ジャン・シメオン・シャルダン その3

     (その2から続く)

画像


 私は信じていたいの。これからはきっといいことがある、すてきなことはかならずやってくるって。毎日毎日がつらくて、泣きたくなるようなことがいっぱいあって、家に帰っても一人ぼっち、しょんぼり座っているだけにしても、私は信じていたいの。こんなにひどい日ばかりじゃない、やけをおこしてみたところでどうにもならない。じっとがまんして、毎日毎日をまじめに過ごして、どんなに些細なことであってもその中に何かよいことを見つけて、そんな小さな小さなことがらを一つ一つ積み重ねていけば、いつか幸せを開く運命の扉に手が届くようになる。いいことは必ずやってくる。昨日と明日とは違うんだから、私は幸せになるの。幸せの切れ端をだけでもつかむのよ。でも現実は厳しいわ、お金がないっていうことは、本当につらいこと。働いて働いて、疲れ果てて帰ってきて、手のひらの上に手持ちのお金を全部出してみるの。あと一週間、あと一日、これっぽっちで生きていかなければならないのねって考えるの、あちらの店であれを買って、こちらの店ではこれを買って、ほかにも前から欲しいものがあるけれど。よくよく考えて、一つ一つを足し算して計算して、これだけで足りるのかしら、なんて。計算違いや勘違いで、それに急にお金が必要になることもあって、もうそんな時には本当にどうにもならなくなる。その分何かを無理やり切り詰めなくてはならないの。つらいのよ、ほんとうに。たまに目的のものが値引きされているのを見つけると、心底ほっとする。

 倹約に倹約を重ねているけれど、本当はお金を無駄にしてきた。お金がない生活はつらいのよ。でも愛情がない生活はもっとつらい。家を飛び出して以来、私はいつも一人ぼっちだった。それでも愛情のかけらもなかったあの家にはもどるつもりはないの。お金はあったの。でも愛情はなかったの。私には耐えられなかった。
きっと私のような愛情に飢えていて身寄りのない女って、隙だらけなのよね。ちょっとした気遣い、ちょっとした優しさ、ほんのちょっとした言葉で、すぐにほろってしてしまうんだから。男たちは私をいいように扱ってきたわ。私はカモだったのよ。飲み屋の亭主、カネ貸し、ちょっと危ない道の人。さんざんもてあそんで。少ないお金を巻き上げていったのもいる。飽きたり、言うことを聞かないと簡単に捨てるのよ。本当にひどい男もいた。体を売って生活するのはどうしてもいやだって言って、逃げた。道端で泣いている子猫を拾い上げてちょっと遊んでやって、また捨てた。わたしってそんな感じ。幾人もの人に愛情を求めたわ。でもそのたびに裏切られた。子供のころから誰にも愛されなかった。だから大人になっも誰も私を愛してくれないのよ。

 でもみんながそんないやな人ばかりじゃなかった。ピエールは違ったの。わたしが食堂から運んできた食器を彼の背後で落として割ってしまった時、怒った店長が私を責めているところを、彼はかばってくれた。彼が悪かったわけではないのに。彼は罰として給金からその分天引きになったんではないかしら。なんで私をかばってくれたのって後から聞いたことがある。ただそうしなければいけない気がした、っていうのが彼の答え。感謝でいっぱいよ。それまで気にも留めなかったピエールのことを、私は気にするようになった。台所の下働きで、皿を洗ったり床の掃除をしたり、時には泥まみれの力仕事や、トイレ掃除で客の嘔吐物をかたずけさせられていた。誰もやりたくない仕事を一手に引きうけて黙々とこなしていた。店長は良いように彼を使っていたけれど、彼は文句を言わなかった。他の店員はそんな彼のことを馬鹿じゃないかって仲間内で言っていたけれど、面と向かっては何も言わず敬遠していた。本当はちょっと怖かったらしい。彼は前科者で、刑務所にいたことがあるって噂だった。ものすごい暴力沙汰を起こしたんだって。でも私はそれを信じられなかった。彼はそんな人には見えなかったから。少しずつだったけれど、親しくなっていった。彼はいつも言葉少なくて、一人でいる時なんかはちょっと怖い目をしている時もあったんだけれど、私と話をするときはいつも優しかった。きっと似た者同士だったのね。私も彼も、普通の世界の人たちとうまくいかない人間。他の人とどうやって付き合ったらよいのか、よくわからない種類の人間。

 店の終わりが遅い時には彼は私を送って帰るようになった。でも家までまっすぐ送り届けてそれでおしまい。私が話をしないと、彼は何も言わず黙ったままだった。でも私は構わなかった。話しかけさえすれば、彼は私の目を見てふとほほえんでくれたから。不思議よね。彼は前科者で、変な気を起こせば私は抵抗することが出来なかったと思うんだけれど、私はこわくなかった。そのうちに休みの日にも二人で合うようになった。二人ともお金がなかったからお店のある通りとか公園とかを、セーヌ川やエッフェル塔を眺めて散歩するだけ。スーパーでなにか安いものを買ってきてベンチで食べて、それで食事はおしまい。あとはまた歩くの。そんなことで彼は楽しかったのかしら。彼は時々建物にあたる日の光を指さしたり、空に浮かぶ雲や、風に揺れる街路樹、駅から出ていく電車を見ていた。私も一緒に見た。それまで関心のなかったパリの風景は、二人で見ると、とてもきれいだった。でも私はよく思っていたの。いつかこの人も私のところからいなくなってしまう。私を捨てて遠くに行ってしまう。そんなことを考えると私は無性にさみしくなって、彼のそばから離れられなくなってしまう。これまでもわたしはいつでもそうだった。さびしくてさびしくて誰かのそばに居たくて、そばに居るともっと離れたくなくて、そうしてのめりこんでいって最後には傷つくの。バカよね私って。

 ピエールが住んでいたのは、幹線道路から離れて飲み屋の並ぶちょっといかがわしい界隈のはずれの、すえた臭いがする古い建物でした。酔ってたむろしているちょっと危ない感じの男や女たちの間をすり抜けて建物に入り、狭い階段を最高階まで上がると彼の狭い部屋がありました。陽の当たらない北側の寒い部屋で、唯一の窓を開けてもつまらない大きな建物に遮られて何も見えませんでした。それでも建物の上にはパリの空がみえて、なんだかほっとしたのを覚えています。。ベットとテーブルと椅子以外家具らしい家具もない殺風景な部屋の壁に、彼は雑誌から切り抜いてきた絵画を幾枚か張っていました。絵が好きなのはよくわかったけれど、じっと絵を見ながらひとりきりで過ごしている彼のことを考えると淋しくなってきて、私は胸がいっぱいになってしまいました。二人で暮らせば少しは生活も楽になるのかもしれない。そんな理由を無理やりつけて、私は彼のアパートに転がり込みました。

 お金はないけど、幸せだった、って言いたい。でもそうは素直にいえない自分がいます。私はもちろん、ピエールを愛していました。彼の目、二人きりの時だけに見せる笑み、優しい声、ちょっと首をかしげるくせ、みんな好きでした。でも彼の方はどうなのかしら。本当のところはどうなのかしらって考えると不安になりました。私に付き合ってくれてはいるけれど、わたしを抱いてくれはするのだけれど、本当のところは迷惑なのじゃないのかしら。私にはよくわかりません。彼は自分の気持ちを話すことはなかったし、私は聞くのが怖かった。本当の気持ちなんて、聞いたら何もかもがおしまいになるのではないかと思って、聞けませんでした。

彼の方は相変わらずあの意地悪な店長に顎で使われていました。あんまりひどいから、転職しないのかと聞く私に、どこに行っても同じさ、と彼はボソッと答えました。コツさえつかんでしまえば、楽なものさ。でも彼の仕事は楽とは思えません。遅くに仕事から帰ってきてぐったり疲れて横になっている彼を見るのは、気の毒でした。

 ある休日の朝、蚤の市でいつものようにふたりでぶらぶら散歩しているときのことでした。それまで蚤の市では食器なんかをたまに安く買うことはあっても、そう簡単に物を買うことはありません。私たちは品定めをしながらただ見て歩くだけで我慢をしていました。でもその日のピエールは違った。彼はある場所から一歩も動かなくなったのです。彼の視線の先にはくすんだ花の絵がありました。なぜその絵が気に入ったのか、今でもわかりません。その店には古くて端のかけた食器や、ゆがんで扉のしまりの悪い小さな戸棚、脚の一つ欠けた年代物の椅子、色あせたカーテン、虫が食ったような不揃いの本なんかが置いてあって、その中にうずもれたように、薄汚れて輪郭もぼやけた赤や白の花束が瓶にいけてあるその絵がありました。一人前に簡素な木の額縁がきちんとついているところだけが取り柄なのかと思いました。
彼は店のおばさんに声をかけ、値段を聞いて眉をしかめました。二言三言話していたようですがもう一度じっと絵を見てからその場を離れました。二人一緒に歩きながら、彼は言葉少なく私のほうを時々ちらっと見ていたようでした。私は立ちどまって笑いながら彼に聞きました。
「いくらなの?」
「100ユーロ。」
「まあ。・・・1か月、肉は食べられないかもしれないわ。」
彼はうなずきます。
「あなたの好きなコーヒーも我慢しなくては。」
彼はうなずきます。
「今晩の食事をあきらめることはできるの?」
彼はにっこりうなずきます。
「それならいいわ。」

 その月のやりくりは本当にどうしようもないことになったけれど、その日からピエールは花の絵を自分の部屋に飾ることが出来ました。切り抜いてべたべた張っていた絵画の切り抜きは壁からはがしました。さえない絵のようだったけれど、さすがに額縁の中に入っているだけはあって、殺風景な部屋に気品がでた気がします。彼は上機嫌で珍しく冗談も言って、おなかはすいていたけれど、私はちょっとだけ幸せに近づいた気がしました。

 それからまもなくのことでしたか、ピエールが急に私に携帯電話をもってほしい、と言い出しました。1台分の費用くらいは何とかなるのではないかと彼は言います。彼は言い出したら後には引きません。どうやら職場で携帯を持っていないのは私くらいということに気が付いて、自分も携帯を持っていないくせに、私が職場の仲間からのけ者にされているのではないか、と変に気をまわしたようなのです。確かに倹約を口実に私は携帯を持っていませんでしたが、実のところ昔のいやな男からの連絡でノイローゼ気味になったことがあり、携帯を持つことをやめてしまっていたのです。

 私が携帯電話もつと、彼は私の携帯を「借りて」、それに夢中です。インターネットに接続したり、写真をとってみたり。動画も撮れるよ、とご満悦でした。室内の写真、私の写真、二人を撮った写真。
花の絵の写真を撮っていた時のことでした。
「きれいよね、このカーネーション。」
「え、まさか・・・これはバラじゃなかったのかい。」
絵はこれまで台所にでもかけてあったのでしょうか。本当に茶色く汚れてしまっていて、花の種類などはっきりとは分からないほどでした。彼は笑って、今度は絵をきれいにしようと言い出しました。せめて花の種類がわかるように。

彼は壁から絵をはずし、しばらくは刷毛やらティシュやら綿棒やらで何やらやっていました。そのうち彼は素っ頓狂な声をあげました。
「なんだこれは。ほら見てごらんよ、絵がもう一枚出てきたよ。」
彼は額縁を分解して絵をはずしたところでした。くすんだ花の絵の下に、もう一枚の絵があったのです。台所の鍋の絵です。それに何やら台所の道具も一緒に描かれていました。鍋は使い込まれているようで、細かなこすり傷がつきあちこちがでこぼこして、鈍く光っていました。花の絵も鍋の絵も、2枚ともが板に描かれていたので、2枚重ねになっていたのに気が付かなかったのです。下にあった鍋の絵は埃がかぶっていないだけあって、鮮やかな色彩でした。裏側に誰かのサインが入っています。
「なんだか得したきぶんだね」
「きっと神様が私たちにくれたプレゼントなのよ」
「鍋の絵だなんて。変わっているね。」
「花の絵と同じ人が描いたのかしら。」
「今度はこの鍋の絵を飾ることにしようよ。」
その日から鍋の絵を飾ることにしました。初めは何の変哲もない絵に見えました。だって台所の鍋なんですから。でも気になるんです。部屋に帰ってくると、まずその絵を見ます。二人で食事したり、話していたりする時、眠りにつくときなど、自然と視線が吸い寄せられて、いつの間にか二人で絵を見ていたりします。もちろん写真もたくさん撮りました。表から撮って、裏から撮って、二人で絵と一緒に記念撮影したりしました。それが後で役に立つなんて、思ってはいなかったのですけれどね。

 ある日曜日のことでした。いつものように二人でセーヌの川岸を散歩をして、ある店先に寄りました。それは古本を売る店で、背後のぎっしり並んだ本の前に廉価の本が積んであります。絵の好きな彼はたまに色あせた大型の美術本をぱらぱらめくることがあったのです。いつもならさらっと眺めておわるところを、ある本を手にしたままじっとしています。彼は私の顔を見て、そのページを指さしました。それを見て私はあっと息をのみました。それは鍋や野菜やぶら下がった肉などの台所の絵だったのですが、それは私たちの部屋にある絵とよく似ていたからです。ページをめくると他にも鍋の絵があります。雰囲気はあの絵と同じものでした。本の表紙には
CHARDIN
とありました。
 私たちはしばらく本を見ていました。本の値段も見ました。決して安い値段ではありません。二人の財布の中身をたしてもたりませんでした。本は買えなくても、携帯をインターネットに接続して調べることはできます。
私たちは興奮して家に帰りました。携帯をネットにアクセスしてシャルダンを検索してみると、似た絵はいくらでも出てきます。どうやら古い時代の、とても有名な画家です。もしこれが本物だったら、とてつもない価値があるのではないでしょうか。それでまとまったお金を手にすることになれば、こんな生活から抜け出すことが出来るのに違いありません。

 私たちは美術館に絵を持ち込みました。対応した美術館の方は比較的お若い感じの方で、名前は、仮にライトさんにしておきましょう。ライトさんは私たちの取り出した絵を見て、とてもびっくりされているようでした。じっと絵をご覧になった後、入手したいきさつなどについて私たちを質問攻めにしました。私たちはできるだけ質問に答えました。花の絵と額縁の方も持って行っていたので、鑑定のために絵を借りたいというライトさんのためにすべてを預けました。念のためきちんとした借用書も描いてもらいました。

そこからおかしなことになりました。いくら待ってもライトさんからの連絡が来ません。何度かライトさんに連絡を入れても、そのたびにのらりくらりとかわされます。それでもようやく返却してもらえることになりました。
ライトさんが言うには、これは偽物だということでした。
「始めに表になっていた花の絵に入っているサインは、鍋の絵の裏側のサインと同じものです。19世紀の裁判記録に、贋作を生業にしていたその画家の名前があります。多分2枚とも贋作作家の作品でしょう。なぜこんな2枚重ねの細工をしたのかは、よくわかりません。」
そして絵を返してくれました。額縁には花の絵が入っています。その裏側に鍋の絵が入っているとのことでした。

 私たちはがっかりしました。絵を持ち帰り、また分解して鍋の絵を表にだして額縁に収め、元のように壁にかけました。
ピエールはそれを壁にかけたまま、じっと見ています。そして言いました。
「おかしいね、これ」
以前とそっくりの絵です。鍋があり、こしょう入れがあり、卵があり、全体的にはそれらしく描いています。しかしじっくり見ていると、何か違う感じ、奇妙な居心地の悪さがありました。絵に輝きがない。あの力強さがない。埃で汚れているのでしょうか、見れば見るほどまるで機械的に描いた塗り絵のように見えてきます。美術館に持っていく前の絵とは全く違うものです。
「すり替えられたんだ」
驚いて彼の顔を見ました。彼も私の顔を見ました。彼の顔がみるみるうちに赤くなっていきます。
「どういうことだ」

 私たちはライトさんに電話を入れ、会いにも行きました。専門家の私が間違えるわけはないでしょう、元通りお返ししました、と言ってライトさんは相手にしてくれません。最後にはとうとう怒りだして、私たちを泥棒呼ばわして追い出しました。それからは多忙を理由に会ってもくれません。私たちは途方にくれました。彼は不機嫌になりました。絵は壁から降ろしてしまい、元気はなくいらいらとしています。些細なことにかっとして声を荒げ、重苦しい空気になりました。こういうときには悪いことが重なるものです。職場でいつものように店長があれこれ命令していた時、よほど虫の居所が悪かったのでしょう、いきなり店長に殴り掛かってしまったのです。警察が来て彼は連れて行かれましたが、しばらくすると帰ってきました。前後のいきさつを証言してくれた人がいた上に、店の勤務体制に問題があることが発覚したらしく、店長が被害届を引き下げたというのがもっぱらの噂でした。彼は釈放されはしたものの職を失いました。私もまたそこを居づらくなり、やめざるを得ませんでした。収入の道は途絶えました。

 私は悔しくてなりません。どうにか絵だけは取り返そうと思いました。私達には証拠の写真が残っています。これを鑑定してもらえば私たちが正しいことがわかるはずです。まずは美術館の館長にかけあうところから始めることにしました。館長もグルになっている可能性はありましたが、そんなことを考えていたら前には進めません。美術館に電話を入れると、秘書がなかなか取りついでくれなかったものの、館長は面会の時間を取ってくれました。

 館長は気さくな人でした。私たちの話を熱心に聴き、絵も見てくれました。携帯でとった元の鍋の絵の写真も見てくれました。館長はびっくりしたようでした。そしてすぐに学芸員のライトさんを呼び出しました。
ライトさんは私たちと鍋の絵を見ると、困ったようなまなざしを館長に向けました。館長は言いました。
「ライトさん、私の記憶では、ここにある絵は昔、君がシャルダンだと言って持ち込んだ絵によく似ていると思うのだが。ちがうのかな。」今度は私たちがびっくりする番でした。
「君はこれとよく似た絵の鑑定を、この方たちから依頼されたということだが、それは本当ですか。」
「・・・いや、その・・・」
「どうなのかね、ライト君。彼等が絵を持ち込む前に撮ったという鍋の絵の写真もある。見てみたまえ、ここにある絵とは違うもののように、私は見えるのだがね。」
ライトさんは携帯電話の画面に映っている絵の写真をみました。そして携帯を私たちに返しながら言いました。
「私は・・・取り違えたかもしれません。」
「では、正しい方の絵を持ってきたまえ」
ライトさんはあっさりと観念したようでした。もともとそんな悪い人ではなかったのだと思います。さほど時間が経たないうちに板絵を持ってきました。あの鍋の絵でした。2つの鍋の絵を並べてテーブルの上においてみると、違いは明らかでした。すぐにピエールが手を伸ばし、ひったくるように絵を抱えこんでしまいました。ライトさんはあざけるように言いました。
「私は間違えてしまいました。でもたいした差ではありません。両方とも贋作だからです。」
館長が聞きました。「本当かね、ライト君」
「ええ、絵の表にサインはありませんが裏にはサインがあります。花の絵の方と同一のサインです。それはシャルダンとは読めません。19世紀に活躍していた贋作作家の名前でしょう。オリジナルのつまらない花の絵も描いていたのでしょう。そもそもこの絵の入手経路と称するものを考えてみてください、館長。蚤の市で偶然に手に入れたシャルダンの真作だなんて、いかにもありふれた作り話に決まっているじゃないですか。」

 かっとして立ち上がったピエールをなだめるので私は精いっぱいでした。そして早々に美術館を引き揚げました。元の絵を取り戻したのですから、大成功と言わなくてはいけません。しかし彼はすっかり元気をなくしていました。絵は私たちの部屋に帰り、今度こそ元通りに壁に飾りました。つまらない絵と比べたあとでは、素人目にも素晴らしい絵に見えます。
「絵が返ってきてよかったわ。これで安心した。」
ピエールは答えません。絵を見たまま黙っています。
「贋作なのかもしれないけれど、これはいい絵だと思うわ。」
それでもやはり答えません。
「今日はいいことがひとつあったでしょう。ほら、絵が返ってきた。これからは、いいことがきっとあるわ。あのね、ピエール。私は信じていたいの。これからはきっといいことがある、すてきなことはかならずやってくるって。毎日毎日がつらくて、泣きたくなるようなことがいっぱいあっても、私は信じていたいの。ひどい日ばかりじゃない、やけをおこしてみたところでどうにもならない。じっとがまんして、毎日毎日をまじめに過ごして、どんなに些細なことであってもその中に何かよいことを見つけて、そんな小さな小さなことがらを一つ一つ積み重ねていけば、いつか幸せを開く運命の扉に手が届くようになるって。いいことは必ずやってくるのよ。昨日と明日とは違うのだから、私達は幸せになるの。きっと私達は幸せになるのよ。」
「ああ、そうなのかもしれない。一つ一つ積み重ねることが出来るのならば。」
「そうよ、昨日より今日、今日より明日、ほんの少しでも、ほんの少しだけでもいいことをすれば、いつの間にか目の前に幸せがやってくるのよ。きっとそうよ。おかねだって少しずつたまっていくわ、ためたお金で二人で小さな雑貨屋さんを始めるの。鍋とか、食器とかを売るの、食料品もちょっとおいてある、田舎の小さなお店よ。お店の収入だけではやっていけないから、家の裏庭で野菜を作りましょう。そこでとれた作物も一緒にならべましょうよ。私はこんなお鍋でシチューを作るわ、遊んでいた子供たちを呼んでみんなでテーブルについて、ワインを飲んでお食事をするのよ・・・。」
「そうだね、ユリア、このまま二人、離れることなく生きていくことが出来れば、いつかきっと夢がかなうよ。」
「・・・本当は私こわいの、私が愛した人は、いつかは私から離れていってしまう、いつだってそうだった。ピエール、私はあなたの事が好きよ、愛しているの。でもいつかあなたはどこかに行ってしまうわ、私の手の届かない、どこか遠くへ、私には取り柄なんかなんにもない、だからきっと私を捨てるわ・・・」
「大丈夫だ、僕はどこにも行かないよ、ずっとここにいる、ユリア、お前のそばに。僕だって何のとりえもない男だよ。でもお前のことを愛している。」

 ドアをノックする音が聞こえました。珍しいこともあるものだとピエールがドアを開けに行きました。
「これは、館長さん、どうされたのですか。」
「いや、あの絵はまだあるかなと思って」
「ええ、ありますが」
「もう一度見せてもらっていいかな」
「ええどうぞ。でもあれは贋作なんでしょう」
美術館の館長さんはすぐに壁にかかった絵を見つけました。
「誰にでも間違いはあるものだよ。」
館長さんはもはや絵以外のものは目に入らないようでした。帽子や外套を脱ぐことも、私たちが部屋にいることも忘れて、絵の前にいつまでも立ち続けていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(おしまい)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント

ユーーーカリ
2018年01月06日 21:20
絵が巡り、様々な人の人生に関わっているのでしょうか。ピエールとユリア、素敵な魅力的な二人のもとへシャルダンの絵がたどり着いて良かったです。

この記事へのトラックバック