シュルレアリスム展 国立新美術館

国立新美術館にシュルレアリスム展を見に行った。

 ダダやシュルレアリスムという絵画運動は、まず古い価値観や概念を壊すことを目指し、そのためなら何をしてもOKであったようにみえます。それまでのアカデミックな絵とは全く違う、やりたい放題、すき放題の世界なのではないでしょうか。だから絵を鑑賞する側も、すき放題に感じて考えて、どんな妄想をたくましくしても、それこそが正しいシュルレアリスム鑑賞法なのだと私は思います。というわけで、以下の文章はすべて絵を見ながらの私の空想です。空想は容赦しないのです。

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キリコ ある午後のメランコリー
 前面に描かれた2つの食用アザミは、キリコの堅くとがった心が2つに分裂していることを表している。それはキリコが現世界になじむことができず、自分を分裂したものとして感じていたからに違いない。遠くで出発する汽車は、それに乗っていけば、どこか本当の世界、自分が自分のままでいられる世界に行き着くのだという作者の願望を現している。キリコは、自分はここにいない、この世界の住民ではないという感覚に苦しめられていて、それから遠く離れたかったのだろう。彼の絵にぬくもりや、生きた人間が表れないのはそのためである。

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アンドレ・ブルトン
 アンドレや、アンドレったら、聞いてんの、なにボーっと突っ立ってんの。あんた、額に何つけてんの、トンボ?おまえは虫取りが好きな子だったけれど、いい年をしてまだ虫取り・・・ああっ、トンボの足がない!おまえトンボの足もいだでしょ、そんなかわいそうなことをして。お前は本当はやさしい子よ、お医者様になるはずだったのに戦争ですっかり頭がおかしくなって、トンボを殺して額にはっつけて窓の外をボーっと見てて。勝手なわがままもいいかげんにしなさい。もう母さんはね、なさけないったらありゃしないよ、アンドレ、こら返事をなさい、アンドレッ!

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アンドレ・マッソン 採光窓
 アンドレ・マッソンの絵は今回たくさん来ているのですが、年代によって作風ががらりと変わります。もしかすると同一人物の作品とは気付いていない人が多いのではないでしょうか。1920年代のキュビズムやオートマティズムの絵、1930年代の殺戮や人間性の解体をテーマとした絵、1940年代以降のほとんど抽象画といえる絵まで、これが同一人物の絵とは信じられないほどです。と言う私もあとからそれに気がついたのですけれど。
 この絵をじっくり見てみましょう。大地の奥深く、プリズムの光の中で眠っているのは、彼の傷ついた心です。彼は第一次世界大戦で悲惨な経験をして精神的に深く傷つきました。戦争の記憶自体があまりに悲惨であったので、この絵を描いた頃の彼は記憶を意識から切り離し、大地の奥深くに埋め込んでいました。そうしなければ、彼は心の平衡を保って生きていくことができなかったからです。穏やかなプリズムの光の中で彼の心が深く眠り込んでいる間は、すべてが静かで、調和が取れていました。これは美しい絵です。しかしこのまどろみは長くは続きませんでした。人々から戦争の記憶が薄らいでいくのに耐えられず、彼は目を覚ましました。自分の記憶、心の傷と対峙し、それを解決するために絵を描き続けたのです。破壊的な、暴力的な絵画を描かざるを得なかったのは彼が彼の心を取り戻していく過程に必要なことでした。多彩な彼の絵は彼のとぎれることのない苦しみの表現でした。彼の絵はすべて、PTSD(外傷後ストレス障害)患者の回復の記録と解釈することができます。彼が絵画を破壊したのではありません、彼が戦争に破壊されていたのです。戦争に破壊された心を持つ者が、どうして落ち着いた普通の絵など描けましょうか。

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マン・レイ 森の中の工場
「この絵をごらん、あなたはこれが何を描いたものかわるかね?」
「まあ、これはいったい何なのでしょうか先生、私には少しもわかりませんわ。」
「ヒントはねえ、この黄土色の大きく曲がる線じゃよ、よく見てごらん、女の人の腕や足の線のようだとは思わないかい」
「そういえば、女性的なラインですね、先生。」
「そうなんじゃよ、これは女性を描いているのだよ。そして中央にあるYの字をさかさまにしたような記号、これは何だと思うかね?」
「え?、先生、タイトルが森の中の工場なので、これは工場の建物なのではありませんか?」
「それでは先ほどの女性のラインと結びつかないじゃないか。じーっと見て考えてごらん。この記号の下半分はね、・・・女性の下半身を表しているのじゃ!付け根には穴も開いている。」
「・・・・・」
「そして上に伸びるのは、穴に入った***をあらわしているのじゃよ。渾然一体となっておるじゃないか。そして画面いっぱいに広がるぎざぎざ模様、これはピストン運動の表現じゃな。もしくは左下から右上へうごめいていく精子の大群とも解することができるかのう。これでもうわかったじゃろう、森とは女性の下の毛のことで、工場からできるのが人類と言うわけじゃ、ぶあっはっはっは。」
「セクハラはやめてください、私は帰ります!」

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ジョアン・ミロ シエスタ
 スペインではプラナリア(原始的な生物、切ってもそれぞれが再生してくるので有名)さえも昼寝する。午後4時、2時間のお昼寝から目覚めたプラナリアは黒雲をみて雨の予感で幸福になる。風が吹くと雨の水たまりに波が立つって、まあそこまで考えるのはちょっと気が早いのではないかい。おっと風で時計の秒針が飛んでしまった。くるくる転がりながらいってしまう。ちょっと待ってくれよー、この時計こわれたらあしたの朝困るんだけどー。

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ヴィクトル・ブローネル 欲望の解剖学
「キャー、へたねー。高校生が書いた落書きみたーい」
「いや、そうじゃないんだよ。なぜ彼がこんな絵を描いたのかといえば、彼らが絵画を描く新しい方法を探していたからなんだよ。それまでの普通の絵の描き方はね、数百年にわたって洗練されてきた方法だったんだけど、シュルレアリスト達はそれをこわそうとしたんだね。伝統的な描き方をされる普通の人間社会の絵画の世界は、すでに第一次世界大戦が壊してしまっていたからさ。」
「えー、よくわかんなーい、だから落書きでもいいってわけー?」
「だからー、とにかく新しい方法が必要だったんだよ。彼らは試行錯誤をいっぱいして、遊びみたいなことや、落書きみたいなことも大真面目でやってたんだ。たとえば何も考えないで線を描いてみるとかさ。その中に芸術の新しい道があるんじゃないかって。真剣だったんだよ、これでも。この時代、古い方法はもうだめだって思ってた人も多かったから、結構こんなのでも注目されたのさ。」
「でも馬っ鹿みたい。いやらしいしー、やっぱへただしー」
「こういった新しい表現をすること自体がさ、価値があるってことになって、現代アートにつながってくんだよな。こっちの絵を見てよ、ブローネルの絵は何かとつながっているのが多いだろ、人と物とか、人と人とか。彼はね、新しい絆の表現をめざしていたのさ。だからさー、もっとそばに来て一緒に絵を見ようよー、新しい絆を作ろうよー。くっつきあって絵を見るのが一番だよー。ほらほら、もそっと、もそっと。」
「おじさん、へんたーい、ひとりで何してんの。」

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サルバトール・ダリ 部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの6つの幻影
 これはサクランボを食べ過ぎたダリ氏の幻覚である。幻覚であるので、現実と異なるいくつかの問題点が指摘される。
 このピアノ、まず鍵盤がおかしい。黒鍵は2本と3本のまとまりが交互に並んでいなければならないが、そうなっていない。だいたい鍵盤の数が少なすぎる。本物のピアノは88鍵であるが、私が数えたところ、この絵では多く見積もってもせいぜい50鍵だ。
 次に書見台。台がないのにどうやって楽譜を立てているのか、全く不明である。台は楽譜に隠れているとでも言いたいのか。
 そしてフットペダルがない。ペダルが無くてどうやって演奏しろと言うのだ。演奏が、醤油とわさびのない刺身みたいになってしまう。これでは子供用の調子っぱずれのおもちゃのピアノではないか。
 まだあるぞ。ドアが出口に対して大きすぎないか。ぴったり閉まらなければ防犯上重大な問題になる。わかっていながらそのようなドアを取り付けたとすれば、重大な過失であり、悪質である。
 そして絵の主題であるレーニンの幻影であるが、左の2つが右の4つに対して小さく見える。なぜか。ダリ氏はすでに死亡しているので、その理由は永遠の謎と言わなければならない。
 諸兄もすでにご存知のこととは思うが、サクランボは女性の象徴である。食べすぎは病気をもらうかもしれず、体に毒なのである。えー、蛇足ではあるが、よだれかけは胸に着けるのが正解である。間違えて背中につけてしまうと、全く役に立たないのである。

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イヴ・タンギー 夏の4時に、希望・・・
 あたしは鼻毛、働き者の鼻毛。でも誰もあたしのことを見てくれない。だいじな恋人の体をじっくり見る男でも、彼女の鼻毛を見ることはしないでしょ。
 あたしの仕事はご主人様のために空気をきれいにすること。暗いさびしいところで、24時間働きづめに働いて、体がだめになったら人知れず抜けて落ちてしまうの。どんなに心を尽くしてあげても、あたしの身体は汚いってご主人様は見ようともしないで、あたしをごみのように捨ててしまうの。しかたがないわ、あたしはバカだから。だから先のことはできるだけ考えないようにしているわ。・・・あたし、ときどき空想するの。風に吹かれて、ふわふわと、空想のそらに、空想の海の中にただよっていくの。雲さんを触ってみたり、おさかなさんといっしょに泳いだりするの。すてきでしょ。泣いたりしないわ。涙なんかでないわ。だってあたしは鼻毛なんですもの。
 こんなあたしをわかってくれたのは、タンギーさんだけよ。あたしのことをかわいいって言ってくれて、絵を描いてくれたの。あれは夏の日の午後だったわ。どんな時にも希望はあるって、なぐさめてくれたの。あの時はとてもうれしかった・・・。

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パブロ・ピカソ 横たわる女
 ピカソが女性に何を求めていたのかがよくわかる絵。純潔のしるしの白い花を持って目をつぶり、喜びにのけぞる女。画家の目の前にあるのは二つの乳房と性器と殿部。ピカソは彼が女性に求めているものを素直に表現した。男にはごく普通にあるありきたりな性欲。彼はそれを楽しんでいる。シュルレアリストの絵の中では、ピカソの絵はとてもノーマルで健康的だ。

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マックス・エルンスト 最後の森
 エルンストは普通の人が行けない未知の世界に、自分の眼球を浮遊させる特殊な力を持っていた。その眼は空を飛び、文明の光が届かない深い森の中へ行く。みちもうりょうや得体の知れない化け物が跋扈し、植物がぬらぬらとうごめいている太古の森のなかに現われる。地球が汚染されて人類が滅亡した後の森の中に浮かび上がる。さらには人間の意識の光の届かない人間心理の深い奥底にある森の中をのぞきこむ。この絵の中に見える丸いもの、それはエルンストの眼球の虹彩である。光の加減により中央の穴を大きくしたり、小さくしたりしながら、彼は森を見る。森を通して絵の鑑賞者を見る。鑑賞者は浮いている眼球で絵の裏側から見られているのを知らない。何かえたいのしれない気配を感じて目をそらせてしまうばかりだ。エルンストは1976年に死んだ。虚ろになった自分の眼球を森の中に残したままで。
 エルンストの死後この絵を管理する美術館員は、この絵を見るたびになにか違和感を感じていたが、それが何だかはわからなかった。ある日、いつものように館内を巡回していた彼女はこの絵を見て愕然とした。この美術館に持ち込まれた時は森はまだ下の方にあったはずだ。その森が、少しだけ枝を上の方へ伸ばしてきている。彼女は自分の頭がおかしくなったと思った。しかし、彼女が絵を見るたびに森は少しずつ少しずつ成長していった。いまでは丸い輪の部分にからみついて、さらに上に伸びようとしている。もうまもなく絵の中は森でいっぱいになるだろう。いずれ森は絵の外へと広がっていく。この絵がかけてある壁から美術館全体へ、さらにはその外へと。世界の終わりの日まではまだ長い時間がある。

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 デューラーの有名な版画メランコリアは不可解な謎に満ちています。デューラーはいたずらっぽい目を輝かせて描き込みながら、この版画を見るだろう人たちに対し、さあどれだけのことがわかりますかな、と謎をかけました。そして黙ったまま死んでしまったので、今ではよくわからない絵になっています。シュルレアリスムの絵は一見わかりにくそうに見えますが、描かれた時期が現在に比較的近い民主主義という我々と一応同質の社会でのことなので、理解しやすい一面もあるのかと思います。私達は、このシュルレアリズム展の作品よりも、もっと神経を逆なでする「芸術」なるものをもう見てしまっているので、これらの絵は今となっては昔ほどの衝撃度はないでしょう。新しいものほど、早く古くなってしまうのですね。
 追伸 マグリットの絵だけは空想が働きませんでした。絵を見ていても、「ハイハイあなたのねらいはわかりました。それでどうしたんですか・・・」と後が続いてきません。私にはあわないんですねえ。

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