デューラー展を見て

上野の西洋美術館でデューラー展を見た。(会期終了)
アルブレヒト・デューラー版画・素描展 宗教/肖像/自然
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/durer201010.html

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は古い時代の人だ。マルチン・ルター(1483-1546)は彼よりも10歳若い。免罪符を非難した文章を、ルターが教会の扉に貼り付けて宗教改革がじはじまったのが1517年。15から16世紀に生きた人である。キリストの受難の持つ意味が、いまよりもずっと重い時代。まともな人間なら、信仰心が厚いのはあたりまえの時代。それでいて教会が堕落していた時代。宗教の持つ重要性がいまとあまりにかけ離れているので、私には理解できないものがたくさんある。当時の信仰というものが私の認識の境界線の向こう側にあるので、細かいところまで描かれたキリスト受難の銅版画を見ても、15世紀の人間のように感動できないのが残念である。
デューラーは銅版画での印刷技術という当時は革新的な手法を用いて、キリスト受難の物語を描いた。誰もやったことのないことを、人々にとって有意義に違いないと確信しながらする仕事は面白かったろう。まあそれにしても細かいこと。先達の画家たちが受難の物語の約束事の画像を作っていたとはいえ、もともと素材としての聖書のテキストを、文字情報から細部までこだわるいきわたるイメージに転換する想像力がすごい。どうしたって版画にずっと近寄ってじっと見てみたくなる。デューラーもまた銅版に顔をこすり付けるように近寄って、カリカリ、カリカリと線を彫っていたのだろうと、その姿を想像していた。
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近代社会が成立するまでは、芸術家は支配者たちに迎合的である。近代に入り一般市民が裕福な時代になると、支配者に頼る必要がなくなり、支配者を批判的に見るのはあたりまえになってくる。デューラーが手放しで支配者を賛美しているのをみるとがっかりしてしまうのだが、それはしかたのないことであった。富の集中がなければ、芸術は成立しない 貧しいものから搾取し、それが支配者の下に集まる。富める者、持てる者がその慰みものにするために、芸術家を庇護し、芸術品を集めるのである、まるで自分を豪華な服で装い、高価な宝石の指輪をして、一流の家具で家を飾り立てるように。マクシミリアンの凱旋門はそういったものだ。個人崇拝そのもので、いかにデューラーの作品といわれても、つまらない。支配者がいたからこそデューラーは絵を描けた訳なのだけれども。
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しかし芸術はもちろんそれだけに収まらない。高価な指輪と芸術の違いは、芸術は支配者や人間というものの本質を暴き出してしまうことにある。マクシミリアンの肖像画ではちょっと冷たそうな、そう簡単には笑ってくれそうにない支配者の顔がある。
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ピルクハイマーの肖像は思慮深げに、ちょっとかっこよく描いてある。彼はデューラーのおさななじみで、のちパトロンになった人である。デューラーの彼宛の愉快な手紙が伝えられている。
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ピルクハイマーの資金援助によりイタリア留学したデューラーの、ヴェネチアからの手紙。

(以下引用)
1506年8月18日
世界最偉の第一人者にして志操大度なるヴィリバルト・ピルクハイマー様に貴兄の従者また下僕なるアルブレヒト・デューラーが御挨拶申し上げます。忠誠と喜悦の中に私は大きな満足を持って貴兄の御健勝と御名誉につき拝承仕りました。貴兄御一人にてかの老獪きわまるトライシブーロスの許多の強者どもを相手に大勝利を収められました次第には驚き入っております。げにもそれはひとえに神の恩寵のなすところでありましょう。この身の毛もよだつ淫蕩面についてのお手紙を拝誦いたしました節には、大きな恐怖心が私を捉え、それは徒ならぬことと存じた次第であります。
 しかしショットの徒党も貴兄を畏怖したことと思います。何故なら貴兄が特に宝物展観の会場で跳舞を踊られると猛々しく見えますからね。しかしこんな傭兵たちが麝香で化粧するなんて全く平仄が合いません。貴兄はまたほんとうの伊達男になろうとなされ、それで浮気女たちのお気に召せば一件落着とお考えです。貴兄がもし私のような優しい男になられたらこれほどまで私の癇に障ることもありますまいに。貴兄はたくさんの綺麗どこロを抱え一人ずつ一回対手になさっても、一月あまりでは済ませることができないほどでおいでです。(以下略)(デューラー 自伝と書簡 前川誠郎訳 岩波文庫)

酔っ払って書いたのではないかと思えるほどの脱線ぶりである。よほど親密な関係だったのだろう。ピルクハイマーは学問好きの人文主義者とあり、デューラーにとっては申し分のないパトロンだった。こういうところまでくればデューラーは、私の認識の境界線より内側まで来ている。

以下は蛇足。
聖家族の絵を見ていつも思うことがある。キリストとマリアがいつも中央にいて、ヨセフはつけたしである。いつも控えめ、影の存在。夫婦としてはものすごく年が離れていて、いかにも不釣り合いなカップルである。美しくて若い妻が子供を産んだがヨセフには身の覚えがない。かみさんを寝取られて、激高してしかるべきなのだが、相手が神様とくればすごすごと引っ込むしかない。二人の年の差が大きいのは、ヨセフが性的に不能で、マリアは処女のままだったのだ、という理由づけのためなのだそうである。マリアがヨセフの世話をしているという記録も絵画もない。では何のためにヨセフは結婚しようと思い立ったのだ?キリストとマリアのための慈善行為なのか?あんまり突っ込んでも意味はないのだが。絵の片隅のヨセフはいつもみじめに見える。ちぇっ、しょうがねえなあ、とぼやいているように見える。
デューラーの版画に不釣り合いなカップルという版画がある。これと聖家族の版画を並べてみた。
不謹慎この上なく、申し訳ありません。
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