エルッキ・メラルティン ピアノ組曲 悲しみの園(その2)

   2 愛の小径


 どうして好きになってしまったのかしら。なぜなのかしら、どうにもならないことが最初からわかっていたのに、好きになってしまうなんて。いったいわたしはどうなってしまったのでしょう、何を期待していたというのでしょう。これは無駄なことなの、何の得にもならないことなの、いけないことなのよ・・・そう幾度も自分に言い聞かせましたが、わたしにはどうすることもできませんでした。

 こんなことは初めてです。これまでこんな気持ちになったことはありません。こんな時、お母さんならどうなさったでしょう。子供のころ、わたしが困って泣いていたとき、お母さんは私を呼んで、わたしを前に座らせ、髪を梳いてくださいながら、色々なお話を私に聞かせてくださいました。大丈夫、心配しないで、もう大丈夫よ。この髪にはね、あなたを守ってくれる精霊がいるの。これは魔法を持った髪、きっとあなたを助けてくれるわ。でもよく考えるのよ。よく考えない人からは、精霊が逃げてしまうわ。そう言ってお母さんは髪を梳いてくれました。

 小さい頃なら少しは信じていたかもしれませんが、大人になってみればもちろん精霊なんてばかばかしいことです。でも、気が付いたことがあります。
 たいていの大人は、特に男の人は、わたしの頼みごとなら、よほどの無理を言わない限り、聞いてくれる、ということ。他の女の子が同じように頼んでもだめだったことが、です。
 わたしの髪はほかの人のとは違います。もしかすると、ほんとうに力があるのかもしれません。
 ピアノが弾きたいと父に頼んだ時も、自分の娘がその見事な髪でピアノを弾いたら、さぞきれいに見えるだろう、ということから父はピアノを買ってくれました。そしてピアノ教師を見つけてわたしに習わせて、わたしがピアノを弾くのを見ているのが好きでした。わたしは少し得意でした。

 でも、ピアノを本気で弾こうと思ったのは、あの人の音楽を聞いてからでした。ピアノの先生が、小さなリサイタルを開いて、そのアンコールにひかれたピアノ曲。今まで聞いたことのない音楽。その曲を聞きはじめたとたん、すっと曲のメロディーがわたしの中に入ってきます。わたしは驚き、とまどいました。息がつまって、体は縛られたように動けなくなりました。でも心はどこか遠くへと誘い出されていきます。
 その作曲家の名前は、エルッキ・メラルティン、初めて耳にする名前。わたしはその人の名前を、石に刻みつけた文字を指がたどるように、幾度もそっと心の中でくりかえしていました。
 その日から、その曲のメロディーが、歩いている時、夜眠ろうと横になったとき、食事をしている最中にも 不意に現れてはわたしを驚かせました。心の中に聞こえているのは優しい旋律であるのに、逆にわたしは、この人は悲しんでいる、この人はさびしい思いを抱いている、と感じていました。そしてこの人がわたしを呼んでいるように思えたのです。この世の中で、彼のことをわかってあげられるのは、このわたしだけ、この人を幸せにできるのは、このわたしだけ、ほかには誰もいない。そんな気がしたのです。変な思い付きですが、確かにそんな気がしました。

 メラルティンのことを知っている人はわたしの周りにはいませんでした。楽譜を見せてくれたピアノの先生も、若手の作曲家らしいということしか知らなかったのです。わたしは思い切って出版社や音楽関係の施設に手紙を出して、その人はヘルシンキの音楽院で教えていることを知ることができました。それからというもの、わたしはピアノの猛特訓をはじめました。どうしても音楽院に入学して、その作曲家に会ってみたかったのです。

 わたしは両親に無理を言って音楽院を受験しました。試験当日、驚いたことにそこでのピアノの実技の試験官が、彼だったのです。彼は、想像していた人とはちょっと違いました。ひげを生やし、じっとこちらに目をすえ、指さしなどしながらはっきりしゃべり、怖いほどです。緊張して課題の曲を弾き終えたとき、彼によかったと言われて、心底ほっとしました。
 試験の結果は合格でした。わたしがヘルシンキに出ることに、お父さんは良い顔をしませんでしたが、最後には許してくれました。わたしはすでに彼が結婚していて子供までいるということを知っていました。それはたいした問題じゃない。彼は先生でわたしは学生。ただそれだけ。何の問題もない。そう自分に言い聞かせていたのです。

 入学した後はできるだけ彼の授業を受けるようにしました。彼はいつでも厳しい顔をしていて、音楽のことしか話しませんでした。でも、決して彼が単なる堅物でなかったことは、教えている最中に時折見せるふとした表情や、誰かと立ち話をしているとよく変わる表情からわかりました。彼の授業は難しく、ついていくのも大変で、わたしは懸命に勉強しました。個人的にも彼のピアノのレッスンを受けることにしました。そばにいられるのがうれしくて、わたしはがんばってピアノの練習をし、たまに褒められることがあるとその日はとても気分がよかった。一日の終わりには、その日言われた彼の言葉を思い出すのを日課にしていました。

 わたしに音楽以外のことを話してくれる時は来るのかしら。きっとその時彼はやさしく話しかけてくださるに違いない。でもわたしは何を話したらいいの。どうしたらいいの、彼には妻と子供がいて、音楽院の立派な教師で、わたしが彼に近づくことなんて、できるわけがない。公園で、一人散歩しているのを何度か見たけれど、怖いような顔つきで考え込みながら歩いているので、とても声をかけることなどできなかった。
 許されない事を、自分に許すべきではない。わかっています、そんなこと。だからこのまま何も起こらないほうがよかった。わたしは音楽院を無事に卒業して、ピアニストに、それが無理ならば地元に戻って音楽教師にでもなります。そして平凡な結婚をして子供ができて、何事もなく人生が過ぎていければいい。そんなふうに思っていたのです。

 でも、もしもよ、もし奇跡、なんていうものがこの世にあって、奇跡がおきたとしたら?・・・どうか奇跡よ、もしもこの世に存在するのなら、このわたしにおきてほしい。どんな奇跡だか今はよくわからないのだけれど、それでもおきてほしい。そして彼がわたしの方を向いてほしい。・・・生きている生身の人間なら、きっとそう思うでしょう、それが本当ではないかしら。

 わたしはひそかに、あの初めて聞いた彼のピアノ曲を練習していて、それをクリスマスの会で弾きました。彼は驚いてはくれましたが、ただそれだけで何もおきませんでした。わたしはがっかりしました。その頃彼は新しい交響曲の仕事に熱中していて、それどころではなかったようです。とても忙しそうでした。

 その新しい交響曲の演奏会には学院の友人たちと一緒に行きました。彼はきれいな奥さんと一緒に来ていて、周りにはいつも人だかりがしていました。彼はその応対に忙しそうで、わたし達はどうにか一言だけ挨拶をすることができただけでした。夫妻をじっと見ていて気が付いたのですが、2人の間の会話はなく、目を交わすことも避けているようで、なんだかよそよそしい様子でした。
 彼の新しい交響曲は、期待にたがわぬ素晴らしいものでした。第4楽章の始まりのメロディーなど、暖かくて優しくて、彼がわたしのそばによりそってくれたような気がして、涙が出そうになってしまいました。演奏会が終わった後も、しばらくその感動に浸っていました。友人たちはやっぱりシベリウスは素晴らしい、などと言っていましたが、わたしはメラルティンの方が優れていると言って、議論になりました。

 次のピアノのレッスンで彼に顔を合わせた時、この交響曲のことを話しました。冒頭に現れるモチーフを、わたしは運命のテーマと名付けていました。それは、曲全体を貫いて荒々しい力を見せつけるのだけれど、曲が進むにつれて次第に変化しおだやかになっていきます。きれいな旋律が次々に現れては消えていきますが、それはまるで、運命に翻弄される人間の悲しみや寂しさを表しているように聞こえました。ただ、音が多すぎて複雑に聞こえてしまうので、一般の人には難しすぎたのかもしれません、とも付け加えました。そんな話を彼はじっと聞いてくれて、こちらがびっくりするくらい喜んでくれました。それからは、わたしがそれまで見たことのないほどの優しい笑顔で、この交響曲のことや最近の興味ある音楽の動向などについて話しをしてくれました。そしてこちらが恐縮するほど、わたしにいろいろと気を配ってくださいます。その日はレッスンの時間を大幅にこえて話こみました。

 その後、いつもの公園の散歩道で、わたしは思い切って彼に走り寄って話しかけてみました。今度は大丈夫で、ちょっと怖そうだった顔が急にほころんで、歓迎してくださいました。音楽はもちろん、絵画のことや文学のこと、公園に今咲いている花や木の名前、それにまつわる話、それから彼が熱中している絵葉書や貝殻のコレクションのことまでも話してくれます。わたしも話したいことがたくさんあって、いくら話しても、話し足りるということはありませんでした。
 彼は毎年夏に湖水地方のコテージに出かけるのだと言っていました。奥さんとは喧嘩したので、今年はそこに一人で行くのだそうです。彼はコテージのある集落の名をおしえてくれました。わたしは休暇中帰る予定の、実家のある西海岸の町の名を言いました。その時はまだそのつもりでいたのです。

 でも、もしかしたら奇跡が起きるかもしれない。そうささやく声が心の中に聞こえました。

 さすがにコテージにいる彼を尋ねて、直接会いに行こうとは思っていませんでした。集落の地区は広すぎて、とても彼のコテージを探し出すことなどできません。わたしはただ、一人になるのがさびしくて、彼の近くに行ってみたかっただけでした。決して会うことなく、どんな場所で彼がひと夏を過ごすのか見て、それで帰ってくるつもりでした。

 ちょうど夏至祭が始まろうとしていた、晴れて穏やかな日でした。彼が出発したその後を追うように、わたしは汽車に乗り、途中馬車便に乗り換えて、その集落に向かいました。馬車は湖のほとりを走り、森の中に入ります。やがて森が開けるとまた湖があります。木々は緑に輝き、地面はたくさんの花々が咲いていたはずです。でもわたしは馬車がどこを走ろうとも上の空で、彼のことだけを考えていました。

 目的の集落につき、馬車から降り立ちましたが、わたしは彼のことを人に尋ねることはしませんでした。町は小さいし、夏至祭でいくら人出があるといってもたかが知れています。わたしのような金髪のよそ者が入っていけばとても目立つにきまっています。わたしは遠くから、彼の姿を探すことにしました。夏の夜は短いし、彼の姿を一晩見て、翌朝にはヘルシンキに戻ろうと思ったのです。

 その集落の湖のほとりでは、夏至祭のかがり火のための大きな木組みの準備中で、周りにはすでに人々が集まってさわいでいました。
 わたしは祭りから離れたところで彼を見ようと思いました。岸辺から見渡してみると、集落は湖の細い入り江に面しているので、大きく迂回して湖岸を歩けば、集落の対岸に行けそうです。そこでわたしは、かがり火のある場所から遠ざかる方向へ湖畔を歩きだし、ちょうど湖越しに集落が見える対岸をめざしました。歩きはじめてみると、考えていたよりずっと距離がありました。夕闇が迫り、空が次第に暗くなって、星が瞬きだしました。そしてすっかり暗くなってきた湖面のはるか遠くで、かがり火の炎がいくつか、小さく光りだしました。湖面を渡る音楽や歓声が大きくなってこの集落の木組みにも火が入ったとき、わたしはようやくその対岸につくことができました。

 わたしは彼を見つけました。彼は片手にコップを持って、周りの人たちとしきりに話をしています。立ち上がって楽器演奏者のところへ行き、二言三言声をかけ、踊りの輪に加わります。ひとしきり踊って、そして座り込み、また飲みだしています。
 どのくらい時間がたったのでしょう。彼は湖を見回しました。そしてこちらの方向を見た時、その動きが止まりました。わたしの胸は高鳴りました。そのまま時間も止まったのではないかと思いました。次の瞬間、彼ははじかれたように立ち上がり、ほとんど同時にわたしも1,2歩踏み出していました。
 彼は湖岸を走り出しました。近くの小さな舟着き場を見つけ、そこにつないであった小舟にとび乗るとわたしに向かって漕いできます。彼は振り返ってはわたしの姿を確かめ、また振り返ってはわたしを確かめて、近づいてきました。

 舟底が岸あたると彼は舟を飛び下り、水に濡れるのも構わず私の方に駆けてきます。
「ラウラ、どうして・・・」
彼はわたしをじっと見つめ、いきなり強く抱きしめました。彼のぬくもり、彼の息遣い、彼の顔、そして彼の唇・・・。音が消えて、夏至祭も、これまで生きたすべての世界もまた、はるか彼方へと消えていきました。

 彼はわたしを小舟に乗せて夜の湖に漕ぎ出しました。人々のざわめきがかすかに響いてきます。2人を乗せた小舟は緩やかに揺れてそっと水音を立てながら、夜の湖水の上を滑っていきます。舟べりから手指を差し出せばここちよい湖の水。見上げれば星と青白く輝く丸い月。目の前には彼がいて、彼の向こうには湖水にゆらめく遠くの小さなかがり火がいくつか見えます。永遠というものは、こういうところにあるのではないでしょうか。言葉はありませんでした。
 小舟の行先に、漆黒の森を背景に小屋が見えてきました。湖畔にたたずむ建物の黒い影はしだいに大きくなり、小舟は着いて、彼はオールを置きました。わたしたちは手を取り合って、そのままその小屋への道を歩き出しました。


 なんという幸福に満ちた日々だったのでしょう。小屋の周りは森と湖だけ、わたしたちを煩わすものは何もありません。日が昇ると私たちは一緒に目を覚まし、手をつないで一緒に森の中を歩きました。小鳥がさえずり、リスが遊びに来て、湖には魚の群れが見えました。小舟に乗って遠くの町にまで出かけ、店の人にじろじろ見られるのをがまんして食料を買ってきます。小屋に帰るとまき割りをして、火を起こして食事を作り、サウナの準備をしました。熱いサウナで温まると、そこを飛び出して裸のまま湖で泳ぎます。彼はわたしのことを大気の乙女と呼びました。わたしは彼のことをレンミンカイネンとよびました。もっと繊細な大人かと思っていたのに、意外と大胆でいたずら好きの子供のようであったからです。
 素晴らしい夏の日々、わたしがあんなに幸福であったことはありませんでした。完全に満ち足りた、幸福の日々。

 でも、どんなにすばらしい日々にも、終わりというものがやってきます。かけがえのない時間は過ぎて、過去の記憶になってしまいます。わたしたちは小屋を閉めてヘルシンキに戻りました。大都会ではそれまでのようにおおっぴらに会うわけにはいきません。ひそかに待ち合わせをして人目を避けて公園を散歩したり、時には港の見えるお店でお茶を飲むような冒険をしました。目の前には厳しい現実が立ちはだかっていたのですが、その頃のわたしたちはまだ喜びの余韻に浸っていることができたのです。

 夏が終わるころ、自分の体に変化がおきていることに気が付きました。わたしは妊娠していたのです。



     3、乞食の子の子守歌


 後戻りすることができないものが動き出そうとしている。このまま進んでいけば、すべてを破壊してしまうものが。私のこれまで築いてきたもの、私の地位、私の生活、私の誇り、それらをすべて失ってよいのか。今は離れているにしろ、私の妻、私の子供、それを捨ててしまうことが正しいことであるのか。そんなはずはない、そんなことは許されない。しかし、人に何と言われようとも、この結果がどうなるにしろ、先に進むと、あの時私は決めたのだ。夏至祭の夜、湖の上で、彼女に向かってオールを漕ぎながら。私は決めたのだ。私は失うだろう。これまで築きあげてきたすべてのものを。だがいったいそれがなんだというのだ、今までの私は偽りであって、これから本当の自分の人生が始まるのだ。これは運命なのだ、運命が私を突き動かしているのだ。今までの私というものはなんともろいものであったか。運命の一突きで簡単に崩れてしまった。

 いつからだろう、いずれこうなることを、ラウラに会う前から私は知っていた気がする。自分の中の何かが、この人生は自分にはできすぎだ、こんなことはありえないことだ、自分にはふさわしくないものだ、とささやいていた気がする。多分私は、自分はこういう人間だと、自分を欺いてきた。それをはっきり私にわからせたのは、ラウラだった。あの夏至祭の夜、彼女の姿を湖の対岸に見つけた瞬間に、すべてを悟った。あのとき、ボートを漕ぎながら、私は覚悟を決めた。もとの岸には私のこれまでの人生がある。私はそれらから離れ、ラウラのいる新しい世界に行くのだと。
 ここまでくれば、あとは進むしかない。彼女から妊娠を告げられても、それは覚悟の上のこと、驚きはしなかった。私は嬉しかったのだ。動揺するどころか、逆にどんどん冷静になった。ラウラを一人ぼっちにするわけにはいかない。一人ぼっちで私の子供を産ませるわけにはいかない。私たちは一緒になる、たとえすべてを失って乞食になったとしても。ラウラはおびえて泣いていた。私は彼女を慰め、言った

 大丈夫だ。心配しなくていい。私はおまえのそばから離れない。これからもずっと一緒にいる。でも、もうこの町には居られない。二人でこの国を離れて、ヨーロッパの、音楽の中心に行こう。ウィーンがいい。あの町には2年間住んだことがある。あの町がどういうところなのかはよく知っているし、あの町の音楽家にはつてがある。これまで僕が書いた交響曲とかを売り込んで、演奏されるようになれば、いくらかの金になる。いや、いきなり大曲は無理かな。まずはピアノ曲からだ。新しく作曲もするし、出版もする。とりあえずピアノを教えていればなにがしかの金にはなる。確かに最初はちょっと生活が苦しいかもしれないが、二人で力を合わせれば、なんとかなるさ。君を必ず幸福にしてみせる。これはね、僕にとっても大きな飛躍のチャンスなのだからね。もうすでに、以前お世話になった教授たちには手紙を出してみてある。今でも文通しているかつての仲間がいて、しきりにウィーンに来ることをすすめていたのさ。大喜びで僕たちを歓迎してくれるだろうね。

 ラウラは不安そうであったが、最後にはにっこりと笑ってうなずいた。美しいラウラ、気高く、誇り高い、私のラウラ、私は彼女の髪にふれ、子守歌を歌いながら、背中をずっとなでさすっていた。

 私は忙しくなった。ヨーロッパ行の船便や向こうでの宿泊の手配をした。向こうで役に立ちそうなところには片っ端から手紙を書いた。これまで書き溜めていた楽譜の、出版するのに手ごろなものを選んで荷物に詰めた。持っていくことのできない自分の荷物は次々に捨てた。
 妻がひょっこり顔を出したことがあった。驚いて何か言いたげな様子ではあったが、私は目を合わすことなく問いかけには答えなかった。騒がれて計画に支障が出ることが嫌だったのだ。出発してから別れの手紙を送ればいいと思った。妻はあきらめて帰っていった。

 問題は音楽院だった。すんなりと辞めさせてくれるはずはなかった。楽院長は私の恩師であり、生活上のことまでいろいろと世話までしてくれた。今回楽院長の期待を裏切ることになり、それがとても心苦しかった。
新しい学年が始まろうとしていた時期だった。私は楽院長室に職を辞す挨拶に行った。いつもの見慣れていたはずの建物が、まるで来たことのない所に見えた。階段を上がり、まっすぐの廊下の奥の楽院長室に向かった。楽院長は在室していた。

 楽院長は私の話を静かに聞いていた。私の話が終わり、しばらくの沈黙ののち、彼は話し出した。

 正直に言おう。ウィーンで活躍したいとの気味の希望だが、それはかなり難しいだろう。ウィーンでは今どんな音楽が流行っているのか、君が一番よく知っている。毎年毎年とてつもなく変化してきていて、我々の想像もつかないところへと向かっている。たしかに君には才能があるが、それはこのフィンランドの地に根差したものだ。この土地を離れては君の才能は育つことはできない。君はこの国で必要とされている人材だ。それに、君にはまだこの国に対する義務が残っているではないか。君は君の作曲科の授業をどうするつもりなのだ?代わりの者がすぐに出てくるとでも思っているのか。いったい君の良心はどうなっているんだ。
 いや、わかっているよ、原因は女だろう。ラウラだな、あのブロンドの。そうか。彼女には私の方から手を打とう。一時期ののぼせ上りからすべてを捨ててしまうことはない。はやまるな。君は義務というものを忘れてはいかんぞ。

 音楽院長の怒りと失望がありありと伝わってきて、もっともなだけに私にはつらい時間であった。しかし、私の決心は揺るがなかった。私は楽院長のもとを辞した。運命の時計は動き出している。誰もその針を止めることはできないのだ。私が音楽院を辞めるといううわさはすぐに広がった。出発の日時は秘密にしてあったのだが、それまでの幾日かは同僚たちの非難や生徒からも嘆願に耐えなければならなかった。


 出発の朝、私は馬車にトランクを乗せて、ラウラとの待ち合わせの店へと向かった。
 そこはラウラとお茶を飲みに来たことがある、ヘルシンキ湾の船着き場に近い小さなレストランだった。店は海沿いの道路に面していた。私は店の外がよく見える場所を選んで座った。道路では馬車や荷車が行きかい、旅行者はじめ多くの人たちが荷物を持ったりしながら歩いていてにぎやかだった。道路の向こうはヘルシンキ港だった。そこは大きな船や小型のボートなどが行きかっていて、その向こうには湾内の小島が見えていた。ななめ向こうの方には、これから乗る予定のヨーロッパ航路の大型船が見える。冬がすぐそばまでやってきていて、風が強く、空には黒雲が大きく広がって海は波立っていた。

 間もなく私たちの待ち合わせ時間になろうとしていた。そのとき、
 雨が降り出した。

 ぱらぱらと道路に水玉模様がつきだしたかと思うと、激しく音を立てて降ってきた。道路は瞬く間に濡れていき、港の視界は白くさえぎられた。風が吹いて雨脚がみだれ、側溝に水が流れ出した。道を歩いていた人たちは慌てで走りだし、雨宿りのために集まってきて、店の中は急にごった返した。



   4、雨


 こんなことってあるのかしら、こんなことが自分におきてしまうなんて。これは、いけないこと、これが他の人の事だったら、きっとわたしは軽蔑していたでしょう。初めから、こうなることはわかっていたはず。それなのに、どうしようもない。自分ではどうにもならない。起きてはいけないことだったのに、どうしてこんなことに、なってしまったのかしら。

いいえ、そうじゃない、それは違う。これはわたしが望んだこと、こうなることをわたしは望んでいたの、奇跡、というものが起きて、あの人と結ばれることを、わたしが願ったの。だから奇跡は起きた。愛すること、信じること、大切にすること。それができるから、今のわたしは幸せなの、今が一番幸せな時よ。このおなかに彼の赤ちゃんがいる、この中に新しい命がある。生きるのよ、新しい命、わたしと一緒に生きるのよ。

でも怖いの、音楽の生活も、故郷に住む家族も、この祖国も、わたしは捨てることになる。彼はわたしを捨てたりはしない、一人きりにしないと言ってくれるけれど、わたしはその言葉にすがるしかすべがない。彼は真剣よ、情熱的で、大胆で、でもちょっと向う見ずなのではないかしら。これからウィーンに行くなんて、本当の事なのかしら、大丈夫なのかしら。でも信じるしかないの、彼を信じていくしか、この赤ちゃんも、わたしも、助かることができない。

 友達が来て、荷物を整理しているわたしを見て、これからどこに行くのかって聞いた、でもわたしは黙っていた。本当のことを言ったら、大騒ぎされることは分かっていたから。ちょっと引っ越しよ、ここは気分がよくないの。友達は荷物をまとめるのを手伝ってくれたわ。

 音楽院の楽院長先生が私に会いに来た時は、びっくりした。私をよびだして、話しだした。あなたは今、いけないことをしようとしている。一人の人間を、破滅に追いやろうとしている。彼は、新しいフィンランドにとって、なくてはならない人材だ。その人の妻と子供のことを考えたことがあるのか。あなたはそれがわからない人ではない。今ならまだ間に合う、彼のことはあきらめなさい。あなたには良い音楽教師の就職先を探してもよいし、留学の便宜も図れるだろう。希望があれば音楽業界でなくても、私ができることならなんでもしよう。

 わたしは答えようがありませんでした。いつの間にかわたしの手がおなかをなでていました。楽院長先生はそれを見逃しませんでした。
まさか子供を、と顔色を変えました。
わたしはは、そうなのです、と答えました。
楽院長は眉間にしわを寄せ、肩をそびやかして言いました、恥ずべきことだ、君は娼婦なのか。
わたしは返事のしようがありません。院長先生は苦り切った様子で帰って行きました

 その後しばらく、わたしの震えは止まりませんでした。
もう迷っているわけにはいきません。わたしは覚悟を決めました。でも、
その日の晩から出血がはじまったのです。出血は止まりませんでした・・・ 

 なぜなの、こんなことはあってはならないこと、絶対あってはいけないことなのに。なぜそれがわたしに?どうしてわたしなの、どうしてこんなことが起きるの。赤ちゃん、赤ちゃん、わたしの赤ちゃん。わたしの希望、わたしの喜び。どうして神は希望をお与えになってから、それを奪うのですか。これが罰なのですか、わたしの過ちに対する、これが罰なのですか。

 奈落の底に突き落とされるというのは、こういうことを言うのでしょう。わたしは泣きました。泣いて泣いて、どれだけ泣いていたのか自分でもわかりません。でもいくら泣いても取り返しがつくことではないのです。わたしは泣くのをやめました。
 子供を失ってしまった以上、彼と一緒にウィーンに行くことはできない。彼とは一緒になれない。私は彼の家庭を壊し、彼の地位を壊し、彼に祖国を捨てさせようとした。でももう、そうする理由がない。彼と一緒になる理由がない。わたしが幸福になって、ほかの人を不幸にするなんてできない。彼はこれまでと変わらぬ彼でいるべきなの。変わらなければならないのは、このわたし。いつまでもあの人のことを考えているわたしの方よ。わたしは、変わらなければいけないの。

 わたしは血の付いた体を拭いて、床を掃除し、手を洗いました。汚れた服は捨てました。わたしははさみをさがしました。涙を拭いて、ようやく荷物の中から見つけました。わたしは鏡の前に座り、髪を切りはじめました。娘のわたしを守り、わたしの誇りであり、彼が愛してくれた、わたしの髪を、切りました。次々と床に落ちる髪、落ちて散らばる髪、さようなら精霊さん、これからわたしは一人で生きていくわ。

 みじめね、鏡の中のわたしの顔は、みじめね、涙でぐちゃぐちゃになって、ひどい顔。髪を切ったわたしは、とても弱々しく見える。この顔で故郷に帰るのね、西の海に面した、赤い屋根の家が並ぶ、古い小さな町。波の音は静かで、夕焼けがきれいだった、あの町へ。
 自信たっぷりで出てきたのに、帰る姿はなんてみじめなの、これではわたしがかわいそうすぎるわ。

 そうだ、奇跡よ、もう一度、奇跡にかけてみましょう。きっとまた奇跡は起きてくれる。
夏至祭の夜に彼がわたしを見つけたように
そして彼の子供を宿したように、
もう一度だけ奇跡は起きる、
奇跡ならわたしは許される、
奇跡でなければだめ、
彼がわたしを見つけ出すという奇跡。

 待ち合わせのお店は小さくて、ほとんどの席から外が見えたわ。お店は混んでいないはずだし、彼はきっと窓際の席で外を見ている。わたしはお店には入らないで、道路を隔てた反対側の海沿いを歩くの。彼の方は見ないで。ただそれだけ。一回きりしか歩かないわ。一回きりしか歩かなくても、きっと彼はわたしを見つけるわ。たとえ髪を切っていても、彼の方を見なくても、彼にはわたしだということがすぐにわかるはず、だって目の前を横切るのよ、見つけられないはずはないわ。荷物は預けておきましょう。わたしはこの身一つで歩いていくの、きっと彼はすぐにわたしを見つける、そしてわたしの名を呼んで、わたしは振り返る、そうしたら彼が手で小さく合図するの。わたしは彼のもとへと走っていく・・・

 時間だわ、行きましょう。わたしはこの奇跡にすべてをかけるの。これでわたしのすべてが決まるのよ、結果がどうなろうとも、わたしは運命としてそれを受け入れる。でも、きっと奇跡なんて簡単なこと、心の底から信じることさえできれば。ああ、雨だわ、もうすぐ待ち合わせ場所なのに、雨が降ってきた。濡れてしまうけど、仕方がない行きましょう。秋の雨って冷たいのね。
ほら、待ち合わせのお店が見える。雨宿りをしようとする人がたくさん、店の前に集まってきて、中に入っていく、お店は人でいっぱいね、あそこに彼が見える、窓から外を見ている。
おねがいよ 髪を切ってずぶ濡れだけど わたしはわたし 本当にわたしを愛しているのなら
見つけ出すことは簡単なはず あなたにならわかるはず
お願い 見つけて わたしを見つけて
お願い どうかこのわたしに
最後の 奇跡が
おきて
・・・



  5、孤独


 結局こうなるしかなかったのか。こうして一人きりになることが、これが結末であったのか。いや、単に昔に戻っただけなのかもしれない。子供のころから、いつでもこうだった。喘息の持病があって、発作がひどくなると眠れなかった。決まって真夜中で母が付ききりで看病してくれてはいたが、それが幾晩にもなると、母は疲れ切ってうつ伏せになって寝ている。起こすわけにはいかないから、私はベッドの上に座って、天井や壁板の木目を何度も数えながら、朝の来るのを待っていた。ずっと一人で苦しみに耐えてきた。すこし発作がよくなって学校に行っても、すぐに咳が出るから友人たちと走り回って遊ぶわけにはいかない。そのかわり、一人ぼっちの私とともにいつもいてくれたのは、音楽だった。私は音楽の道を選び、努力に努力を重ねて、作曲家の仲間入りを果たすまでになった。音楽を通して孤独から抜け出そうとしていたのに、きっとどこかで道を間違えてしまったのだろう。

 ラウラ、どうしてなんだ、どうして君は来なかったんだ。私はずっと待っていたのに。あの店の窓際に陣取って、ずっと君の来るのを待ちつづけていた。朝から天気が悪くて、海の方角から黒雲が広がってきて、待ち合わせの時間の少し前から、雨が降り出した。長い冬が来る前の冷たい雨。時にフィンランドに降る激しい雨だった。道行く人はびしょ濡れになり、たくさんの人たちが雨宿りのために、大きな荷物を抱えて店に入ってきた。店は喧騒に包まれごった返したが、その中に君はいなかった。雨の中を急いで歩く人たちの中にも、君はいなかった。約束の時間は過ぎて、出航の時間が来て、私たちの乗るはずだった船の汽笛がヘルシンキ湾に鳴り響き、目の前の海を船はゆっくりと横切って行った。それでも私は待っていた。待っていることしかできなかった。心の明かりがひとつひとつ消えていった長い時間。今でも私にはわからない。なぜ君は最後に私を裏切ったのだ。私がそれほど信じられなかったというのか。

 私はラウラの下宿先へと行った。こぎれいな小さな家の一室。その頃には雨はやんでいて、早くも夕闇のために薄暗くなっていた。部屋は空だった。そこの管理人によれば、彼女は昼過ぎに出て行ったとのことだった。管理人は私宛の彼女の手紙を預かっていた。

いとしいエルッキ様
ごめんなさい、赤ちゃんはだめだったの。私のことは探さないで。これ以上あなたを不幸にしたくないから。愛しています。心から。さようなら。  ラウラ・N

 私は茫然として、何度も手紙を読み返した。たしかに彼女の筆跡だった。もはや私は自分がどうしてよいのかがわからなかった。
 つとめて冷静になろうとした。翌日、ラウラが行きそうなヘルシンキ市内のあちこちにあたってみた。彼女はどこにもいなくて、彼女がどこにいるのかを知っている人もいなかった。ヘルシンキにいないとすれば、ラウラが行くところは生まれ故郷であろう、と私は思った。その日の汽車は終わっていたので、次の日ヘルシンキ駅から西海岸へ向かった。1日かけて彼女の故郷の町についた。小さな町だった。町の人にラウラについて尋ねてみると、すぐに彼女の生家はわかった。西の海のよく見える、見晴らしの良い赤い屋根の立派な家。行くと彼女の母親らしき人が、次いで父親らしき人が出てきた。ラウラの名前をあげると、一瞬のうちにその顔がこわばった。ヘルシンキの音楽院の自分の名前を言うと、その表情は厳しくなった。
「帰ってくれ。ここに娘はいない。帰ってくれ。」
「ラウラは、ラウラさんはどこへ行ったのです?」
「ここにはいないと言っただろう。帰れ。」
「どちらに行かれたのでしょう、ぜひとも伝えたいことがあるのです。」
「この家にも、この町にもいない。船に乗った。西へ向かってな。」
「もうフィンランドにはいないのですか。」
母親らしき老婆が泣き出した。無言のまま扉は閉められ、扉ごしにいくら私が問いかけても、返事はなかった。
 私は日没後の港に向かって下りて行った。船着き場に立ち、西の海を見た。広く果てしのない海、水平線の向こうに陸地はなく暮れゆく空しかない。フィンランドの湖や、島の多いヘルシンキ湾とは全く違う、茫漠たる広い海。
 もはや何ともならないのは明らかだった。私はすべてを失ったのだ。いつまでも未練は残ったが、私はあきらめなければならなかった。

 私は汽車でヘルシンキに帰った。いまさら音楽院に帰ることなどはできない。私の足は自然と、いつも行く場所、あの公園の散歩道に向かった。
 緑であった木々の葉は茶色くしなびてまばらに残るだけで、花壇はうちしおれて咲く花は一つとてない。これから長い冬の眠りに入ろうとしている大地に、風が吹き、枯葉が舞っている。それでも歩きなれた道、いつもならば歩いているうちに頭の中が整理されて、数々の問題が解決できてきた道だった。でも今は、思い出ばかりがよみがえってくる。

 そこの木立で、ラウラは私を待っていた。このベンチに、二人で腰かけた。そこにラウラが見える。おしゃべりが好きで、ちょっと口をとがらせて、小首をかしげて、走っていき、また戻ってくる。私の目の前に、ラウラ、気高い大気の娘がいる。豊かな金髪の、美しいラウラが、私のそばにいて、私の心を慰めてくれる。にっこり笑うラウラ、澄まし顔のラウラ、湖のそばに立つラウラ、花畑を歩くラウラ、ラウラは小舟に乗る、ラウラは湖を泳ぐ、一糸まとわぬ姿で、恥ずかしそうに目を伏せて、私の胸に顔をうずめてくる。ラウラ、君はどこへ行ってしまったのだ?どうか答えてくれ、いったいどこにいて、どうしているのかを。ラウラ、私のラウラ、豊かな金髪を風になびかせて、君が見える。ラウラ、出てきておくれ、君の姿をもう一度見せてくれ、お願いだ。

 しかし、ここにいるのは私だけだ。私一人が、冬枯れの公園の中に立っている。もはやここは私の居られる場所ではない。故郷のカレリアに帰るしかないだろう。私は故郷から一人で出てきた。だから一人で故郷に帰る。ただそれだけのことだ。

 故郷の湖、故郷の森。私の生まれ育った土地。そこにはカレワラの主人公たちが生き、古い言い伝えが数多く残っている。私は森に歩み入り、湖のほとりに立つ。そして耳を澄ます。すると聴こえてくる。湖を渡る風と一緒に、古い物語の音楽が。私はそれを聞いて、音符に変え、楽譜に書きとっていく。最後まで私のそばにいてくれて、最後まで私を裏切らなかったのは、音楽だけだった。私の音楽は、ゆっくりと空へと響き舞いあがっていく。それが空のいちばん高いところにまで達して雲になる。雲は世界中へと旅をして、私の知らない世界へと、雨となって落ちていくだろう。きっとそうなるであろうと、私は信じている。

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