君よ知るや南の国

 子供の頃毎日のように親しんでいたのに、いつしか手に取ることもなくなって捨ててしまい、そのまま忘れていた本を、思いがけない所で見つけて驚く事がある。手に取ってページを1枚1枚めくれば、そのころの古い記憶がしだいのよみがえり、なつかしさが胸を満たしてくる。そういった本を、この前近くの古本屋で見つけてつい購入してしまった。それは筑摩書房の世界音楽全集という数十冊のシリーズのなかの1冊で、大きさは縦横20cmの正方形、厚さは1cmほどで表裏は硬い厚紙でできている。表紙には、我が母の教え給いし歌、故郷の空、懐かしのヴァージニア、まことの愛、きよしこの夜、ローレライなどの曲名が並び、15声楽4とシリーズの番号がふってある。中を開くと曲の解説が簡単に書いてあり、演奏者の紹介するページがあって、その後にソノシートというぺらぺらの薄いセルロイドでできたレコードが数枚入っている。昭和36年発行で、380円。これを古本屋は150円で売っていた。今では価値がまったくないらしい。
画像

 私が小学校高学年のとき、父がこのシリーズを、欠番はあるものの買ってきていた。本の中からソノシートを、音の溝の部分をできるだけ触らないように慎重に取り出す。指でうっかり曲げてしまおうものならそこに爪の跡などがついて、そこで針が飛んでしまうからだ。ターンテーブルの上にセットして、針のついたアームを持ち上げると自動的にテーブルが回転しだす。そしてソノシートの一番外の端に慎重に針を下ろす。シャリシャリと軽い音で音楽がはじまる。ベートーベンの運命、シューベルトの未完成、チャイコフスキーのくるみ割り人形、グリーグのピアノ協奏曲。小学生だった私はこれらのソノシートを毎日のようにあれこれ聞いた。シューベルトの歌曲魔王が入ったソノシートは、余った時間にたしかソーラン節が録音されていた。信じられない組み合わせなのだが、このために今でも私の頭の中では、魔王とソーラン節はセットのままになっている。ピアノの右手の嵐のような3連符、左手の駆け上がる馬の蹄、そしてバリトンが父と子と魔王の物語を歌いだす。最後に「我が子はすでに、死せり」、ジャンジャン、と歌曲が終わると、どうしてもそれに続いて「ヤーレンソーランソーランソーラン・・・」と始まる気がして仕方がない。ソノシートは薄くて携帯に便利で安価で当時は大いに普及したものだが、ほこりがつきやすくて音質が悪かった。まもなく市場から姿を消してしまったし、古い本は引越しの際にみな捨ててしまったので、数十年の間私はこの本のことをほとんど忘れていた。
画像

 今回買ったこの古い本の中に、君よ知るや南の国、という曲がある。トーマ作曲歌劇ミニヨンのなかの第一幕のアリアで、日本語の訳詩が旋律に見事にはまっていて忘れがたい曲だ。本にはこの歌劇の簡単なあらすじが書いてある。ミニヨンという娘が男にからまれて危ないところを、気の触れた老人ロタリオと若者ウィルヘルムが助ける。ここで歌われるのが「君よ知るや南の国」。ミニヨンはウィルヘルムが好きになるが、ウィルヘルムは旅役者の女性フィリーヌが好き。ミニヨンは嫉妬のあまり、皆のいる城が燃えてしまえばいいと言うと、頭のおかしいロタリオはそれを聞いて城に火を放つ。フィリーヌが城の中に置き忘れた花束をミニヨンにとって来いと命じ、ミニヨンは城の中に入りそこで気絶する。それをウィルヘルムが炎の中から助ける。最後の幕は、ある城の中、病気のミニヨンをロタリオとウィルヘルムがつれてきている。城の名前を聞いてロタリオは正気に戻る。なんとロタリオは元はその城の城主で、かどわかされた幼い娘を探して放浪の旅にでていたのだった。そしてその捜し求めていた娘こそミニヨンその人であったのだった。
画像

 めでたしめでたしで幕、ってそんな話は普通はありえない。貧しけれど品行方正な若者、実は貴族のお子様で最後はすべてがうまくおさまる。わかりやすくて多少ばからしいが、歌劇のストーリーなどは話が複雑だと普通の観客はついていけないから、まあこんなものでもしかたがない。この曲は日本では大正時代の浅草オペラのころから有名であったらしい。小学生だった私はこの歌が大のお気に入りで、その歌詞をノートに書き付けたりまでした。いい曲だと思うのは変わらず、今でもついつい鼻歌で歌っていたりする。

君よ知るや 南の国
木々は実り 花は咲ける
風はのどけく 鳥は歌い
時をわかず 胡蝶舞い舞う
光満ちて 恵みあふれ
春は尽きず 空は青き




 ある人の話の中に、この歌の事が出てきたのでびっくりしたおぼえがある。

 その人は大変おしゃべり好きのおばあさんだった。私の診察室にいつも一人で危なっかしくつえをついて入ってくるなり、自分の病状はそっちのけで近所の人の話とか、大病院に受診したときの様子とか、もっと昔の事などを思いつくままに話しだすのだった。そのうち体調が悪くなり外を歩く事ができなくなった。自宅には毎日のようにヘルパーが入り訪問看護が入り、私も定期的に往診することにした。どんなに体が動かなくなって生活に支障が出ようとも、おばあさんは息子の家に世話になったり、老人施設に入ったりする話を断固拒否し、住み慣れた自宅から離れようとしなかった。それでも人の顔を見ればおしゃべりが始まって止まらない。これまでの人生であった事、経験した事を、聞きもしないのに話しだした。もうかなりの年だったから、同じことを何度も繰り返してみたり、前に戻ったり、途中を飛ばして先に進んだりして、話のつながりを理解するのに手間がかかったが、私にはそのおしゃべりがいつのまにか往診の時の楽しみになっていた。

 往診かばんを自転車の買い物籠に突っ込み、ビルや住宅ばかりの街中をしばらく走っていくと、緑の多い地区に入る。そこは戦後しばらくして建てられた古いアパートの立ち並ぶ団地の一角で、おばあさんはそこに住んでいた。たぶんアパートができたときに植えられたのであろう木々は見上げるほどに成長していて、一瞬林の中に入ったかのような錯覚を覚える場所もあった。 木々の緑はそのまま団地の奥の広大な公園の緑へとつながっていて、この地区は住宅やビルの立ち並ぶ周りとは別の世界だった。春には桜、花桃、こぶしなどが咲きだし若葉があざやかで、あちこちのよく手入れがしてある花壇には、それは見事に色とりどりの花が咲いていた。広場の片隅には遊具があって子供達が遊び、緑の木陰の根元には一休みするのにちょうどよいベンチがあったりした。

 おばあさんの住むアパートは5階建てで、長年の風雨にさらされて壁に汚いしみなどがついていた。しかし建物のつくりは、古い割りに一風しゃれていて、例えば南面が一部屋ごとにジグザグに大きく出入りしていた。そのため一世帯あたりの窓の数が多くどの部屋も明るかったのだが、その窓の一つ一つにしても位置や形に建築家の工夫が感じられて、ちょっと良い雰囲気をかもし出していた。ただ残念な事にはエレベーターがなかった。おばあさんの部屋は3階にあり、足の悪い老人には階段を上下する事などとても無理なことだった。

 玄関チャイムを鳴らすと、往診かばんを手にぶら下げたまま、そこでしばらく待つ事になる。おばあさんはベッドに横になっている事が多かったから、起き上がって壁伝いに玄関の所まで来るのに時間がかかった。ドアが開くと、その隙間から風がすり抜けてきて、笑顔のおばあさんが立っている。ゆっくり部屋について入ると、窓からは大きな木の梢が見えた。雨や真冬でなければ、おばあさんはいつもその窓を少し開けて風を通し、一日中木の葉のそよぎを聞いていた。壁には 夢 と一文字書いてある色紙が飾ってあった。

 そしてあいさつもそこそこにおばあさんはすぐに思い出話をはじめるのだった。

画像


 私は**県の、小さな町に生まれました。町のはずれからは田畑がつづいて、その先の山の斜面にはみかん畑が広がっていました。そのみかん畑の間の道を登って山の上にでると、そこから町が一望できて、遠くには海が見えました。本当の田舎ね。うちは古くからの大きな家で、建物がいくつも廊下でつながっているようなつくりで、江戸時代からの古い道具があちこちに置いてあった。あんまり邪魔だから家の人がみんな捨てようとしてまとめていたら、県の博物館が引き取りに来てみんな持って行きました。だからうちの道具はいまでは博物館に並んでいて、いつでも見ることができるのよ。

 子供のころは外で遊んでいるのが好きで、一日中男の子と一緒に走り回っていました。よく服を汚して帰ったので、家の皆からおてんば娘って言われてました。家の中でおとなしくするように言われても、とにかく外で遊びたいのね。もちろん友達の家の中で遊んだりもしたんだけれど。ある時近所の子供たちを連れて、探検隊だって言ってミカンの山の方を歩いていたら、ちょっと迷ってしまって、帰るのが遅くなったことがあったのよ。大人たちがたくさん集まっていて、父が頭を下げていて、別にけがした子供がいたわけじゃなかったんだけれど、あとでとてもしかられたわ。

 父は町の顔役で、なにか行事があると必ず呼ばれてました。寄りあいだの、祭りの準備だの、議会だのっていってしょっちゅう家を空けていました。時々人を連れてきて、お酒を飲んだりもしたけど、レコードもよく聴かせていたわね。みんな静かに座らされてね、父は大事そうにレコードを取り出して、昔浅草で見た歌のお芝居の話なんかをひとしきりした後、いよいよレコードに慎重に針を下ろすのよ。すると埴生の宿とか庭の千草とかベートーベンのなんたらとかがはじまるわけ。妹なんか退屈がってたけれど、そんなことはないわ。さんざん東京の話を聞かされて、それで私もいつか東京に行きたいって思うようになったのね。

 母は厳しい人で、挨拶にしても食事の作法にしても、それはうるさく言われました。その代わりこちらの言うこともきちんと聞いてくれて、良いことは良い、悪いことは悪いと親身に教えてくれるやさしい人でした。でもね肝臓を悪くして、病院に行ってみたんだけれど、戦争中でしょ、病院にいても大したことができるわけではなくて、入院してもいいが、家にいてもあまり変わらないよって先生に言われて、それで家に帰ってきました。家の離れを病室にして、私と妹とで面倒をみていました。順番に食事を作って、夜は添い寝をして。母は気丈な人で、足がむくんでおなかに水がたまっていても、愚痴一つ言うわけでもなく、いよいよ具合が悪くなっても最後までトイレに歩いて行っていました。こちらが支えていってではありましたけれども。私は学校と看病とで疲れていて、眠気にどうしても勝てなくて、ついつい母のそばで突っ伏して眠ってしまったのね。夜中に名前を呼ばれた気がして、頭をなでてくれた気がしたんですけれど、とにかく眠くて起きあがれなかった。そのまま朝が来て妹が朝食を持ってきたときには、私が寝ているそばで、母は亡くなっていました。妹の大声で私は目を覚ましたんだけれど、私が眠っている間に母はいってしまわれた。最後に私の名前を呼んで頭をなでてくださった、眠くて起きれなかったんだけれど、おかあさんは私のあたまをなでてくださった・・・

 戦争が終わってしばらくしたら、東京にいたおじさんが遊びに来ないかって言ってくれたの。私はいてもたってもいられなくなり、父にせがんで、3か月の約束で東京に行くことになりました。そこの奥さんがあちこちに行くのが好きで、わたしをいろんな所に連れて行ってくれたのね、映画はもちろん絵を見に行ったりだとか観劇だとか、知り合いに有名なバイオリンの先生がいて、そのお宅にお邪魔するとグランドピアノがおいてあって、バイオリンも本物でしょ、びっくりしたわ。私はダンスが好きでよく踊りに行きました。汗だくになって踊って、それはもう楽しくて楽しくて。3か月なんてあっという間、もちろん私は故郷に帰る気はありませんでした。そのうちどうしても帰って来いと言われたことがあったのね。家に帰ると父が待っていて、きれいな服を着させられて、二人で町一番の料理店に行ったんだけれど、まあ大した店ではないのよね。父のお友達と言うのに偶然あって、その息子さんと4人で食事したの。お見合いだったのよね、わかってはいたけれど。相手の人のことはよく覚えていないんですけれど、その人と結婚したらずっと田舎にいることになるし、私には結婚する気なんか少しもなかった。それに駄目なのよ。靴なの、靴。靴に泥が付いてきたなかった。それが嫌で、あとで、父にいやだって言ったの。お見合いにあんな汚い靴をはいてくる人なんかいやだって。父も気にしていたんじゃないかな、何も言わなかったわ。

 私は東京に帰りたくて帰りたくて、どうしても東京に行くって言ったの。みかんがたくさんなっている間の坂道を高いところまで登って、小さな町を見下ろして、これで見おさめ、ここにはもう絶対に帰らないって決めたの。ああもちろんあいさつに帰ることはあっても、この町には住まないってことよ。

 それで東京に帰ってきたら、またすぐ縁談があってね。東京で遊んでばかりいたので周りが気にしたのかしら。今度は東京の人で、相手のお父さんと言う人が陸軍の軍医でかなり偉かった人よ。そこの棚の上に額縁に入った写真が2枚あるでしょあるでしょ。馬に乗って軍服を着て、腰には軍刀をさしている方。それがお父さん。もう一枚は、コートを着て立っている人がいるでしょ。それが私の夫。背はそんなに高くはなかったんだけれども、がっちりしていて頼もしい感で、柔道していたってことであいさつもきちんとした礼儀正しい人だった。東京の大きな家に住んでいて、すごく立派な家族で、これはまちがいなくいい話だって周りも勧めるし、口下手だけれどやさしそうな人だったのでそんな気になったのね。だから決めたの。結婚してみると、本当に口下手で、おしゃべりをしない静かな人でした。私が話しているばっかりでしたね。

 時々講道館に柔道にいってたわね。私も一度見に行った事があったけれど。休みの日にはいつも着物の帯に黒い汚い帯をしていてね。あんまりぼろになっていたものだから、ある時主人がいない間に捨てちゃったの。そうしたら帰ってきて早速あの帯はどうしたって聞くのよ。あんまり汚いから捨てました、って言ったら、怒ったこと怒ったこと。あれは柔道で初段をもらったときの思い出の黒帯なんだって。いつまでも怒っていたわね。でも怒ったのはそのときくらいかしら。柔道しているのに、おとなしい人で、とにかく本が大好き、というよりも活字が大好きな人だったの。

 休みの日なんか、朝起きたら新聞を1面から最後まで広告に至るまでたんねんに全部読んで、それから本を広げて、一日中本を読んでいる。どこかに遊びに行っても本を手放す事はなくて、何を見るというのでもなく、行った先で本を読んでいるのよね。お花見に行っても本、旅行に行っても本。それなら家に居たって同じ事じゃない。私はダンスが好きだったので連れて行ったことがあったんだけれど、踊ろうともしないでやっぱり本ばかり読んでたわね。君はこういうのが好きなのかって、二度とこなかったわ。買い物のときなんかはいいのよ。デパートに行って、出入り口近くの椅子に座って、私が買い物している間本を読んでいるのよ。お友達と一緒にあちこち回って、買い物して、お茶を飲んでおしゃべりに興じて、それから戻ってくるとやっぱり同じ場所で本を読んでいるのよ。何時間もたっているのに、もうすんだのか、ですって。そういう人。

 さすがに映画館では暗くて本が読めなかったけれどもね。主人の友達に映画館を経営している人がいましてね。夫婦で行くと裏のほうから入れてくれて、ただで映画を見せてくれました。よく行ったわ。そのうち私一人でも、やっぱり裏のほうから映画館に入れてくれた。すらっと背の高いおしゃれな人で、いろんなことを知っていておしゃべりが面白い人でした。いろいろ連れて行ってくれたわ。喫茶店から銀座のお店とか展覧会とか観劇とか。音楽会で、子供の頃家のレコードで聞いた曲を、本当の人の声で聞いてびっくりしたのを覚えているわ。君よ知るや南の国、ってご存知かしら。

 楽しくて、素敵で、やさしくて。私は夢中になったのね。

 あるとき、公園で待ち合わせをしてして彼と会っていたら、彼の奥さんが来たのよ。後をつけていたのね。池の見えるベンチに3人で座らされた。彼は真ん中で彼の右に奥さん、私は左側。奥さんは思いつめたこわい顔をしていて、私はもうだめだって思ったの。奥さんは彼に言ったわ。みんな知ってるって。めそめそしたくはないから、今すぐ決めてください、私を選ぶのか、この人をとるのかっていう事を。この人のほうをあなたが選べば、私はきっぱりと身を引きます。ってね。よくもそこまで言えると思ったわ。そうしたらね・・・・・彼は言ったわ。僕は家庭を取りますって。・・・・わたしは涙が止まらなくって、2人が帰った後もずっとベンチで泣いていた。どんな顔をして家に帰ったのかしらね。私の夫は何も言わなかった。みんな知っていたみたいだけれど、なぜ何も言わなかったのかしら。それから何年かして、映画館を経営していた彼は交通事故で亡くなったって聞きました。

 そのうち子供が生まれて、土地を買おうとしたときにだまされて財産を失ったりとかいろいろありました。このアパートができたときに応募したら抽選で当たったの。それからここにずっと住んでいる。
お友達がたくさんできて、お茶の先生のところにみんなで集まって会をしたり、歌舞伎を見に行ったり、北海道に旅行したりしてね。それはもう楽しかった。
夫は糖尿病の持病があって病院通いをしていました。心臓も悪くして脳梗塞になって、私は長い間看病をしました。最期は急だったんですけれど、その亡くなる何日か前だったでしょうか。あまりおしゃべりもしない夫が、不自由な体でやってきて私の顔を見て、今までありがとう、って言うのよ。何の事だかわからなくて、びっくりして私笑ってしまったんですけれど、虫の知らせとでも言うんでしょうかねえ。いままでありがとう、ですって。私にそう言ったのよ・・・


 思い出す事は楽しい事ばかり。本当に楽しかったわ。私はこのままここに居るのがいいの。施設に入れだとか、息子が一緒に住もうって言ってくれているんだけれど、私はいやなの。お母さんの部屋を作ったから来てくれとまで言うけれど、お嫁さんのこともあるし、やっぱり自由じゃなくなるでしょ。ここはいいところよ。木が多くて、近くには公園があって散歩するのにいいし、お友達もたくさんいるの。死んじゃった人も多いんだけれど、今でも遊びに来てくれるのよ。ここが一番いい所なのよ。

画像

 夏のさかりのある暑い日のこと、訪問看護師から私のクリニックに連絡があった。おばあさんが部屋の中で倒れていて、動けなくなっている。意識がやや朦朧としていて脱水を起こしているのではないか、足を痛がるので転倒して骨折したのかもしれない、とのことだった。やっぱり入院はしたくないと言い張っているのだと。 息子さんを呼び寄せるように看護師に指示をして、残りの午前中の外来を大急いで済ませた。そして夏の焼けるような陽の光を浴びながら、自転車で御自宅のアパートに自転車を走らせた。それまで息子さんに面会した事がなかっから、もし息子さんがすらっと背の高いハンサムな人だったらどうしようか、などといらぬ心配をしていた。アパートの部屋に到着すると看護師が待っていた。部屋の中は暑かった。というのも、おばあさんは冷房を嫌っていていてヘルパーさんが冷房を入れても帰ったあとスイッチを切ってしまっていたからだ。開いている窓からも風が入る事はなく、濃い緑の木枝が強い光の中でじっと動かないでいた。
 おばあさんはベッドの上に斜めに仰向けに寝ていて目をつぶっていた。私が、どうしました、と聞くと不明瞭な発語で、大丈夫だ、と言う。しかし歩く事はもちろん起き上がる事もできそうになくて、少し体を動かすと痛みで顔をしかめた。たぶん右大腿頚部あたりの骨折で、一人暮らしでこれでは入院してもらわないとなんともならない。まもなく到着するはずの息子さんを待って一緒に説得する事にした。息子さんはまもなく現れた。息子さんの顔を見て私は思わず笑いそうになった。背は低くずんぐりとして、目鼻だちまで額縁に入ったおばあさんの夫の写真の人に、おかしいほどよく似ていた。何か気が抜けたようにほっとしながら、私は息子さんに病状説明をし、二人がかりでおばあさんに入院しなければならない事を話した。とうとうおばあさんはしぶしぶながらも同意されたので、私は懇意の病院に電話をかけ、緊急入院の手はずを整え、救急車を呼んでその間に紹介状を書いた。救急隊がどやどややってくると、隣の人が心配そうに顔を出してきた。担架の上に乗ったおばあさんの手を握って、また元気になったら帰っておいでね、また同じように往診するからね、と話しかけ、おばあさんは救急車に乗り込んで行った。アパートの周りではセミがやかましく鳴き、の木々は緑が濃く生い茂り、地面に強い影を落としていた。近くには百日紅の花が見事に咲いていた。

 それから1ヶ月以上はたった後だったろうか、病院から一通の報告書が来た。そこには骨折治療をはじめたもののまもなく肺炎を合併し、回復する事もなく亡くなったことが記されていた。かなりの高齢と、もともとの持病、この夏の暑さ、それを考えればこういう結果もやむをえない事であったのかなと、私は思った。それから何年かがたった後、古いアパートは取り壊され今ではそこに高層のアパートが何棟も並んでいる。木々は間引きされて、昔の面影を残すものはほとんどなくなってしまった。


ああ 恋しき国へ
逃れ帰る よすがもなし
わが懐かしの故郷
希望満てる国
心憧るる わが故郷

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

r.
2012年08月16日 23:46
いつも心の底に響くようなお話ありがとうございます^^
ミニヨンはとっても素敵な曲ですね♪
私も日記に上げさせて貰いました(*・人・)

この記事へのトラックバック