亡き王女のためのパヴァーヌ  その7

  (亡き王女のためのパヴァーヌ その6からの続き)

「ほんとうに、これでよかったのですか。もう少しいらしてもよかったのに。」
「いや、いいんだ。これで終わったんだ。」
「気が済んだのですね。思い残すことはもう、何もないのですね。それでは最初のお約束通り、参りましょうか、私の国へ。自由の国、なんでも望みがかなう国。これから迎えをよこします。」
「ああ、ちょっと待って。そのまえに、どうしてもやりたいことが残っている。」
「それはいったい何?」
「私は音楽家だ。もう一度、ピアノを弾かしてくれ。どうしても弾きたい曲がある。私の人生の、最後の舞台に上って、弾いて聴かせたかった曲がある。弾きたかったけれど、脳の病気のために弾くことができなかった。」
「・・・そう。では演奏会場に行きましょうか。」

 ラヴェルと王女たちは歩き出す。パリの街並みは消え、道はもとのモンフォール・ラモリの古い町の中に戻っていく。日が暮れた後の闇が町を覆っていて、藍色の空にはいくつかの星が光りだしている。町の街灯に光が入り、家の窓にはぽつぽつと明かりがともりだした。通りは賑やかな広場に続いていた。それは夢の初めで見た場所で、今はまわりの店の明かりと街灯で広場は明るく照らされ、たくさんの人が集まっているのが見えた。ライトをつけた車が徐行しながら続々と広場に入ってきて、その車からきちんと正装した人々が次々に降り立ってくる。盛んに話をしながら数人ずつかたまりになって、皆同じ方向にゆっくり歩いていく。その行き先の広場の向こう側には、最初の演奏会があった大きな建物が明かりに浮き上がって見えた。すべての窓に照明がつき、出入り口は明るく開かれ、人々が建物の中へと入っていく。
 ラヴェルはすでにぴったりしたスーツに身を固め、派手な色のシャツにしゃれたネクタイをしめている。ラヴェルが明るい広場に足を踏み入れると、それに気づいた人たちの小さな歓声が上がり、集まってきてラヴェルをとり囲む。握手を求め、ペンを差し出し、楽譜や色紙にサインをねだってくる。ラヴェルはにこやかに答え、ひとつひとつサインをしている。

 突然ラヴェルがあっと声をあげた。足元を見つめて立ち尽くしている。王女が聞く。
「どうかしましたか?なにか問題がありましたか?」
「靴だ、この靴ではだめだ。これは散歩用のドタ靴だ。こんな靴では会場に入れるわけがない。僕にはコンサート用の、あのエナメル靴が必要なんだ。」
「まあ、もうすぐ開演ですよ。靴なんて誰も気にしないわ。」
「いやだめだ、あの靴でなければすべて台無しだ。」
そう言ったきり、ラヴェルは一歩たりとも動かない。
王女はため息をついて、侍女に指示する。。「仕方ないわね。ラヴェルさんの、演奏会用の靴を用意しなさい。」侍女はお辞儀をして靴を取りに行く。

 新聞記者がラヴェルに気づいていそいそと近寄ってきた。フラッシュをたいて写真を撮り、ラヴェルに盛んにインタビューをする。
「ラヴェルさん、すっかり回復されたのですね。おめでとうございます。」「ありがとう。」
「最近の体の調子はいかがですか?」「まあまあだね。」
「回復は奇跡的だと言う人もいます。」「僕は神には頼んでないよ。もちろん悪魔にもね」
「ラヴェルさん、今晩の意気込みのほどを。」「いつもとかわらないね。」
「今回の曲で表現したかったものを、言葉で言うと何でしょうか。」「音楽。」
「作曲には苦労されたみたいですね、眠らないで作曲したのだとか。」「そうだね。おかげで今夜の演奏中はよく眠れると思うよ。」
「多くの人が、今晩のあなたの演奏を期待しています。」「どうかな。僕はピアノがうまいとは言えないからね。」

 侍女が急ぎ足でエナメル靴を持ってきた。それを見たラヴェルは安心し、靴を履きかえた。それでようやくラヴェルの準備ができた。王女たちは会場には入らず、そこで待つことにした。開演時間が近いらしく、観客はほとんどホールに入っていて、幾人かぱらぱらと急ぎ足で会場に入っていく人がいるばかりである。ラヴェルは取り巻きを引き連れてゆうゆうと会場内に入っていく。気をもんでいた劇場支配人が走り寄ってきてぺこぺこ頭を下げる。そしてすぐに引っ張るようにラヴェルを届けられた花束や贈り物でいっぱいの楽屋へと案内する。係りの者が幾人も集まってきて、ラヴェルのために飲み物を用意し、鏡の前で服装のチェックをはじめたラヴェルのそばで、かしこまって控えている。会場内の熱気とざわめきが、楽屋まで伝わってくる。

 ラヴェルは鏡を見ながら完璧な服のいでたちに満足げに微笑し、呼吸を整えると決然と振り返り、演奏会の舞台へと向かっていった。

 舞台の上はすでにオーケストラが着席して待っている。ラヴェルが入ってくるのを先に気づいた楽団員達が拍手をはじめ、それにつられて会場の客席からも拍手が沸き起こる。見渡せば会場内は人でびっしりと埋まり、立ち見が立っているほどの超満員である。拍手は次第に大きくなる。指揮者もニコニコしながら手をたたいている。聴衆は拍手しながらラヴェルに敬意を表して次々に立ち上がり、ラヴェルが舞台中央のピアノのわきに到着するころには、会場内は総立ちの状態になっている。ラヴェルが聴衆に向かって頭を下げると、一段と大きくなった拍手に喝采の口笛も加わり、会場内は熱気に包まれる。ラヴェルは指揮者と握手し、グランドピアノの前の椅子に腰かける。拍手はすぐに鳴りやみ、聴衆は急いで腰かけて会場内は急に静まりかえる。ラヴェルはピアノを見る。鍵盤を見る。鍵盤の上に手を乗せ、少し鍵盤をなでてみる。次いでラヴェルは会場内を見回す。聴衆はみな期待の眼差しでラヴェルに注目している。反対側のオーケストラ団員も全員が笑顔でラヴェルをみている。指揮者を見上げると、指揮棒を両手で体の前で握ったまま、にこやかにラヴェルにうなずく。

 ラヴェルは姿勢を正し、ピアノを弾きだした。

  ・・・ピアノ協奏曲ト長調第2楽章・・・
マルグリット・ロン(p)、ペトロ・ドゥ・フレ-タ=ブランコ指揮 ラヴェル監督 1932


  思い出してごらん その手がふれてきたものを
  それらがどんなに大切であったのかを
  夢中になったヨットの玩具 機械仕掛けの鳥かご 
  人形は踊り オルゴールは子守歌を奏でる
  だいじにした宝物 すべて包みこんでいた
  母のぬくもり 慈愛に満ちた父の手

  思い出してごらん 見て 聞いてきたものを
  新しい学校とたくさんの友人たち
  無茶な冒険や夜を徹しての大騒ぎ
  そこでみつけた素晴らしい音楽
  共感に満ちた言葉 愛した人の瞳 
  寄り添いながら夜空の流れ星を数え
  旅先のヨットでは海から昇る太陽を見た 
  いくら話しても 語りつくせなかったこの世界

  思い出してごらん 私たちが生きてきた日々
  楽しみや喜びに満ちていたあのころ
  私たちには希望があり 願いはかなえられて
  物語の終わりには幸せが訪れると思っていた

  ある朝 さいごの日が来たことを知り
  この世に別れのあいさつをおくる
  そして 私たちは行かなければならない
  決して理解することのできない闇の中へ
  おもちゃ箱をひっくりかえしたようなこれらの日々を
  このいとおしい世界に残したままで

  だから 許してあげて 
  たとえ衰え 悲しみや苦しみが刻みこまれて
  どうにもならないからだになっていても
  不本意だった人生 うちひしがれて歩いた道
  ごらん 夕陽が沈んでいく
  見慣れていた風景が こんなにも美しく見える
  私たちと共に生きた世界が 時が 人々が
  おだやかに輝いて ほほえんでいる

  だから 許してあげて 
  たとえ心が 壊れてしまっていても



 最後のピアノのトリルが会場内の空気の中に消えていく。音楽は終わった。ラヴェルはピアノの鍵盤から手を離して立ち上がる。わきあたる万雷の拍手、ブラヴォーの声。ラヴェルは会場を見渡し、聴衆に向かって一度、うなずくように頭を下げる。会場内の人々は次々に椅子から立ち上がって拍手を続け、中には舞台前までつめかけて盛んに拍手している人たちもいる。オーケストラ団員も立ち上がり、指揮者も指揮棒を置いて拍手している。
 鳴りやまない拍手の中、ラヴェルは舞台わきから会場内へ続く数段の階段を下りていく。舞台そでまで押しかけていた聴衆は、ラヴェルのために通路を開けた。やみそうにない拍手の中を、ラヴェルは左右の聴衆の、一人一人の笑顔を確認するように歩き、会場の出入り口へと向かう。そして背後の拍手の音を聞きながら、ラヴェルは一人会場の扉をみずから開けて出ていった。

 建物を出ると王女やその侍女達が待っていた。地面には細長い赤いじゅうたんがひかれ、護衛の兵士達がそのわきに整然と並び、じゅうたんの先にはすでに黒塗りの馬車が待機している。おとぎ話に出てくるような4頭立ての大型の馬車である。王女が先に立って歩き、馬車へと乗り込んでいく。正装した従者が手をさし伸ばし王女が馬車に乗るのを手伝う。ラヴェルと侍女がその後から馬車に乗り込んだ。扉は閉められ、馬車はゆっくり走り出す。モンフォール・ラモリの町を過ぎるとあたりは真っ暗な闇の中なのであるが、道は薄青くかすかに光っていて、その上を馬車は走っていった。

 ラヴェルはおしゃべりすることもなく、外の暗い夜を眺めていた。時々小さな明かりがぽつんと見えてはゆっくり後ろへと過ぎていく。その明かりのある家が次第に彼の住んだ家のことを思い出させた。笑い声の絶えない家であった。おおらかで明るい母親。子供のような好奇心の旺盛だった父親。兄を慕う仲よしの弟。
ピアノを二人で夢中になって弾いているラヴェル。
音楽院の授業、教授はフォーレ。楽院の聴衆の前でピアノを弾くラヴェル。
アパッチたちとの悪ふざけ、新曲発表のブーイングの大騒ぎ、澄ました顔のラヴェル。
戦争中、曳光弾の光の下でトラックを運転するラヴェル。
一人ピアノを弾くラヴェル、船旅で海を見ているラヴェル。
猫を抱き上げ、煙草の煙を立ち上らせているラヴェル。
数多くの幻影が、ラヴェルの目の前を通り過ぎていった。

「モーリス・ラヴェル様、間もなく到着いたします。」
その声でラヴェルが眠りから目覚めると、馬車は王宮の大きな門を入るところであった。
馬車の窓から太陽の光に白くかがやく宮殿が見えた。尖塔が建物の隅にそびえ、装飾の付いた窓が2階まで整然と並ぶ堂々たる建物だった。その正門前に馬車は到着した。
「さあ、つきましたよ、ラヴェルさん」王女がにこやかに声をかける。
「ああ、そのようですね。」
きらびやかに着飾った衛兵や使用人たちがすでに整列しており、馬車に走り寄り扉を開ける従者がいる。王女が先に降り立ち、ラヴェルや侍女たちが続いた。宮殿の天井は高く、数多くの調度品は高い窓から差し込む陽の光に輝いていて、多くの使用人たちが忙しそうに働いていた。一行は建物内を案内され、複雑に曲がる長い通路を奥へ奥へと入っていった。
「王様ならびに王妃様、ラヴェル様が到着いたしました。」の声が響き、一行は階段を下りたところのある扉の中へと入っていった。

 その部屋は天井の高い広々とした部屋で、壁一面に大きな絵が所狭しと掛けられている。部屋の奥には窓があって中庭が見え、そこからの外の光が奥中央の椅子に並んで座っている華麗な服装の男性と女性を照らし出していた。その手前には道化の小人たちと犬がいて、何やら騒いでいた様子、右手にはキャンバスを立てて絵を描いている画家、そのほかにも何人か人達がいて、ラヴェルをふりかえって見た。王女が走り出さんばかりに並んでいる二人のもとに行き抱き着いた。そのしぐさはまだ幼い少女であった。
「お父様、お母様、ただ今帰りました。ほら、あの方がこの前からお話していたラヴェルさんです。」
ラヴェルに向かって小人たちがちょっときどった大仰な挨拶をする。画家も首をやや斜めに傾げながら、丁寧なあいさつをした。挨拶の仕方に迷ったラヴェルも、結局彼らのまねをしてぎこちないあいさつをしてみた。
椅子に座っていた二人も立ち上がる。
「ああ、あなたがラヴェルさんなのですね。王女から話は幾度となく聞いていました。」
「高名な音楽家でいらっしゃるとか。お会いするのを楽しみにしていましたのよ。」
「王様、王妃様、お目にかかれて私もうれしいです。」
「あちらの世界では、病気のためにたいへん苦労をされていたと聞きました。こちらの世界では不自由することなく、何でもおできになることでしょう。」
「宮殿内はご自由にされてかまいませんのよ。何かお困りのことがあれば、遠慮することなく言ってくださいね。」
「ありがとうございます。」
「さっそくわが宮廷の楽師たちを紹介しましょう。こちらの世界の楽器にも、たぶんご興味がおありでしょう。」
王が合図すると、楽師たちが入ってくる。それぞれ古風な楽器を抱えている。テーブルが用意され、まだ何も書かれていない五線譜がその上に置かれる。それにペンとインク。座り心地のよさそうな椅子が持ってこられた。
「ラヴェルさん、あなたのための特別な部屋も用意してあります。そこで旅の疲れをいやすもよし、音楽を書き始めるもよし、お望みなら楽師たちに我々の世界の歌を演奏させても構いませんよ。」
「本当のことを言うと、作曲することができなかったあなたの頭の中にある音楽を、聴いてみたい、と言うのが私たちの望みですのよ、ラヴェルさん。」
 ラヴェルは楽師たちの所へ行き、楽器に触り、楽師たちに音を出させてみる。それが一通り終わると、椅子に座り、楽譜を見ながらしばらく考えた後、音符を埋めだす。部屋の中の人々はそれぞれ元の仕事に戻り、画家は再び王様夫婦の肖像画を描き出した。

 丹念に音符を書き進めるラヴェル、しかし途中で手の動きが止まる。しばらく宙を見て、ラヴェルはペンを置いた。ラヴェルの様子に気づいた王妃が声をかけた。
「どうなさいました?おつかれになりました?何か気になることでも?」
「・・・私はここで音楽を書いていることはできません。」
驚いた顔をした王様が尋ねた。
「何とおっしゃいましたか?なにか不自由なところがありましたか?」
「私はここにいられません。ここにはもう居られないのです。」
王妃が困ったように言う。
「私たちが、何か不愉快な失礼なことをしてしまったのかしら。」
「いえ、そうではないのです。私は元の私の家に帰ります。」
王女が走り寄ってきた。
「急に何を?まさか元の体の中に戻ると言うのではないでしょうね。何の役にも立たない、あなたを苦しめただけの、あの壊れてしまった肉体に。」
「確かに、あの体はもはや何の役にも立ちません。でも、あれは私の体なのです。あの体とともに、私の人生はあったのです。」
「戻ってしまったら、あなたはまた何もできなくなるではありませんか。まだやりたいことが、書きたいことがいっぱいおありでしょう。自由になった今でこそ、あなたはあなたでいられるのです。」
「確かにここでは新しい音楽を、書くことができなかった音楽を書けるのかもしれません。でも、それは私の人生ではないのです。ここで再び私が音楽を書けたとしても、もはやそれは私の音楽とは言えません。」
「それであの体に帰ろうというのですか。帰ってしまえば、あなたの人生は終わってしまいます。ここに居れば、あなたは肉体から解放されて、いつまでも自由に生きることができます。」
「たとえ私の体が年を取り、汚れ、ぼろぼろに壊れようとも、それは私の体なのです。私は、私の体と共にいようと思います。どんなにだめになろうとも、私の体は、私の人生そのものなのです。」
しばらくの静寂の後、王女が話し出した。
「・・・そこまで決心されているのなら、仕方ありません、ラヴェルさん、元の体に戻られるのがよいでしょう。それとともに、私たちもまた、元の場所に帰らなければなりません。あの、さびしい、冷たい場所へ。」
「なにをおっしゃいますか。」
「私たちの体は、物語の中の人々と同じ成分でできているのです。」
ラヴェルは驚いて王女をみて、ついで部屋の中の人達を見まわした。皆、優しそうな目でじっとラヴェルを見ている。
「お別れの前に、お願いが一つあります。私のために、あなたのあの音楽を聞かせてください。パヴァーヌです。私たちは、忘れられれば、消えてしまう運命です。でも仕方がありません。力をくださったのはあなたです。あなたの物語が終わる時、私たちの光も消えるのです。」
「ええ。・・・パヴァーヌ、でしたね。」
ラヴェルが手にしている白い五線譜に、くろいしみがあらわれだした。見る見るしみはふえていき、五線譜の上で音符となり、楽譜となった。ラヴェルは楽譜を楽師たちに配った。楽師たちは譜面を一通り見て、ラヴェルを見た。ラヴェルは楽師たちを見回し、指揮を始めた。

・・・・・亡き王女のためのパヴァーヌ・・・

 王女がラヴェルのそばまで歩いてきた。王女は小さな冠をいただいて豪奢なドレスに身を包み、すらりと背の高い美しい女性になっていた。ラヴェルは指揮をやめ、手を取られるまま王女とともにパヴァーヌを踊りだした。二人だけで、ゆったりと、舞うように。王や王妃をはじめ、部屋の中にいる者はみな立ち上がってパヴァーヌを踊る二人を見ていた。ラヴェルは目を閉じて、王女の踊りの動きに身をゆだねていった。

 次第にもやがかかっていき、ものの形がはっきりしなくなった。王女の姿は次第に背景に溶け込んでいき、王様王妃様はじめ部屋の中の人々は薄らいで行った。巨大な宮殿ですら、働いていた多くの人とともに霧の中に消えた。音楽も、遠く次第に聞こえなくなった。

 霧がうすれると丘の上の崩れた城壁が現れ、その廃墟の中で一人、ラヴェルはぎこちなく踊っていた。髪はぐしゃぐしゃにみだれ、パジャマのズボンにだらしなく上着をかけ、ネクタイが首の周りに垂れ下がり、泥だらけの足には室内サンダルを履いていた。
「だんなさま,だんなさま」
 レヴロ夫人が叫びながら丘をよたよたとあがってきた。その向こうにはイル・ド・フランスの冬の日の平原が、教会が、森が見える。太陽は傾いていて、寒い風が吹きはじめていた。そこはモンフォール・ラモリの、ラヴェルの家のすぐそばにある古い城の廃墟であった。
「だんなさま、ここにおいででしたか。いったい何をされているんですか。だんなさま、だんなさま、私が誰だかわかりますか。家政婦のレヴロですよ。だんなさま。」
「・・・ああ・・・ああ・・・」
「まあこんなひどい恰好で、体がすっかり冷えておいでではありませんか。出かけるときは私にお声をかけてくださるよう、あれほど頼んでおいたでしょう。お風邪をひかなければいいのですけれど。」
「・・・」
「だんなさま、さきほどから弟君のエドアール様とパリのお友達とがいらして、だんなさまのお帰りをお待ちになっていらっしゃいます。ほら、心配されて皆さまでだんなさまを探しに出ておいでです。・・・エドアール様、ラヴェル様はこちらです!」レヴロ夫人は大声を上げて手を振る。それに気づいた人たちが駆けるように坂を上ってくる。レヴロ夫人はラヴェルを支えて歩きながらそっと言った。「何か大切なお話があるようでございますよ。」
丘を上がってきたエドアールがラヴェルの姿を見てはっと立ち止まる。しかしすぐにそばに駆け寄ってくる。
「やあモーリス兄さん、・・・今日も散歩かい?冬でも毎日、散歩をしているのかい?・・・元気そうじゃないか。」
「ああ・・・そうだ・・」
「元気そうだよ、顔色もこの前より良いし。」
友人たちが集まってくる。
「あら、お元気そうですのね。散歩にいらしてたのね。」
「やあ、お帰りかいララ、あいかわらずだね。」
「ラヴェル先生こんにちは。お元気そうで何よりです。」
「ああ・・・ああ・・・」

 ラヴェルを中心にして、連れだって家に帰る。部屋の中に入るとまずラヴェルは座らされて、それを囲むように皆が座った。ラヴェルは派手なガウンを着せられ、その上に毛布でくるまれてしまう。ひとしきり、パリの音楽業界の人たちの消息や演奏会事情を噂がはじまった。それも長続きせず。ふと沈黙が落ちる。そして改まった調子でエドアールが話し出した。
「それでだ、モーリス兄さん、大事な話がある。ちょっと聞いてください。兄さんの健康状態についてだ。僕含めここにいる皆さんがとても心配しているのは、兄さんも知っての通りだ。フランス国民が皆心配していると言ってもいい。もちろんいままで幾度も一流の医師の治療を受けてきた。残念ながら満足な結果が得られたとは言い難い。でもよくなる可能性が全くないわけではないと思うんだ。可能性はゼロではない。それはきっと兄さんも認めてくれるでしょう。そこでだ。ヴァンサン教授の話は、聞いたことがあるかな?パリの有名な脳外科医で、かなりの腕前であることは、世界中が認めている立派な医者だ。だから兄さんにも、ヴァンサン教授の診察だけでも受けてもらおうと思うんだ。どうだろうか、見てもらうだけでも。なにかよいヒントがでてくるかもしれないし。」
「ああ・・ああ・・」
「ヴァンサン教授の手術の腕前はすごいらしいのよ。今までたくさんの奇跡を起こしてきているの。もうだめだと思われていた人が、彼の手術で奇跡的に助かっているの。それも一人や二人じゃない、かなりの数の人よ。私も会ってきたの。すごくいい先生よ。すくなくとも診察を受けるだけの価値はあると思うわ。」
「・・ああ・・」
「・・・じゃあ兄さん、いいね。実は、出発の荷物はレヴロ夫人に作ってもらってある。なあに短期間パリに滞在するだけさ。そんな大げさなものじゃない。」
「そうよ。診察と、ちょっと検査があるだけよ。」
ラヴェルはうなずくように、ゆっくり答えた。
「・・・わかっているんだ・・・これからどこに行くのか」

 ラヴェルは寝室でレヴロ夫人により手際よく髪を整えられ、着替えさせられる。ネクタイを選ぶのになかなかラヴェルが首を縦に振らないのを、レヴロ夫人は根気よく付き合う。ラヴェルは鏡の前に立ち、隙のない身なりになったことを確認し、友人たちの待つ客間に入る。友人たちはほっとした顔を見せる。
「やあ、いつもながらのラヴェルだね。」「いいネクタイですのね」「今からならパリの夕食に、じゅうぶん間に合うな。」
さあと連れ出そうとする友人たちに、ラヴェルは横を向く。その視線の先を追うと、窓から、夕暮れのイル・ド・フランスの景色がある。友人たちも無言で景色を見る。それからせかされて、ようやくラヴェルは部屋を出ていく。友人たちはやたらと気を使い、ラヴェルの荷物、ラヴェルの足元、忘れ物がないかにまで注意して、ラヴェルの面倒を見ようとする。ラヴェルは玄関の階段を下り、道路に止まっている自動車に乗り込む。友人たちも車に分乗する。一行の自動車はエンジンの音を立て、ライトをつけると動きだし、家の前から去っていく。

 家の中はレヴロ夫人のあちこちを歩き回る足音がして、バタバタと何かを片づける音、掃除する音、部屋の扉を閉める音などが聞こえている。しばらくの間騒がしい音は続いていたがそれも止み、最後に玄関の扉が開く音閉まる音がする。ガチャガチャと鍵を閉める音が家の中に響き、それきり静かになった。

 部屋の中は急に暗くなっていく。暗闇が完全に包む直前の一瞬、ピアノの上や壁際に飾られた、ラヴェルが大切にしていた部屋の中の小物達が、カタカタと動き出した。
ガラスの中の波に揺れる帆船。
台の上でくるくると踊る人形。
卓上電燈がほのかに光り、
羊飼いは歩きだし、
小鳥は羽を広げる。
しかし一瞬命を与えられた小物達も、まもなく元通りの、動かない姿になる。
いつの間にか、部屋の片隅の蓄音機に電気が入っていて、レコードが回っていている。

・・・ロンサール、己が魂に・・・
   井上究一郎訳
ロンサールの小さな魂よ
かわいい、やさしい魂よ
ずいぶん住みなれたこのからだから、
おまえは降りてゆく、よわって、
青ざめて、やせて、ひとりぼっちで、
つめたい「死者の王国」へ。
しかし、無邪気で、殺人だの毒薬だのの
呵責もないし、うらみも残さず、
人の世がうらやむ財貨も、
寵遇も、さげすみながら。

行く人よ、そうよ、君の道をたどれ、
私の休息を乱すな、私はねむる。
      岩波文庫 ロンサール詩集


    参考文献
文献1 ラヴェルのピアノ曲 モランジュ/ペルルミュテール著 前川幸子訳 音楽之友社 昭和45年
文献2 ラヴェル・ピアノ曲集Ⅰ 古風なメヌエット/亡き王女のためのパヴァーヌ
     校訂・監修ヴラード・ペルルミュテール 注釈・訳岡崎順子 音楽之友社 2000
文献3 脳と音楽 岩田誠著 メディカルビュー社 2001年
文献4 ラヴェルと私たち  E・ジュルダン=モランジュ著 安川加寿子・嘉乃海隆子共訳 
     音楽之友社 昭和43年
文献5 ラヴェル----回想のピアノ マルグリット・ロン著 ピエール・モロニエ編 
     北原道彦・藤村久美子訳 音楽之友社1985年
文献6 ラヴェル-----その素顔と音楽論  マニュエル・ロザンタール著 マルセル・マルナ編 
     伊藤制子訳 春秋社1998年
文献7 ラヴェル ---生涯と作品--- ロジャー・ニコルス著 渋谷和邦訳 泰流社1987年
文献8 ラヴェル ---生涯と作品--- アービー・オレンシュタイン著 井上さつき訳 音楽之友社2006年
文献9 音楽家の家 名曲が生まれた場所を訪ねて 文/G・ジュファン 訳/博多かおる 西村書店2012
文献10 モリス・ラヴェル その生涯と作品 シュトゥッケンシュミット著 岩淵達治訳 
      音楽之友社 昭和58年
文献11 クラシック音楽辞典 平凡社 2001
文献12 ラヴェル  ヴラディミール・ジャンケレヴィッチ著 福田達夫訳 白水社 2002
文献13 わが愛の遍歴 アルマ・マーラー=ウェルフェル 塚越敏・宮下啓三訳 筑摩書房 1985
資料14 DVDピーターと狼 子どもと魔法 クリエイティヴ・コア株式会社 
      コロムビアミュージック エンタテイメント株式会社

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この記事へのコメント

ユーーーカリ
2017年02月25日 22:09
胸に迫り、締め付けられるようでした。ラヴェルが望んだかは私には分かりませんが、経験したかもしれない幾つもの温かさが、ロドルフォさんの描かれた世界のなかにありました。ラヴェルの作曲した「王女」は誰だったのか、少し前まで気になって仕方ありませんでしたが、曲を聴き、思い浮かんだ王女で良いではないかと、こちらのブログで思わせて頂きました。ありがとうございました。
ロドルフォ(管理人)
2017年02月27日 20:19
最後までお読みいただき、さらにはおほめの言葉までいただき、ありがとうございました。ラヴェルはあまりにも気の毒な亡くなりかたをされたので、最後はこんな夢でも見てほしかったと言う願望を書きました。ピアノ協奏曲につけた詩のところから書き出し、結局最後まで詩をいじくっていました。ラヴェルの音楽にくらぶべくもないですが、自分で自分の詩に感動していました。
ユーーーカリ
2017年02月28日 20:25
詩から、ラヴェルへの深い温かい想いを感じさせて頂き、ラヴェルが晩年に見た景色はどのようだったろうかと想像をかきたてられました。私も以前、亡き王女のためのパヴァーヌからわき出たイメージを書いてみたときは、自分でうっとりしました(笑)
ル・クレジオ
2018年01月20日 00:55
独学のピアノ弾きです。素晴らしい記述です。今、亡き王女のためのパヴァーヌに取り組んでいますが、ラヴェルの、仮面の下の優しさ、憂いを思いながら、この簡潔で、美しい佳品と、付き合いたいと思います。沢山の作品と、文献の咀嚼ののちに、記された文章と複数の演奏のコンポジションから、ラヴェルの生涯を、追想することができました。素晴らしいブログです。ありがとうございます。
管理人
2018年01月20日 22:51
私は中年になってから先生についてピアノを始めました。数年前の発表会で亡き王女のパヴァーヌを弾きました。まさかこんな曲が弾けるようになるなんて、始めた当初は思いもよりませんでした。今ではもう弾けませんが、主題の再現部の左手の分散和音をテンポどおりにはめこむのが難しかったと記憶しています。

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