。そこは館内でも特別大きな部屋で、「真珠の耳飾りの少女の絵」が1枚だけ、奥の壁に小さく展示されているのが見えた。行列は部屋の中で左右に折れ曲がって幾重にもつながっていて、それが部屋全体の3分の2ほどを占めている。並んでいてはいったいどれくらい時間が経てば絵が見られるのか解かりはしない。部屋の中には警備員が何人もいて、行列の人は絵の前では立ち止まらないでください、などとやかましく案内していている。行列の人たちは、おしゃべりをしながらも行儀よく並び、ようやく絵の前に来るとこれまた短時間で、顔だけ絵の方に向けながら、ベルトコンベアーのように通過していかなければならなかった。じっくりと絵を見たい人はその後ろの少し離れた所から見るのだが、そこも黒山の人だかりになっている。ぎゅうぎゅう詰めではないものの、隣の人に体が触れそうになるほどの混雑である。私はすっかり気持ちがなえてしまっていたが、ここまで来たのだから絵を見ないわけにはいかない。意を決してその人だかりの中に入っていった。

 フェルメールにしては珍しい黒を背景にして、茶色の服、青と黄色のターバンを巻いて後ろにたらした少女が、名前を呼ばれてなのか、ふと振り返ってこちらを見ている。夢想からさめたばかりのような目と半開きの唇、大きなイヤリング。大人になりかけたばかりで、まだあどけなさの残る少女の、なんとも魅力的な美しい絵だった。

 その時だった、ふと後ろに誰かがにいるような気がして私は振り返った。そこにはSさんが立っていた。
「いらしてたのですね。」
「ええ、私も見に来ました。」
Sさんはきちんと正装していて、若やいできれいにみえた。
「息は苦しくないのですか。」
「ええ、少しも苦しくありません。」
Sさんは本当に苦しい様子もなく、おだやかにほほえんでいた。
「いい絵ですね」
「いい絵ですね。本当に。」
しばらくの間、私たちは一緒にその絵を見ていた。ごった返していた人々の喧騒は次第に遠くへと消えてゆき、静かになった会場の中で、二人だけでフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の前に立っているかのようであった。



メンデルスゾーン 無言歌 デュエット


    眠りの誘ひ         立原道造

  おやすみ やさしい顔した娘たち
  おやすみ やわらかな黒い髪を編んで
  おまえらの枕もとに胡桃色にともされた燭台のまはりには
  快活な何かが宿つている(世界中はさらさらと粉の雪)

  私はいつまでもうたつてゐてあげよう
  私はくらい窓の外に さうして窓のうちに
  それから 眠りのうちに おまへらの夢のおくに
  それから くりかへしくりかへして うたつてゐてあげよう

  ともし火のやうに
  風のやうに 星のやうに
  私の聲はひとふしにあちらこちらと……

  するとおまへらは 林檎の白い花が咲き
  ちひさい緑の実を結び それが快い速さで赤く熟れるのを
  短い間に 眠りながら 見たりするであらう

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